其之四 -ゴリラ再び-
このまま、社員寮で働き続けられないだろうか。
天神での新生活が始まって三週間経ったが、その考えは日増しに膨らんでいた。
まず、料理が楽しくて仕方がない。他にも清掃業務があるし、人の出入りがある年度末は多忙となるのだろうが、それを差し引いても、銀行で張り詰めた時間を過ごすよりは気楽で良い。
それに、仕事の内容以上に、人間関係が良いのだ。
社員達は相変わらず気軽に接してくれるし、時には、管理人の仕事を手伝ってくれる事さえある。夫一族といる時のような緊張感は一切ないのだ。もちろん皆の気遣いあってこそなので、美穂としてもそれに応えようと、ちょっとしたお菓子を作ったり、夕食にプラスワンしたりするのだが、それもまた楽しく思える。
だが、充実感を覚えた後は、決まって現実を思いだしてしまう。
いつかは、夫の実家に帰らなくてはならない。そうしないと、あの家は回らなくなっている。
理想と、現実。
どちらを取ればよいのか、美穂は分からなくなっていた。
「じゃあ、あと一週間で五十嵐さんともお別れってわけですか」
隣を歩く伊藤が、青いコートの端を握りながらそう言った。
明朝に出す牛乳を買い忘れていた為、深夜になって買い物に出かけようとしたのだが、そこを彼に見られてしまい、強引に同行されたのである。
一応、固辞はしたものの、夜の街を一人で歩くのは不安でもあったし、本音では彼の存在が心強い。
思えば、他の社員と比べても、彼は特別自分を案じてくれている。
後輩への点数稼ぎだ、と彼は言ったものの、何か他に含むものがある気がするのだ。
「そうねえ。前の管理人さんも順調に回復しているらしいから」
「残念だな。あ、いや、回復自体は良い事だと思うけどさ」
「分かっているわ。……でも、私も今の生活がなくなるのは惜しいかも」
少しだけ、小さな声で言う。
息が白くなった、等と関係のない事を考えた。
「へえ。どんなところが惜しいんですか?」
「……縁あって、短期間の管理人代理にはなったけれど、私も、元々は別のお仕事があるのよ。……でも、今の生活が気に入っちゃって。非日常感があって凄く楽しいわ」
「そっか。俺達も少しは、その非日常に貢献できているのかな」
「ええ、とても。……ちょっとだけね、このまま今の生活へ逃避したいとも思うくらいよ」
「じゃあ、そうしたらいいじゃないか」
「……無理よ。自分の身で置き換えてみたら、簡単じゃない事くらい分かるでしょう?」
「もちろん、分かるよ。……でも今まで歩んできた人生が間違っているとしたら?
今の生活が、本来送るべき日々なのだとしたら?
……棄てちゃいなよ、前の生活なんか。管理人代理、続けなよ」
伊藤は美穂の方を見なかったが、口調は真剣なものだった。
ちらと横目で観察すれば、彼はどことなく肩が張り、緊張しているようにも見受けられる。
……もしかしたら。
ふと、この後の展開が脳裏をよぎってしまい、周囲の様子を意識的に見る。
天神といえども郊外になれば、民家や公園の目立つ普通の住宅地で、喧騒とは無縁だった。
街灯で所々照らされたその街を、無言で並んで歩く。
色とりどりの落ち葉を意識的に踏みながら、ただただ歩く。
不思議な時間だった。
自分が、五十嵐美穂という人間ではないような気がした。
『伊藤と、どこかへ逃避するのはどうだろうか』
頭の中でそう囁いたのも、自分ではないのだろうか。
「五十嵐さん。俺……」
伊藤が、先に口を開いた。
彼の一人称が変わったのは、一体いつからだったろうか。
先手を打たなくてはいけない。自分の思い込みだったとしても、笑い話で済むはずだ。
「伊藤さん、駄目です」
「………」
「前に、お話した事がありましたよね。私は既婚者です」
彼に向かって左手を掲げながら、しっかりとした口調でそう告げる。
「……お見通し、か」
