其之五 -夢物語-
初めてダイビングした時の疲労を、波戸は今でも覚えている。
両手両足を必死に掻きまわし、しっかりと泳ごうとしたはいいのだが、慣れない筋肉を使ったせいで、夕方には強烈な全身疲労に襲われたのだ。
温泉の湯舟に浸かりつつ、沖縄に誘ってくれた先輩に筋肉痛の相談をすると、彼はからかい笑いを浮かべながら「ダイビングでは無理に泳がなくてもいいのに」と教えてくれた。
翌日のダイビングが、まったくの別物に変わったのも、今でも覚えている。
呼吸も体勢も気にせずに、のんびりと水中をたゆたう。
海の一部となったかのように流れに身を任せる。
すると、昨日までは見えなかった景色が、波戸の前に飛び込んできたのだ。
水面のリズムに合わせてゆらぐ陽光。
色鮮やかな岩石と珊瑚に彩られた海底。
妖艶に輝く南国の魚。
あの二日目こそが、スキューバダイビングに魅了された日だった……。
「……おい、ぼーっとしちゃってどうした。まだ潜り足りなかったか?」
投げかけられた声に、波戸は顔を上げる。
声の主は、店長の板垣だった。ボートの運転席から半身で振り返ってこちらを見ている。
「いえいえ、今日はもう十分潜らせてもらいましたよ。出してください」
「はーいよっ」
板垣は軽い返事と共にハンドルを握った。程なくして二人の乗っているボートが大きく揺れ、激しい水切り音を立てて、出発地点の海岸へと戻り始める。
「海岸まで、三十分ってところですかね」
「そうだが、どうかしたかい?」
「土浦君に、昼飯にソーキそばを作るって約束していまして」
「着岸後の移動時間を考えても、多分十一時には家に戻れるよ。大丈夫」
板垣はボートを運転したままで答えた。
胸を張って明朗な喋り方をする男で、よく陽に焼けた肌が特徴的だった。
年齢は四十歳くらいだと笹部から聞いていたが、振る舞いに活気があるからか、もう少し若く見える。
「波戸君は、福岡の人だったね」
「あ、はい」
「向こうでもダイビングを少しやってたそうだけど、沖縄と比べるとどうだい」
「全然違いますね。もう、何もかも沖縄が良いですよ」
「べた褒めだな。やっぱり、こっちの方が澄んでいるかな」
「それもあります。でも、なんと言うのかな……充実感がまったく違います」
「ほーう。充実感ときたか」
「こっちの海の方が、俗世から解放してくれるというか……
非現実的な美しさを目にしていると、嫌な事を全部忘れられるんです」
「とすると、波戸君は、嫌な事があって沖縄に来たわけかな?」
「それは、ええと……」
「恥ずかしがらなくてもいいよ。そういう人はお客さんにも多いからね!」
板垣はそう言うと、大声で笑い飛ばした。
釣られて、波戸もつい口元を緩めてしまった。
「……ええ。沖縄へは現実逃避しに来ました。
仕事に疲れて、沖縄のゆるい時間に浸りたくなったんですが、正解でした」
「なら良かった。
なんだったら一ヶ月と言わず、ずっと働いてくれても構わないんだからね」
「ありがとうございます。前向きに考えます」
板垣がウェルカムの姿勢を見せてくれているのは嬉しかった。
仮に移住となると、やはりネックとなるのが仕事だからだ。
もちろんプログラマーの経験を生かすという手もあったが、沖縄に移住しながら同じ仕事では本末転倒である。
「……そういえば、笹部さんから聞いたんですが、支店を増やすかもしれないって本当ですか?」
「ああ。その方向で話を進めてるよ」
「もう決定事項なんですか」
「せっかくだから、沖縄本島に二号店を持ちたいと思っていてね。
店舗や機材は大体揃っている。あと二ヶ月……七月にはオープンする予定だよ」
「本島の方ですか。じゃあ、板垣さんは行ったり来たり大変ですね」
「そう。そこが問題なんだよ!」
板垣の声量がまた上がる。問題の大きさを示すかのようだった。
「いや、向こうは弟に任せる予定だから、俺が頻繁に行き来はしない。
……だが、弟も初めての経験だからね。
誰か補佐してくれる人がいた方が良いのに、今のところ候補者がいない。
そこが問題というのは、人手が問題、ってわけさ」
「じゃあ、さっき俺に言ってくれた、ずっと働いても構わないってのは……」
「ご明察。その役目に期待しての事だ」
「はぁ。なるほど……」
微かに眉をひそめながら、とりあえずの返事をする。
仮に自分が補佐に就くと考えると、気が重い。
ダイビングショップの仕事自体は好きだけれども、今は楽だからそう感じているのかもしれない。板垣の言うような仕事を引き受けて、果たして同じ気持ちでいられるだろうか。
「笹部君に聞いたけど、真面目に働いているそうじゃないか」
