其之四 -沖縄へ……!-
南国の風が、波戸の全身を包んでいる。
石垣島を含む沖縄全土は、四月上旬でも半袖の者が目立つ程に暑い。
むしむしとした熱気と強烈な紫外線は、福岡のそれとは比べ物にならない厳しさで、アスファルトはフライパンのようだ。でも、その分、風は心地良い。
波戸は大きく深呼吸をして、送迎ワゴン車の助手席に乗り込んだ。
「お世話になります。波戸です」
「笹部だ。君と同じバイトだよ。気楽に接してくれ」
笹部と名乗った男は、運転席で気持ちの良い挨拶を返してくれた。
かなり大柄な体格で、ゆったりとしたサイズのかりゆしウェアを纏っている。
年齢は三十代中盤といったところだろうか。顔つきは柔らかいが、隣に座っているだけで暑苦しさを感じた。
「しかし珍しいなあ。つい先日もバイトの子が増えたんだよ。
なんでも、君と同じ福岡から人材派遣されて来たとか」
笹部がそう言いながらエンジンを掛けると、ワゴンはドコドコと不安げな音を鳴らしながら走り始めた。
「その話は俺も聞いています。
……二人も押し掛けて、申し訳ありません」
これから長く世話になるかもしれない先輩だから、印象は大事だ。
しっかりと顔を作って謝ると、笹部はあまり気にした様子もなく肩を竦めた。
「あー、大丈夫じゃないかな。確かにうちは、独立リゾート型の店だから少人数でも営業できるけど、そこは店長が必要だと考えて雇ったはずだよ」
「はあ……じゃあ、俺もガンガン働かなきゃいけないんでしょうか?」
「そこは自分のペースでいいと思う。アルバイトなんだし」
「良かった。……あ、もちろんサボりたいってわけじゃありませんよ!」
「分かってる。そう人目を気にせず、マイペースでいこうじゃないか」
人目だけじゃなく、天津との制約も気になっているのだが、口外しても変に思われるだけだろうから、それは伏せておいた。
それからも適当に雑談を交わしつつ、波戸は外に広がる海岸を見ていた。
沖縄以外ではお目にかかった事のない純白の砂浜と、どこか透明感のある海。
その結果、海よりも深い蒼色に感じられる空。そして、それらを照らす陽光。
波戸の望んだ光景が、ここにはある。
しかし……それほど高揚はしていなかった。
自宅から福岡空港までは電車と地下鉄で三十分、福岡から石垣島の移動も、飛行機で一時間で済むのだ。二時間弱では、まだ心が完全に沖縄モードに切り替わっていないのだろう、と思う。
三十分程走った所で、クリーム色をした二階建てアパートの前で停車する。
波戸が降りた後で、笹部は思い出したかのようにポケットから鍵を取り出し、放り投げてきた。
「ここの101号室が君の住居だ。
ちなみに、隣の102は、君より先にバイトとして来てくれた土浦君」
「どうも、助かりました。先に送っていた荷物は?」
「室内に搬入済みだよ」
「何から何までありがとうございます」
「気にするなよ。それより、この辺りを案内できれば良かったんだが……」
「申し訳ないですよ、それは。
笹部さんもお仕事があるでしょうし、自分で歩き回ってみます」
「悪いな。君の出勤は明日からだから、とりあえず今日は好きに過ごしてくれ」
笹部は茶目っ気たっぷりに敬礼ポーズを取り、車を走らせた。姿が見えなくなることで、ようやく暑苦しさも走り去ったような気がした。
アパートに近づくと、さすがに扉のサビや壁の色落ちが目につく。
だが、雨を凌げれば十分だ。深く気にせず101号室の前に立ち、鍵を差し込もうとしたところで……隣の部屋の扉が開いた。
「あ、どうも。土浦……君?」
聞いたばかりの名を反射的に呼びながら、出てきた男を一瞥する。
小柄で短髪のさっぱりとした顔立ち。肌はまだ焼けていない。
年齢は自分よりも少々若く二十代前半といったところだろうか。
「土浦ですが、貴方は?」
「明日からお世話になる波戸だよ。
ほら、俺もあの胡散臭い旅行代理店に案内されたんだ」
「あ、ああ……聞いてます」
不安そうな表情を浮かべていた土浦だったが、遊山屋の話をすると、ようやく顔色が落ち着いてペコリと頭を下げてきた。
「とりあえず、これからの一ヶ月、宜しくな。色々助けてよ先輩!」
「ぼ、僕だってまだ、全然で……」
「そんな事言わないでさ。困った事があったら相談させてよ」
「はあ。出来る限りは」
土浦は頼りなさげに頷いた。
「で、どこか行くつもりだったの?」
「ええ。図書館に、ちょっと」
「図書館? せっかく沖縄にいるのに」
「波戸さんも一緒に行きますか?」
「荷物の整理があるから、それはやめとこうかな」
「じゃあ、失礼します。明日から宜しくお願いします」
「こちらこそ」
土浦に別れを告げて、ようやく室内に入る。
事前に大豊不動産で見た写真のとおり、中はフローリングの1Kだった。
設備はシャワーとキッチン、あとはクーラーしかない。
部屋の隅には先行して送っていた段ボールが三箱積まれ、その上に笹部と同じかりゆしウェアが置かれている。多分、ダイビングショップの制服なのだろう。
「着いた、着いたぁ」
