其之七 -集中治療室にて-
今日もまた、病院に行かなくてはいけない。
いや、今日だけではない。延々と続くであろう看病生活を思うと、絶望と不安に苛まれてしまう。
それでも、これが現実なのだ。
逃げのようのない事態なのだ。
そう自分に言い聞かせ、美穂は集中治療室棟へと足を運んだ。
中に入るとすぐナースステーションがあり、人の気配に気が付いた何名かの看護師が一瞥してきた。だが、それが美穂だと分かると、皆気の毒そうな表情で会釈を送ってきた。
美穂も軽く頭を返す。そんな余裕が出てきたのは、涙の枯れ果てた最近になってからだ。
それから、まっすぐに五十嵐次彦の病室へ入る。幾多のチューブに繋がれた夫は、今日も虚空を見つめるような様子で、ベッドに横たわっていた。
「貴方、来ましたよ」
夫の手を握りながら語りかけるが、返事はない。
目元は微かに震えているが、自分の声に反応しているわけではないと聞いている。
「家の方は大丈夫よ。お義母さんのお見舞いの後で、貴方の病室へ足を運ぶだけですもの。そんなに手間じゃありません」
それでもなお、美穂は返事のない会話を続ける。
「……あの時は驚きましたよ。ようやく家に帰ったら、貴方が自損事故で意識不明の重体になったと大騒動なんですもの」
手を強く握りながら。
「それも、意識が回復する見込みがないだなんて。看護師さんから同情の視線を送られるのも当然ね」
夫のうつろな瞳を見つめながら。
「これから、不安がないと言えば嘘になるわ。でも、これが私の現実なのよね。貴方の感情のない瞳を見るだけの日々……」
いや、うつろなのは、自分の瞳の方か。
それに気が付いた美穂は、失笑しながら夫の手を離した。
「……私ね、これが代償かもしれないと思っているのよ」
そう言いながら、足元に置いている鞄から造花を取り出す。
この話を誰かにするのは初めてだが、今の次彦相手ならば問題ないだろう。
壁に向き合い、造花を花瓶に飾りながら、美穂はなお、小さな声で呟いた。
「実は私、今の生活環境から逃げ出したいと思っていたの。
でも、管理人代理として働いている間、家の事もそれはそれで心配だったわ。
……ずっと悩んでいた。若い社員さんから誘惑されたりもしたけれど……
でも、最後は貴方が一番大事なんだと気づいた。
難しくても、貴方と共に現実逃避したいと思ったわ。
そしたら、大切な存在……貴方を失ったのだから、貴方にとっては良いとばっちりよね」
諦めたように小さく首を横に振り、振り返ったところで……美穂の体は、固まった。
一体、いつからいたのだろうか。
そこには義父・宗一郎の姿があった。
「お、お義父さん……?」
「美穂さん、お疲れ様」
「お義父さん、あ、あの、今のは……今の話は……」
「……うむ」
宗一郎は深刻な表情を浮かべ、美穂を見つめていた。
間違いなく、聞かれている。言い逃れのしようはない。
美穂が微かに肩を震わせると、宗一郎は顎で病室の入口を差して、外に出るような仕草を見せた。
黙って指示に従い出ると、彼も後に続く。
そして廊下で向かい合うなり……宗一郎の方が、深々と頭を下げた。
「美穂さん、すまなかった」
「お、お義父さん……?」
「美穂さんには、本当に申し訳ない事をしたと思っている」
「やめて下さい。むしろ謝るべきは、ご期待に応えられない私です。
だから、次彦さんの介護も、まっとうしてみせます」
「いや、そうではない。……悪いのは次彦なのだ」
「事故の話でしょうか? 自損事故ですから、確かに次彦さんの責任でもありますが……」
「違う。違うのだ」
宗一郎は、頭を上げる事なく語り続けた。
……何か、様子がおかしい。
「ずっと、勘違いではないかと思っていたが、今の美穂さんの話で確信した……」
「何をでしょうか?」
声のトーンを落としながら尋ねる。
それを待っていたかのように、宗一郎はゆっくりと頭を上げた。
気のせいだろうか、こうして近くで見ると、前よりもシワが増えている気がする。
「……美穂さんが、仕事で社員寮に移って、暫く経ってからの話だ」
「はい」
「次彦が若い社員を自宅に呼んだのだが、その時に二人の話を聞いてしまった。
次彦はどうやら、美穂さんが若い社員と不倫しないかを試すべく、