「そりゃ、まあ。仕事ですから」
どうやら笹部の真面目ラインは低いようだが、胸を張って頷く。
サボってばかりです、と正直に告げる馬鹿はいない。
「感心、感心。これは期待大だな。
……とは言ってももちろん、すぐにでも支店を頼むわけじゃないよ。
時間はかかるけどライセンスは取ってほしいし、店の仕事も沢山覚えて欲しい。
それに、もう一つ大事な事があるから、そこを見定めさせてもらうけれどね」
「まだ、なにかあるんですか」
「責任感だよ。
ダイビングは究極の癒しと言っても過言じゃない、最高のマリンスポーツさ。
……だがその裏には、常に命の危機がある。波戸君も分かっているだろう?」
「あっ……」
つい、息を飲んでしまう。
仕事の内容にばかり気を取られていたが、ダイビングインストラクターには、人の命を預かる仕事でもあるのだ。
水中で客がパニックを起こしたり、機材にトラブルが発生する事もある。
海流に流されてボートとはぐれてしまう海難事故だって、起こりうる。
笹部が求めているのは、そんな状態を常々警戒できる人間なのだ。
「俺は思うんだけれどね。これらは教えて簡単に身に付くものじゃない。
その人が元来持っている人間性に寄る部分が大きい。
だから、最近はアンケートもやっていてね。
アルバイトへの印象は、お客さんからも拾い上げているんだよ。
土浦君なんか、結構評判がいいんだ。俺も期待している」
それは、分からなくもない。地味だが気は利く男だ。
自分も、客の前では勤勉を心掛けているけれども、果たしてどうだろうか。
「……俺、散々な評価だろうな」
「君は日が浅いから、まだ情報は集まっていないね。自信ないのかい?」
「ええ。俺は信頼されていないと思いますよ」
「その考え方は悪くない。
命を預かってもらうんだから、謙虚に捉えるくらいでちょうどいい」
そんなつもりじゃないんだがなあ。
「ま、期待しているよ。それよりボートのスピードを上げるよ。
のんびり話していたせいか、ちょっと遅れそうだ」
板垣がそう告げると、ボートの速度が一段階上昇する。
彼の話に漠然とした不安を覚えはしたが、波戸はその気持ちを海へ流すかのように水面を見つめた。
ここに来たのは、癒される為だ。責任を負う為じゃない。
今はそれよりも、昼に予定しているソーキそばの事だけを考える事にした。
◇
『まろやかな風味で、実に良い泡盛でした』
受話器から聞こえる天津の声は嬉々としていた。
泡盛の到着翌日にお礼の電話を掛けてくる辺り、酒が好きで仕方がないようだ。
「過去形か。まさか、もう全部飲んだわけ?」
『ええ、あっという間になくなってしまいましたよ。
本当にありがとうございました。
味も良いのですが、浮き玉を模した瓶も良いですね。目でも楽しみました』
「縄で編みこんだ瓶で、凝ってるよね。
島の酒屋で見つけて、すぐこれに決めたんだ」
そう返事をしつつ事務室を覗き込むが、板垣は何やら自分の仕事に集中しているようで受付には目もくれない。仮に電話を聞かれているとしても、人材派遣絡みの電話だから後ろめたくはなかった。
『で、本題ですが……その様子では、石垣島の生活は気に入っているようですね』
「ああ。一ヶ月経っていないけれど、決めた。このまま沖縄に住むよ」
躊躇する事なく、はっきりとそう告げる。
完全移住は元々視野に入れていたし、急いた判断じゃないはずだ。
沖縄のスローライフは、間違いなく自分に合っている。
ここで暮らす為に生まれたと言っても良いとさえ思う。
これまでの五年間、人と機械に囲まれて暮らしてきたのは、誤り以外のなにものでもなかった。
『気に入って頂けたのでしたら幸いです。
一応は一ヶ月待ちますので、その時に改めて、気持ちをお聞かせくださいませ』
「分かってる、分かってる」
軽くそう返事をしながら、受話器のコード毎、電話機を引き寄せる。
多分、この電話は元々、スマートフォンに掛かってきたのだろう。
だが、せっかくの沖縄を満喫する為、波戸は端末を福岡の自宅に置いていた。
SNSで沖縄生活を自慢できないのには後ろ髪を引かれたが、お陰で清々しい日々を送れているし、生活自体にも支障はない。この選択は正解だった。
『ただ、前のお仕事を辞められる時は、多少苦労するでしょうね』
「どんな仕事でも楽には辞められないだろうね。仕方ないよ」
『それだけではないのです。波戸さんの会社、今、大変らしいのですよ』
「大変? どういう事?」
『ちょっと、インターネットでやり玉に挙げられているようで』
「ふぅん」
