其之三 -いほう不動産-
「なあ、どこ行くんだよ」
「私の仕事を手伝ってくれる方の所へ。そう離れてはいません」
「もっとはっきり答えてくれよ……」
不満をぶつけつつも天津に続いて歩くと、小学生くらいと思わしき子供達とすれ違ったが、それでふと思い出した。前回の来店時、帰り際に遭遇した女の子は、どうして自分の心中を言い当てる事ができたのだろうか。
「……ところで、前に店に行った時に女の子がいたよな」
「朱莉ですか。彼女がなにか?」
「朱莉ちゃんっていうのか。あの子、なんで俺の気持ちを見抜いたんだ?
あれ、ちょっと気持ちわ……いや、驚いたんだけどさ」
「さあ、何故でしょうか。
不思議と勘が鋭い子でして、よくお客様のお気持ちを見抜いてしまうのですよ」
「勘……ねえ。おせっかいだけど、あんまり喋らせたら虐められるかもしれないぞ」
「既にそうなっておりました」
天津は振り返らずに話を続けた。
「実は、本当の親は別にいるのですが、朱莉の勘を気持ち悪がって捨てたのです。
あの子と血縁はありませんが、そこを私が引き取りまして」
「養子だったのか。確かに十歳くらいの子を持つにしては、あんた若いもんな。
意外と情に厚いところもあるんだ」
「……ご冗談を」
階段を降りきったところで、天津は吐き捨てるようにそう言った。
表情は見えなかったが、それでも不快感はひしひしと伝わってくる。
始めてみせる感情だった。
「同情して養子にしたんじゃないの?」
「まさか。私は情で動く事はございません。
朱莉を引き取ったのも、あの子の勘が仕事の助けになるからですよ」
「俺を助けてくれるのは、情以外のなにものでもないと思うけど」
「波戸様はお客様ですから。……この様な事を口にするのははばかられますが、仮に一個人として波戸様と知り合っていたら、力にはなりませんよ。
情に訴えるような頼み方をされようものなら、蹴り飛ばしています」
天津は淡々とそう言ってみせる。
その語り口からは、やはり普段の飄々とした様子が微塵も感じられない。
つまり、あっちは営業用という事なのだろうか。
「それよりも着きましたよ」
「え? あ、ああ」
頭を掻きむしりながら、天津の肩越しに前を覗き込む。
降りてきた階段とは別階段の裏手で、視線の先には鉄製の扉と立て看板があった。
看板に書かれている文字を見ると、波戸は思わず口をぽかんと開けてしまった。
「……いほう不動産?」
間違いなく、看板にはそう書かれてある。
胡散臭さ極まりない文言だが、こうして堂々と『いほう』と宣言されれば、むしろ胡散臭さを突き抜けて、滑稽に思えてきた。
「さあ、入りましょう」
「あ。ちょっと……!」
天津が先んじて中に入ったので、波戸も続く。
店名に反して、内装はごく普通の不動産屋だった。六畳程の狭い店舗で、空気が篭っていて若干の息苦しさを感じる。来客用のソファと業務用デスクが置かれていて、デスクの前では、鼻ひげを生やした恰幅の良い中年男性が暇そうに新聞を読んでいた。
「どうも、お邪魔します」
「これは天津さん、いらっしゃい! お客様かな?」
男は天津に気が付くなり、新聞を伏せて諸手で迎えてくれた。
「ええ。沖縄への逃避を希望されている波戸さんです。
一ヶ月間の住居と仕事を斡旋してもらおうと思いまして」
「ほほう。君が波戸君か」
まだ逃避すると決めたわけではないのだが。
そう口を挟もうとしたが、その前に男が声を掛けてきたので、仕方なく頷く。
「どうも。……不動産屋さん、ですよね」
「そうだよ。たいほう不動産の大豊と言います。宜しく」
「たいほう不動産? いほう不動産でなく? ……あっ!」
「看板が壊れて『た』の文字がはげ落ちててね。
直すにも金が掛かるんで、そのままにしているのさ」
なるほど、合点がいった。
法律の事はよく分からないが、放置状態こそ違法になったりしないのか、と思う波戸である。
「……警察に怒られたりはしないんですか?」