手荷物を段ボールの傍に投げ、フローリングに大の字で寝転がる。
固い板ではあるけれども、不思議と、身体が沈み込むような錯覚を覚えた。
暫く何もせずにいると、窓の外から、甲高いセミのような鳴き声が聞こえてくる。四月に鳴くセミなんて初耳だけど、ここは温暖な沖縄だ。いても不思議ではない。
「……そっか。俺、本当に沖縄に来たんだな」
波戸の声は、ようやく高揚し始めた。
◇
サンゴス・ダイビングショップでの勤務は、天国のようだった。
波戸が担う仕事は、客の送迎やレンタル機材の整備清掃。
その他の時間は、窓口として座っているだけで良いのである。
その上、帰宅はもちろん定時。残業を頼まれた事は一度もなかった。
アルバイトという立場を差し引いても楽である。
メンバーは板垣という名の店長の他、それを補佐する笹部、波戸、土浦の三人。板垣は気持ちの良い挨拶をする男で、人間関係でも苦労はせずに済みそうだった。
「波戸君は、ダイビングするんだよね」
笹部は、一緒に窓口対応する時に、よくこんな雑談を持ち掛けてくる。
「大学の頃は、毎年沖縄に来て潜ってましたよ」
「へえ。沖縄本島? それとも石垣島?」
「宮古島です。先輩がそこの出身だったので、その縁で」
「じゃあ、お客さんと海に出たくてたまらないんじゃないの?」
確かに潜りたい気持ちはある。
でも、ダイビングインストラクターの仕事は、早朝から客を迎える準備が必要なので面倒臭い。それに、昨日経験したのだが、休日に店へ来れば客として安価で潜らせてもらえるのだ。
「それは店長さんの仕事ですからね。
あとは俺、ライセンスも取ってませんから、今はとりあえずいいですよ」
「今は……って事は、いつかはライセンスも取るつもりなんだ」
「ええ。いつかは」
話を切り上げてダイビング雑誌を眺めると、笹部も同じ行動を取った。
「店長が客と海に出ている時間はサボって良い」と笹部に教えて貰ったのである。
彼もあくせく働くタイプではなかったが、波戸にとっては都合が良かった。
ただ、黙ってページをめくる。
数十メートル離れた浜辺からは微かに潮騒が聞こえてきた。
時には、海鳥ののどかな鳴き声や、外を歩く観光客の楽しげな会話も耳に届く。
そんな海のオーケストラを聞いているだけで、波戸は十分幸せだった。
「笹部さん、波戸さん。昼ができましたよ」
そこへ、事務室にいる土浦が声を掛けてきた。
それを受けて笹部を一瞥すると、彼はこっくりと頷いた。
「波戸君、先に食べてきなよ。
窓口から人が消えるのはさすがにまずいから、俺は後にする」
「自炊まで自由だなんて、良い職場ですよね。じゃあ、お先に失礼します」
笹部に一礼して事務室に入ると、ゴマ油の香りがほんのりと鼻に届く。
デスクの上にはゴーヤチャンプルが置かれていて、土浦はわざわざ買ってきたと思われるミネラルウォーターを注いでいた。彼はいつも料理にはこだわる。他人の昼食も作りたがっているし、それだけ料理が好きなのだろう。
「いつも悪いね」
「好きでやってますので、気にしないで下さい」
「いやいや、そのうちお返しに、俺が飯を振舞うよ。仕事もちょくちょく手伝ってもらってるし、申し訳ないもん」
「本当にいいんですよ。自分の分は自分で……」
「水臭いなあ。まあ、そう言わないでさ!」
そう笑いかけて着席し、料理をガツガツと口へ運ぶ。
思っていたよりも苦味が強くて、あまり好みの味ではなかった。
「……沖縄料理って、好みが激しいよね」
「駄目な人はとことん駄目ですよね。……もしかして、口に合いませんでした?」
「あー……そんな事ないよ。うまい、うまい」
そう言って、ほぼ一口ごとにミネラルウオーターを流し込む。
土浦は複雑な表情を見せたが、やがて自分も昼食を食べながら、話を続けた。
「ところで、もうここでの生活は慣れましたか?」
「こっちに来てから一週間は経ったし、少しはね」
「なら良かった。先日は初めてのお休みでしたよね。何をしてたんですか?」
「もちダイビング」
「お店で?」
「そうそう。土浦君もやるんでしょ」
「それなりには。こっちに来てからは、まだやってませんけど」
「あれは本当にいいよな。次の休みも、潜らせてもらうつもりだよ」
「満喫しているんですね。いいな」
「土浦君こそ、休日はどうやって過ごしてるの?」
「休日も、やっぱり図書館でしょうか。後は、釣りをしている人と雑談したり。……ダイビングは、まあ、そのうち」
「ふぅん」
どうも、この男は何かずれている。
図書館の件もそうだが、どうせなら雑談ではなく自分も釣りに興じて、南国を満喫すれば良いのに。職場では雑用を率先して引き受けてくれるいい男だが、それだけに趣味が残念に感じられた。
「せっかくだから、めいっぱい遊ぶのもいいと思うよ。
石垣島で不満なら、一緒に本島行ってみる?」
「じゃあ、それもそのうち」
「俺、北谷に興味あるんだよね。アメリカ村みたいなのがあるらしくてさ」
「波戸さん……あれは北谷と呼ぶんですよ」
地味な顔をして、突っ込みはキツい男であった。