その男性社員に、美穂さんを誘惑し……場合によっては襲っても構わないと指示していたのだ」
「う、嘘……?」
美穂の目が、大きく見開かれた。
それが、伊藤だというのだろうか。
そういえば、伊藤の端末の着信番号……あれも、今になって思えば、夫の番号だったような気がする。
だが、本社人事部長からの依頼で罪を犯すとは、到底信じがたい。
その疑念も表情に出ていたのか、宗一郎はなおも説明を続けてくれた。
「警察案件になっても、夫である自分が必ず丸め込む。次彦はそう言っていたよ。
若い社員の方も、乗り気で請け負っていた。
なおも話を聞いているうちに分かったのだが、彼は元々、本店の営業だったそうだ。
だが、女性社員と恋愛沙汰でトラブルを起こし、天神の支店に飛ばされていたらしい」
「でも、人事部長である次彦さんなら本店に呼び戻せる……」
「それが報酬というわけだ。だが、話はそれだけでは終わらなかった」
宗一郎は病室を一瞥した。
奥歯を噛みしめたようにも見えたが、はっきりとは分からない。
「……その後、若い社員が再び次彦の元に来たのだ。
美穂さんから拒絶されたとの報告を受けても、次彦の声に弾んだ様子はなかった。
私はその時まで、美穂さんを失いたくないから試していたのだと思っていたが……
それは勘違いだったのだよ」
美穂は、無意識のうちにツバを飲み込んだ。
すぐ傍の病室から、何か禍々しいような気配を感じた気がする。
この先を本当に聞いても良いのだろうか……
その逡巡は宗一郎にもあったようで、彼は再び病室を見てから、話を続けた。
「あいつが失いたくなかったのは、妻である美穂さんではなく、器量の良い美穂さんだ。
つまり、脳卒中で入院している妻の介護役だったのだ」
「宗一郎さんが、そう言ったのですか……?」
ふと、彼に介護代理を頼まれた時の光景が脳裏をよぎる。
「ああ。こう言っていたな……。
美穂が不倫の道を行かないのは確認した。
でも、自分が直接電話で確認した限りでは、我が家から逃げ出したいようだ。
だから、縛りつけなくてはいけない。
お前が当たりそうなものを食べて、食中毒騒ぎを偽装すれば、
自身の責任を全うする為、見知らぬ土地に逃げ出す事もないだろう、と……」
「……そん、な……」
足元から、力が抜ける。
身体が崩れかかったが、宗一郎が手を差し伸べてくれたので、それを掴んで堪える事ができた。
全ては、夫が仕組んだ出来事だったのだ。
我が家で唯一信じていた夫が。
共に現実逃避したいと願った夫が。
つい先程までは『大切なもの』だと思っていた夫が、裏で糸を引いていたのだ。
「美穂さん……」
「ご、ごめんなさい。大丈夫です」
弱弱しく首を左右に振り、義父から離れる。
すると、彼は再び美穂に頭を下げてきた。
「何度も、次彦を問いただそうと思ったし、美穂さんに打ち明けようとも思ったが、できなかった。
自慢の息子が、そんな事をするはずがない。何かの間違いだと信じていた……
いや、そう現実逃避していたのだ……」
「でも、私の話を偶然耳にしてしまって……」
「ああ。やっと私も目が醒めた。本当に美穂さんには悪いと思っている」
声が微かに震えている気がする。
これは、心からの謝罪なのだろう。
告白が遅れたのは事実だが、その点はさほど気にならなかった。
宗一郎の頑固な部分を厄介に思ってはいたが、あれは実直故の言動だったのかもしれない。
「せめてもの謝意だ。美穂さんは、自由になってくれ」
「と、言いますと?」
「妻と息子の世話は、自分と初子が見る。一切気にしなくて良い。
……君には次彦と別れて、自分の人生を歩んで欲しい」
宗一郎の言葉が、深く心に突き刺さる。
つまりは。
悲願である、今の生活から解放が実現するのだ。
一ヶ月の期間限定ではない、本当の解放が訪れたのだ。
……だが、残された者はどうなるのだろうか、とも思う。
初子はともかく、認識を改めつつある宗一郎の老後を思えば、罪悪感を覚えてしまう。
返事に躊躇しているところへ……何故だろうか、ふと、あの男の言葉が脳裏をよぎった。
『大切な存在も失うんじゃないのか?』
それが現実逃避。
喪失だけではない。
この罪悪感も、背負わなくてはいけない感情なのだ。
その答えに至ると、美穂の背筋がすっと伸びる。
……彼女は、ゆっくりと首を縦に振った。