「私だって子供じゃないから、薄々は伝わってるわ」
男性がメインの寮なのだ。この可能性は事前に理解していた。
なのに、あまりにも居心地がよくて、警戒が緩んでいたのかもしれない。
「俺じゃあ、駄目だというわけ?」
「伊藤さんがどうのこうのという問題じゃないの。……それも分かっているでしょう?」
そう告げながら、歩調を少しだけ早める。
前方に街灯はなく、人がいるのかどうか、よく分からない。
「旦那さんがいるから駄目なんだよね。五十嵐さんの旦那さんだから、さぞ素晴らしい人だと思う。きっと、俺なんかより稼ぐ人なんだろう」
「稼ぎとか、人格とかでなく……」
「でも、俺なら五十嵐さんを……いえ、美穂さんをもっと幸せにする。貴方が忘れた感情を、もう一度思い出させてあげられる」
「ごめんなさい、本当に……」
忘れた感情。
その言葉に胸が高鳴りかけるが、平穏を保とうと強く意識する。
夫の顔を、思いださないと……
「美穂さん!」
伊藤が圧し掛かるように距離を詰めてきた。
反射的に背中を向けると、彼の両手が、美穂の腰に巻き付く。
全身に電流が走ったような衝撃を覚え、反射的に彼を押しのけようとするが……腕力に押し切られて動かせない。
「や、やめて……!」
「おい、何をしている!」
かすれたような声で叫ぶと、闇の中から男性の声が聞こえた。
姿は見えなかったが、誰かが小走りで近づいてくるような音もする。
足音は伊藤にも届いていたようで、彼は口元を震わせて美穂を見つめていたが、すぐに手を離して横道へと逃げた。
その衝撃にふらつきはするが、辛うじて踏み留まる。両手を膝の上について呼吸を整えているうちに、声をかけてくれた男が街灯下へと辿り着いた。
「大丈夫でしたか、お嬢さん」
「あ、ありがとうございます……はあっ……でも、私、お嬢さんなんて歳じゃあ……」
苦笑を浮かべながら、来てくれた男の顔を見上げる。
四角い輪郭に、眉の太い昭和の男のような顔立ち。
肩幅はゴリラのように広く……、
「……貴方、確か……」
「おや。天津の店で会った女性か?」
◇
沖精一と名乗ったその男は、近所のファミリーレストランに入ると、確認も取らずにホットコーヒーを二つ注文した。
カップ越しに伝わる熱気は、実際の温度以上に暖かい気がして、美穂の緊張感を大いに解してくれる。
そのせいだろうか。話の流れで、家庭の事情や現実逃避した事も、沖に語ってしまったが、不思議と勇み足を踏んだような気はしない。
先程の出来事を考えれば『誰しも裏がある』と、慎重になるべきなのだろう。相手は大柄な男だからなおの事である。
それでも気を許せたのは、何故だろうか。美穂にも理由はよく分からなかった。
「……なるほどねえ。人間関係に嫌気がさして現実逃避、か」
「でも、その結果、危険な目に遭うんですから、情けない話ですよね」
「いや、お嬢さんは悪くない。悪い男は別にいる!」
沖はぐっと握り拳を作りながら、そう主張した。
お嬢さんなんて歳ではないと、もう一度訂正したいところだったが、それを挟ませない迫力が彼にはあった。
「悪いのは、天津だ! 全部天津の仕業だ。奴が絡むとろくなことがない」
「は、はあ……。天津さんが……?」
思わぬ名前が出てきて、きょとんとしてしまう。
だが、それに構わず、沖は腕を振り回すようにして力説を続けた。
「そう、天津が! 俺は過去に、奴に関わった客を何人か見たが、皆ロクな目に遭っちゃいない」
「じゃあ、伊藤さんが私を襲ったのは、天津さんの差し金と……?」
「もちろんだ。まだ詳しい事情は分からないが、奴が全部悪いに決まっている! ……あ、お姉さん、これ下さい」
なおも根拠のない主張を続けながら、近くを歩いたウェイトレスに、フライドポテトを追加で注文する。
その姿が随分とコミカルに見えて、美穂は思わず吹き出してしまった。
