其之五 -電話-
翌日、夕食を終えた美穂が自室に戻ると、タイミングを計ったかのようにスマートフォンの着信音が鳴り響いた。
卓上に置いていた端末を手にすると、モニターに次彦の名前が表示されている。
夫から連絡を受けるのは、この三週間で初めてだった。
「もしもし、貴方?」
『――久しぶり、美穂。今、大丈夫かい』
「ええ、もちろん」
そう返しながら、ソファに腰掛けて、こわばった身体を落ち着かせようとする。
『ちょっと、声が上ずっていないかい?』
「ええ、貴方から連絡があるなんて思わなかったから驚いたわ」
『連絡があると困る、とも解釈できる発言だな』
「そ、そんなわけじゃ……」
『分かっているよ、冗談だ』
次彦はおどけた声で言ってみせたが、彼が冗談を口にするなんて滅多にない。
美穂の脳は即座に冗談とは受け付けず、妙な間ができてしまう。芸能人がスベるのは、こういう時なのかもしれない。
「はあ、冗談……。それで、何かありましたか?」
『いや、特別用事があるわけじゃないんだよ。ちょっと話でもしたくなっただけだ』
「私と?」
『他に誰がいるんだよ。大丈夫かい、美穂』
「そ、そうよね……ふふっ、ごめんなさい」
そう笑い声を漏らし、身体をより深くソファに預ける。
『笑ってくれて、安心したよ。君が管理人代理になった時は驚いたけれど、当の君は俺以上に衝撃を受けただろうね。慣れない生活に苦労はしていないかい?』
「気を遣ってくれてありがとう。でも大丈夫。料理は好きだし、寮の人達も……皆、優しいから」
『なら良かったよ』
「貴方達の方こそ大丈夫? お義母さんの看病があるし、家事が大変じゃない?」
『三人の当番制でやっているよ。父さんも姉さんも苦労はしているようだけど、俺は意外と料理は楽しんでいる』
「あら、それは意外ね」
『レシピの分量と睨み合ったり、時間通りの作業を試みるのは、俺に合っているんだろう』
「でしたら何よりだわ。……でも、楽ではないでしょう?」
『そりゃあ、ね。当然忙しくはなったけれど、君が気にする必要はない。仕事でそっちに行っているんだから、自分の仕事をまっとうするように』
「……ごめんなさい。なるべく早く戻らないといけないわよね」
『とはいえ、きっちり期間満了するまでは、そうもいかないだろう。最後までやり遂げるように。そしたら……』
「そしたら?」
『二人で、湯布院辺りにでも羽を伸ばしに行こうか』
「えっ……?」
『この三週間で、気づかされたんだよ』
電話越しに聞こえてくる次彦の声に、温かみを感じる。
言葉だけでなく、口調にも優しさが籠っているようだった。
「気付かされたって、何を……?」
『元々は君の器量の良さに惹かれて結婚したのに、段々とその器量を利用するようになっていなかっただろうか、とね』
「あ、貴方……」
『別に、今の生活が不便だから、そう思ったわけじゃない。
……君がいない毎日が、なんだか寂しかったんだ。
それで、どんな日々を過ごしていただろうかと思い返しているうちに、君に酷い事をしていたと気が付いたんだ。……これまで、すまなかった。温泉で羽を伸ばした程度じゃ報われないのは分かっているが……どうかな?』
「……嬉しいわ」
声が震えかける。
それでも、なんとか涙は流さずに、明るい声で返事ができた。
もちろん、夫との関係が改善できても、他の者からの圧力が変わらないのは分かっている。
ならば……。
ならば、やはりあの決断を伝えるべきだろう。
「……ねえ、貴方。温泉も良いけれど、どこか……」
『ただ、今は仕事が大事な時期だから、それが落ち着いてからになるけどね。いいかな?
俺がやらないと、絶対に回らない仕事なんだ』
「……あ、は、はい」
口にしかけた言葉を、結局は飲み込んでしまう。
彼と共に、どこか別の土地で暮らせれば、どんなに良い事だろうか。
だが、受け入れてもらえるわけがない。
現実逃避を求めれば、彼にも、これまで築いてきたものを放棄してもらう必要がある。
銀行員のエリート街道も、そのうちの一つだが、
仕事への責任感を口にした彼に、それを失えとは言えなかった。
「……ごめんなさい。そろそろ失礼しても良いかしら。まだ就寝前の清掃が残っていて」
『体、壊さないようにね』
「ありがとう。おやすみなさい」
『おやすみ』
短い言葉のやり取りをして、終話ボタンを押す。
だが、すぐには立ち上がらず、美穂はそのまま全身をソファに投げ出した。
幸福感と、苦悩と。
それら二つが、美穂の体に重くのしかかっている。
決断まで残された期間は、そう長くはない。




