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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File4.五十嵐美穂(30) 夫家族からの現実逃避
30/31

其之七 -集中治療室にて-

 今日もまた、病院に行かなくてはいけない。


 いや、今日だけではない。延々と続くであろう看病生活を思うと、絶望と不安に苛まれてしまう。

 それでも、これが現実なのだ。

 逃げのようのない事態なのだ。

 そう自分に言い聞かせ、美穂は集中治療室棟へと足を運んだ。


 中に入るとすぐナースステーションがあり、人の気配に気が付いた何名かの看護師が一瞥してきた。だが、それが美穂だと分かると、皆気の毒そうな表情で会釈を送ってきた。

 美穂も軽く頭を返す。そんな余裕が出てきたのは、涙の枯れ果てた最近になってからだ。

 それから、まっすぐに五十嵐次彦の病室へ入る。幾多のチューブに繋がれた夫は、今日も虚空を見つめるような様子で、ベッドに横たわっていた。




「貴方、来ましたよ」

 夫の手を握りながら語りかけるが、返事はない。

 目元は微かに震えているが、自分の声に反応しているわけではないと聞いている。




「家の方は大丈夫よ。お義母さんのお見舞いの後で、貴方の病室へ足を運ぶだけですもの。そんなに手間じゃありません」

 それでもなお、美穂は返事のない会話を続ける。


「……あの時は驚きましたよ。ようやく家に帰ったら、貴方が自損事故で意識不明の重体になったと大騒動なんですもの」

 手を強く握りながら。


「それも、意識が回復する見込みがないだなんて。看護師さんから同情の視線を送られるのも当然ね」

 夫のうつろな瞳を見つめながら。


「これから、不安がないと言えば嘘になるわ。でも、これが私の現実なのよね。貴方の感情のない瞳を見るだけの日々……」

 いや、うつろなのは、自分の瞳の方か。

 それに気が付いた美穂は、失笑しながら夫の手を離した。




「……私ね、これが代償かもしれないと思っているのよ」

 そう言いながら、足元に置いている鞄から造花を取り出す。

 この話を誰かにするのは初めてだが、今の次彦相手ならば問題ないだろう。

 壁に向き合い、造花を花瓶に飾りながら、美穂はなお、小さな声で呟いた。


「実は私、今の生活環境から逃げ出したいと思っていたの。

 でも、管理人代理として働いている間、家の事もそれはそれで心配だったわ。

 ……ずっと悩んでいた。若い社員さんから誘惑されたりもしたけれど……

 でも、最後は貴方が一番大事なんだと気づいた。

 難しくても、貴方と共に現実逃避したいと思ったわ。

 そしたら、大切な存在……貴方を失ったのだから、貴方にとっては良いとばっちりよね」


 諦めたように小さく首を横に振り、振り返ったところで……美穂の体は、固まった。

 一体、いつからいたのだろうか。

 そこには義父・宗一郎の姿があった。





「お、お義父さん……?」

「美穂さん、お疲れ様」

「お義父さん、あ、あの、今のは……今の話は……」

「……うむ」

 宗一郎は深刻な表情を浮かべ、美穂を見つめていた。

 間違いなく、聞かれている。言い逃れのしようはない。

 美穂が微かに肩を震わせると、宗一郎は顎で病室の入口を差して、外に出るような仕草を見せた。

 黙って指示に従い出ると、彼も後に続く。

 そして廊下で向かい合うなり……宗一郎の方が、深々と頭を下げた。



「美穂さん、すまなかった」

「お、お義父さん……?」

「美穂さんには、本当に申し訳ない事をしたと思っている」

「やめて下さい。むしろ謝るべきは、ご期待に応えられない私です。

 だから、次彦さんの介護も、まっとうしてみせます」

「いや、そうではない。……悪いのは次彦なのだ」

「事故の話でしょうか? 自損事故ですから、確かに次彦さんの責任でもありますが……」

「違う。違うのだ」

 宗一郎は、頭を上げる事なく語り続けた。

 ……何か、様子がおかしい。


「ずっと、勘違いではないかと思っていたが、今の美穂さんの話で確信した……」

「何をでしょうか?」

 声のトーンを落としながら尋ねる。

 それを待っていたかのように、宗一郎はゆっくりと頭を上げた。

 気のせいだろうか、こうして近くで見ると、前よりもシワが増えている気がする。


「……美穂さんが、仕事で社員寮に移って、暫く経ってからの話だ」

「はい」

「次彦が若い社員を自宅に呼んだのだが、その時に二人の話を聞いてしまった。

 次彦はどうやら、美穂さんが若い社員と不倫しないかを試すべく、