天津が知っているとなると公開情報だ。
多分、別ラインで進んでいたタイトルの発売日延期の件だろう。
有名シリーズの最新作で、これまでにも何度か延期しているから、どうしても目立ってしまうのだ。
同僚達がワニのような濁った瞳をして、モニターと格闘している光景を想像すると、少しだけ罪悪感に駆られる。でも、そんな状態から抜け出したくて沖縄に来たのだと自分に言い聞かせ、すぐにその光景を打ち払った。
『ともかく、順調そうでなによりです。
それではこの辺りで失礼しますが……忘れてはいませんよね?』
「え? まだ泡盛欲しいの?」
『そうではなく』
ふぅ、と呆れた嘆息が聞こえてくる。
『制約と代償の件ですよ。ゆめゆめお忘れなきよう。それでは』
それで通話は終了した。
「電話はもういいのかい?」
受話器を置くと、レジで売上を計算していた笹部が待ち構えていたようで、すぐに声を掛けてくる。
「あー、今のは、なんというか」
「気にしないでいいよ。それより、ちょっとレジの仕事を覚えてみないかい?」
「新しい仕事……すか」
天津の念押しが脳裏をよぎったが、残業じゃないから問題ないだろう。
ただ面倒なので言葉を濁していると、笹部は自嘲するような笑みを浮かべて、予想外の言葉を投げかけてきた。
「頼むよ。俺が辞めたら、君と土浦君にやってもらう仕事だからね」
「や、辞めちゃうんですか、笹部さん!」
「今月いっぱいでね。実家の広島に帰るよ」
「急にどうして……。あっ。店長には話したんですか?」
「もちろん話したよ。そうした方がいい、と言われた」
笹部が広い肩を落として黙り込む。
波戸は、不安そうな表情で彼を見つめる事しかできなかった。
「……いいかい? 今から話す事は、決して君達が悪いわけじゃないんだが」
「俺達が……?」
背筋を伸ばしながらも、曖昧に頷く。
「このまま働いていても、俺は君達に仕事を取られると思っているんだ」
「俺が仕事を? まさか」
そんな切り口で来るとは思っておらず、慌てて首を横に振る。
むしろ、積極的な仕事が嫌で沖縄に逃げてきたというのに。
「波戸君がどう思っていようと、店長はそのつもりだと思う。
この数週間で分かったんだけれども、俺と君達の能力に差はないからだ。
俺が出来る仕事は、教えさえすれば君達でも問題なくこなせる……
だから、俺は必要ないってわけさ」
「誰がやっても同じなら、慣れている笹部さんがそのまま任されるはずです。
それに、支店を作るから人手が……」
言いながら、自身の発言に矛盾を覚える。
板垣はボートの上で、確かに人手不足だと言った。
なのに何故、笹部は引き留められなかったのだろうか。
「多分、店長は俺の限界を見抜いているんだと思う」
抱いた疑問には、笹部が答えてくれた。
「だから、人手が欲しくても、残るのは当人の為にならない……
そう考えて、引き留めなかったんじゃないかな。
それに、俺と君達には決定的な違いがある。年齢だよ」
ようやく、笹部が顔を上げた。
額にシワが寄っているように見えるのは、話の流れのせいだろうか。
「波戸君とは十歳。土浦君とは一回りも違う。
より多くのものを詰め込める可能性があるのは君達だ」
「仮にそうだとしても、仕事はありますよ。
それに、ここは沖縄です。あくせく働く必要なんかない。
マイペースでいいと言ったのは、笹部さんじゃ……」
「波戸君の状態ならマイペースでいい、って事。
君も、沖縄のゆるい生き方に惹かれてきた口だろう?
現代社会に疲れて、この土地に癒しを求めて来たんだろう?」
「そう、ですが……」
「沖縄に癒しを求める事自体は間違っていない。
だから波戸君も今はそれでいいと思うよ。
……でも、その生活はいつかは破綻する。永遠にゆるく生きるなんて夢物語なんだよ。人間は、労働しなくてはいけない。それに気づくのが遅ければ遅い程、悲惨な事になる」
そう言って、笹部は片手で顔を覆った。
「……俺も、もう遅いんだけどな」
「笹部、さん……」
――波戸は、思う。
おそらくは。
彼の姿は、そう遠くない将来の自分なのだろう。
自分の将来に不安を抱かない人間等いない。
波戸もまた同様だから、笹部の気持ちはよく分かる。
思い返してみれば、就活の際に、沖縄ではなく福岡の企業を選んだ理由には、将来性も含まれているのだ。
だが、そこから逃避して訪れた沖縄には、現実を忘れさせる魔力があった。
だから、沖縄に移住しようと考えた。
……なんのとりえもない人間なのに。
「夢物語……」
無意識のうちに、笹部の言葉を繰り返してしまう。
悪夢にうなされて漏らした寝言のような声だった。