「少しはね。でも、ここは天津さんと仕事をする為だけに設けた、末端の営業所だ。普通のお客様はほとんど来ないから、警察も目の敵にするって程じゃない。
……そんな事より、沖縄のどこが良いかね? 職種も希望があれば教えてくれ。うちは人材派遣も手掛けていてね」
「そんな、急に言われても……」
「契約を交わしていませんし、後から断っても問題ありませんよ。
逃避先を想像するだけでも、それはそれで楽しいでしょう?」
天津が穏やかな声で言う。
そうまで言うなら、まあ、遊びのつもりで考えてもいい。未だ半信半疑ながらも、波戸は人差し指を立てて語りだした。
「じゃあ、遠慮なく。逃避先は……そうだな。石垣島かな。
沖縄本島も悪くないけれど、どうせ自由に選べるなら、離島で設備も整っている所がいいからさ。職種は、ダイビングショップなんかだと嬉しいんだけれど」
これは、難しい注文だと思っている。
沖縄のダイビングショップには、長期間潜りに来た学生に食住を提供する代わりに、無給で雑用を請け負ってもらう店が存在しており、働き手の需要はあるだろう。
ただ、これは繁盛期の臨時雇いに限った話だ。
四月で同じように働かせてもらうのは、なかなか容易ではない。
居住施設だって、離島には空きアパートが少ない。こんな小さな不動産屋で紹介してもらえるわけが……、
「あるよ」
大豊が、してやったりの笑みを浮かべて言った。
「あるって……沖縄本島でなく、石垣島なのに?」
早口気味で尋ねるが、大豊は表情を崩さずに頷く。
「ああ。1Kの安物件で、気に入るかは分らんがね」
「じ、じゃあ、ダイビングショップの仕事は?」
「それもあるんだ。確認せずとも分かる。
なんたって、つい先日、同じ希望を持ったお客さんが来たんだよ」
「その人どうしたの?」
「お気に召して頂けたようで、沖縄……石垣島へ、現実逃避しましたよ」
大豊の代わりに、天津が答えた。つまり、その人も天津の紹介なのだろう。
「さ……波戸様。いかがなさいますか? 石垣島への現実逃避……」
天津が再び扇子を取り出し、音もなく仰ぎながら言った。
風と香りは、波戸にも微かに届く。
息苦しい店内に、南国のそよ風が吹いたような気がした。
◇
不思議な事もあるものだ。
意を決して重野に長期休暇を申し出たら、すんなりと許可して貰えたのである。なんでも、重野が頼もうとしていた新作ゲームは沖縄が舞台で、販売会社に対するPRの為に、現地取材という実績が欲しいらしい。
それを兼ねるのなら構わない、との事だった。
更には、今抱えている仕事は、同プロジェクトの別プログラマーに割り振ってくれるという。彼らも良い顔はしないだろうが、重野のお墨付きがあれば、なんとか休みは取れそうだった。
……これは、偶然なのだろうか。
棚の前で書類を確認している天津を視界の端に置きながら、長机に置いた宝珠を指で突く。手のひらサイズの水晶玉のようなそれは天津が貸してくれたものだった。
「これを身に付けて休暇を申し出ればとおる」と言われていたのだが、本当にその通りになってしまうとは。
願い事を叶えてくれる宝珠……さすがに現実味がない道具だ。
それに、これを貸してもらうよりも前から、新作は沖縄が舞台と決まっていたのだから、直接的な関係はないはず。やっぱり偶然と考えるのが妥当だろう。案外、いざ長期休暇を申し出れば容易に休めるのに、無理だと思い込んでいただけかもしれない。
「では、契約の方を進めさせて頂きます。宜しいですか?」
ようやく書類整理を終えた天津が、契約書を長机で広げた。
それが沖縄行きの空港券のように見えた波戸は、微かな興奮を覚えて、ややこしい事を考えるのを止めた。
「おう。頼む」
「期間は来週月曜からの一ヶ月間。現地までの飛行機は手配済みです。
お仕事はアルバイトですが、石垣島のサンゴス・ダイビングショップ。
空港から居住施設までの移動はショップに案内を頼んでいますのでご心配なく」
「現地が気に入ったら、一ヶ月と言わず、そのまま移住してもいいんだよな?」