 その男性社員に、美穂さんを誘惑し……場合によっては襲っても構わないと指示していたのだ」

「う、嘘……?」

 美穂の目が、大きく見開かれた。

 それが、伊藤だというのだろうか。

 そういえば、伊藤の端末の着信番号……あれも、今になって思えば、夫の番号だったような気がする。

 だが、本社人事部長からの依頼で罪を犯すとは、到底信じがたい。

 その疑念も表情に出ていたのか、宗一郎はなおも説明を続けてくれた。



「警察案件になっても、夫である自分が必ず丸め込む。次彦はそう言っていたよ。

 若い社員の方も、乗り気で請け負っていた。

 なおも話を聞いているうちに分かったのだが、彼は元々、本店の営業だったそうだ。

 だが、女性社員と恋愛沙汰でトラブルを起こし、天神の支店に飛ばされていたらしい」

「でも、人事部長である次彦さんなら本店に呼び戻せる……」

「それが報酬というわけだ。だが、話はそれだけでは終わらなかった」

 宗一郎は病室を一瞥した。

 奥歯を噛みしめたようにも見えたが、はっきりとは分からない。


「……その後、若い社員が再び次彦の元に来たのだ。

 美穂さんから拒絶されたとの報告を受けても、次彦の声に弾んだ様子はなかった。

 私はその時まで、美穂さんを失いたくないから試していたのだと思っていたが……

 それは勘違いだったのだよ」

 美穂は、無意識のうちにツバを飲み込んだ。

 すぐ傍の病室から、何か禍々しいような気配を感じた気がする。

 この先を本当に聞いても良いのだろうか……

 その逡巡は宗一郎にもあったようで、彼は再び病室を見てから、話を続けた。




「あいつが失いたくなかったのは、妻である美穂さんではなく、器量の良い美穂さんだ。

 つまり、脳卒中で入院している妻の介護役だったのだ」

「宗一郎さんが、そう言ったのですか……?」

 ふと、彼に介護代理を頼まれた時の光景が脳裏をよぎる。

「ああ。こう言っていたな……。

 美穂が不倫の道を行かないのは確認した。

 でも、自分が直接電話で確認した限りでは、我が家から逃げ出したいようだ。

 だから、縛りつけなくてはいけない。

 お前が当たりそうなものを食べて、食中毒騒ぎを偽装すれば、

 自身の責任を全うする為、見知らぬ土地に逃げ出す事もないだろう、と……」


「……そん、な……」

 足元から、力が抜ける。

 身体が崩れかかったが、宗一郎が手を差し伸べてくれたので、それを掴んで堪える事ができた。



 全ては、夫が仕組んだ出来事だったのだ。

 我が家で唯一信じていた夫が。

 共に現実逃避したいと願った夫が。

 つい先程までは『大切なもの』だと思っていた夫が、裏で糸を引いていたのだ。




「美穂さん……」

「ご、ごめんなさい。大丈夫です」

 弱弱しく首を左右に振り、義父から離れる。

 すると、彼は再び美穂に頭を下げてきた。


「何度も、次彦を問いただそうと思ったし、美穂さんに打ち明けようとも思ったが、できなかった。

 自慢の息子が、そんな事をするはずがない。何かの間違いだと信じていた……

 いや、そう現実逃避していたのだ……」

「でも、私の話を偶然耳にしてしまって……」

「ああ。やっと私も目が醒めた。本当に美穂さんには悪いと思っている」

 声が微かに震えている気がする。

 これは、心からの謝罪なのだろう。

 告白が遅れたのは事実だが、その点はさほど気にならなかった。

 宗一郎の頑固な部分を厄介に思ってはいたが、あれは実直故の言動だったのかもしれない。




「せめてもの謝意だ。美穂さんは、自由になってくれ」

「と、言いますと?」

「妻と息子の世話は、自分と初子が見る。一切気にしなくて良い。

 ……君には次彦と別れて、自分の人生を歩んで欲しい」


 宗一郎の言葉が、深く心に突き刺さる。

 つまりは。

 悲願である、今の生活から解放が実現するのだ。

 一ヶ月の期間限定ではない、本当の解放が訪れたのだ。


 ……だが、残された者はどうなるのだろうか、とも思う。

 初子はともかく、認識を改めつつある宗一郎の老後を思えば、罪悪感を覚えてしまう。

 返事に躊躇しているところへ……何故だろうか、ふと、あの男の言葉が脳裏をよぎった。




『大切な存在も失うんじゃないのか?』




 それが現実逃避。

 喪失だけではない。

 この罪悪感も、背負わなくてはいけない感情なのだ。


 その答えに至ると、美穂の背筋がすっと伸びる。

 ……彼女は、ゆっくりと首を縦に振った。

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