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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File4.五十嵐美穂(30) 夫家族からの現実逃避
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其之五 -電話-

 翌日、夕食を終えた美穂が自室に戻ると、タイミングを計ったかのようにスマートフォンの着信音が鳴り響いた。

 卓上に置いていた端末を手にすると、モニターに次彦の名前が表示されている。

 夫から連絡を受けるのは、この三週間で初めてだった。


「もしもし、貴方?」

『――久しぶり、美穂。今、大丈夫かい』

「ええ、もちろん」

 そう返しながら、ソファに腰掛けて、こわばった身体を落ち着かせようとする。


『ちょっと、声が上ずっていないかい?』

「ええ、貴方から連絡があるなんて思わなかったから驚いたわ」

『連絡があると困る、とも解釈できる発言だな』

「そ、そんなわけじゃ……」

『分かっているよ、冗談だ』

 次彦はおどけた声で言ってみせたが、彼が冗談を口にするなんて滅多にない。

 美穂の脳は即座に冗談とは受け付けず、妙な間ができてしまう。芸能人がスベるのは、こういう時なのかもしれない。


「はあ、冗談……。それで、何かありましたか?」

『いや、特別用事があるわけじゃないんだよ。ちょっと話でもしたくなっただけだ』

「私と?」

『他に誰がいるんだよ。大丈夫かい、美穂』

「そ、そうよね……ふふっ、ごめんなさい」

 そう笑い声を漏らし、身体をより深くソファに預ける。


『笑ってくれて、安心したよ。君が管理人代理になった時は驚いたけれど、当の君は俺以上に衝撃を受けただろうね。慣れない生活に苦労はしていないかい?』

「気を遣ってくれてありがとう。でも大丈夫。料理は好きだし、寮の人達も……皆、優しいから」

『なら良かったよ』

「貴方達の方こそ大丈夫? お義母さんの看病があるし、家事が大変じゃない?」

『三人の当番制でやっているよ。父さんも姉さんも苦労はしているようだけど、俺は意外と料理は楽しんでいる』

「あら、それは意外ね」

『レシピの分量と睨み合ったり、時間通りの作業を試みるのは、俺に合っているんだろう』

「でしたら何よりだわ。……でも、楽ではないでしょう?」

『そりゃあ、ね。当然忙しくはなったけれど、君が気にする必要はない。仕事でそっちに行っているんだから、自分の仕事をまっとうするように』

「……ごめんなさい。なるべく早く戻らないといけないわよね」

『とはいえ、きっちり期間満了するまでは、そうもいかないだろう。最後までやり遂げるように。そしたら……』

「そしたら?」

『二人で、湯布院(ゆふいん)辺りにでも羽を伸ばしに行こうか』

「えっ……?」

『この三週間で、気づかされたんだよ』

 電話越しに聞こえてくる次彦の声に、温かみを感じる。

 言葉だけでなく、口調にも優しさが籠っているようだった。




「気付かされたって、何を……?」

『元々は君の器量の良さに惹かれて結婚したのに、段々とその器量を利用するようになっていなかっただろうか、とね』

「あ、貴方……」

『別に、今の生活が不便だから、そう思ったわけじゃない。

 ……君がいない毎日が、なんだか寂しかったんだ。

 それで、どんな日々を過ごしていただろうかと思い返しているうちに、君に酷い事をしていたと気が付いたんだ。……これまで、すまなかった。温泉で羽を伸ばした程度じゃ報われないのは分かっているが……どうかな?』

「……嬉しいわ」

 声が震えかける。

 それでも、なんとか涙は流さずに、明るい声で返事ができた。

 もちろん、夫との関係が改善できても、他の者からの圧力が変わらないのは分かっている。

 ならば……。

 ならば、やはりあの決断を伝えるべきだろう。



「……ねえ、貴方。温泉も良いけれど、どこか……」

『ただ、今は仕事が大事な時期だから、それが落ち着いてからになるけどね。いいかな?

 俺がやらないと、絶対に回らない仕事なんだ』

「……あ、は、はい」

 口にしかけた言葉を、結局は飲み込んでしまう。


 彼と共に、どこか別の土地で暮らせれば、どんなに良い事だろうか。

 だが、受け入れてもらえるわけがない。

 現実逃避を求めれば、彼にも、これまで築いてきたものを放棄してもらう必要がある。

 銀行員のエリート街道も、そのうちの一つだが、

 仕事への責任感を口にした彼に、それを失えとは言えなかった。




「……ごめんなさい。そろそろ失礼しても良いかしら。まだ就寝前の清掃が残っていて」

『体、壊さないようにね』

「ありがとう。おやすみなさい」

『おやすみ』


 短い言葉のやり取りをして、終話ボタンを押す。

 だが、すぐには立ち上がらず、美穂はそのまま全身をソファに投げ出した。


 幸福感と、苦悩と。

 それら二つが、美穂の体に重くのしかかっている。

 決断まで残された期間は、そう長くはない。

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