「もちろん。法的手続きもお手伝いしますよ」
「じゃあ、それも視野に入れておかなきゃな。で……料金は?」
「こちらの金額になります」
書かれている額は、移動費ジャストだった。居住施設の敷金礼金も不要と書かれている。
「ええっ? こんなに安いの?」
「はい。限界まで削らせて頂きますよ」
「いや、だからって……。こんなに安いと、天津さんや大豊さんの儲けが……」
疑問を口にしながら契約書を熟読するが、その行為は正解のようだった。
契約書の最後に、奇妙な一文が記載されていたのである。
「……天津さん。ちょっといい?」
「いかがしましたか」
「最後に書かれている『制約と代償』ってのが気になるんだけど。
なになに……旅行者は旅行期間中に、ホニャララ、事を誓います。
これに反した場合、代償として旅行者は大切なものを失う事になります……?」
言葉を濁した部分は、空欄になっていた。
疑惑の表情を浮かべながら契約書を突き返すと、天津は空欄に手早く文字を書き加えた。
「波戸様の場合は……このような条件としましょう」
天津の声が、僅かに低くなった。
目を限界まで細めて、静かに微笑んでいる。
業務用の愛想笑いではない、冷酷さを感じる微笑み。
遊山屋の空気が変わったような気がする……。
「『旅行期間中に、無理に働かない事を誓います』……これが波戸様の制約です。
この現実逃避プランは、見てのとおり儲けはございません。
お客様に、本来あるべき生活をして頂きたい、との気持ちで取り組んでいる慈善事業のようなものですが、その為にはお客様の行動を制限した方が良い場合がございましてね。
今回の件で言えば、のんびりとした時間を過ごす事で逆に焦りを覚えてしまうかもしれない……そう危惧して、このように定めさせて頂きました」
「つまり、沖縄逃避を満喫する為、無理に働くなって事?」
「ええ。癒しを求めて沖縄に行くのですからね」
「無理に、って表現は曖昧じゃないか。どうとでも解釈できるぞ」
「休日出勤程度の無理をした場合、と捉えて頂いて結構です。
普通に定められた時間を働く分には、なんら問題ございません」
「……ううん」
自分もそのつもりでいたから、それはいい。
制約に抜け道はないようだし、これに引っかかる事はまずないだろう。
それでも不安にさせるのは、文末の文言があるからだ。
「それじゃあ、この大切なものを失うってのは?」
「制約は、代償があってこそ成り立つものですよ」
「理屈は分かるよ。何を失うのか聞きたいんだ。お金?」
「それは分かりません。大切なものとは流動的ですからね。
明日には別のものを大切に思っているかもしれない。
それ故、明確な記載ができないのです。もちろん可能性としてはお金もあるでしょう。……ですが、これまでお話した印象では、波戸様の場合はお金ではない印象を受けます」
「俺の……大切なもの……」
候補が次々と頭に浮かんでは消える。そのうちのどれが残るのか、波戸には見当がつかなかった。
失う、という文言も気になる。
取られるわけではなく、喪失すると言いたいのだろうか。
怪しい。曖昧な部分が多すぎて、どれだけ話を聞いても疑問が残る。
「そうそう、忘れていました。実は他にもお願いがございまして」
天津が両手を叩いた。波戸の訝しみを潰してしまうかのような手つきだった。
それから、身を翻して棚へと戻る。
再度の後出しに、波戸は肩を強張らせた。
やっぱりこの店は危険だ。
これ以上妙な条件を付けられるのなら、断った方がいいかもしれない。
「……お願いって、なんだよ」
「実に簡単な事ですよ。経費計上できないので、契約書には書いておりませんが……」
天津が音もなく振り返る。
彼の手には、朱色の走ったお猪口が乗っていた。
「宜しければ、現地から泡盛を送って頂けませんでしょうか」
「あ、泡盛……?」
「前に言ったでしょう? 私、お酒に目がないものでして」
彼の笑みは、いつの間にか人間味のある苦笑へと変わっていた。