確かに、別件でなら天津を疑った事はあるし、彼からは怪しげな雰囲気を感じもする。
とはいえ……天津と沖の、遊山屋での様子も考慮すると、沖の主張の理由は何かしらの私怨だろう。
多分、天津と伊藤は無関係だ。
むしろ沖の反応のお陰で、美穂はその考えに至った。
「む……俺が何か変な事でも?」
「ふふっ。いえ、そうじゃありません。ただ、沖さんのお陰で落ち着けました。ありがとうございます」
「ならば良いが。しかし、いつでも俺が助けられるわけじゃない。今後は重々気を付けて」
「……そうか。私、助けられたんですね」
「悲鳴を聞いて、俺が一方的に駆けつけただけだ。気にしなくていいぞ」
天津との制約はあるが、確かに先程は、単に悲鳴をあげただけで、助けを求めたわけではなかった。
おそらくは大丈夫だろうと考え、自分を安心させるかのように深く頷く。
それを返答と勘違いした沖は、ポケットからタバコを取り出し「吸っても良いかな?」と確認した上で、火を灯して咥えた。
夫も吸うから、タバコの香りはあまり気にならない。
離れて暮らして三週間なのに、あの煙たさが随分と懐かしいような気がした。
「……しかし、なんだなあ」
「まだ、天津さんが気になるのですか?」
「いや、お嬢さんの事が、だよ」
沖は煙草をふかしながら、真剣な口調でそう言う。
口説いているとも解釈できる言葉だったが、煙の向こうに見える沖の鋭い目付きが、そうではない事を物語っていた。
「私が、何か?」
「いやな、天津の存在を差し引いても、よく現実逃避なんかする気になったな、と思ったんだよ」
「……沖さんも分かって下さっているとは思いますが、それだけ、元の生活環境が息苦しいんです」
「そうだろうな。……だが、考えてみてくれ。それらは、避けては通れない存在じゃないのか?」
沖の言わんとする事が、まだよく分からない。
黙って彼の目を見つめると、それに呼応して、沖はすぐに話を続けた。
「俺にも、会いたくない奴や、顔を合わせたくない奴はゴロゴロいる。天津以外にもな。だが、望んでそんな奴らと知り合ったわけじゃないんだよ」
「………」
「人生はいつも良かれと思う道を歩んできた。それは断言できる。それでも出会っちまう嫌な奴ってのは、前向きな行動から生まれているんだよ。
俺は好んで探偵という仕事に就いたが、この世界では、俺が事前に思っていた以上に、悪意を持った人間と接する事が多かった。
お嬢さんだって、そうだろう? お偉いさんが旦那さんになったせいで、上司が嫌みになったし、家族からいびられているんだろう?」
「だから、避けて通れない、元の生活環境で生きるしかない……そう言われたいのですね」
「そうだ。そんなに都合よく嫌な部分だけ削り落とせるものじゃない。結果として、嫌な奴に付随する大切な存在も失うぞ。
現実逃避ってのは、それだけ重い行動だ。だから、誰もが自重しているはずだ。
お嬢さん。本当に現実逃避をしたいのなら……腹を決めなきゃいかんぞ」
沖が矢継ぎ早にまくし立てる。
その勢いに完全に飲み込まれて、美穂はすぐには言葉を絞り出せなかった。
「……でも」
口にする事ができたのは、それだけだ。
でも、苦しいのだ。
良かれと思って進んだ道を捻じ曲げたいくらい、心が痛むのだ。
だから、天津の胡散臭い話にも飛びついたのだ。
理想と現実、どちらを取ろうかなんて、今までずっと悩んできた事である。
それでも、もう一度考えてみると、沖という新たな切り口のお陰か、答えはすんなりと浮かび上がってきた。
……確かに、一人で現実逃避すれば、大切な存在も失ってしまうだろう。
ならば、その大切な存在と共に現実逃避すれば良いのではないだろうか。
夫と結婚した結果、苦しい環境に陥ったのなら、夫と共に現実逃避すれば良いのではないだろうか。
「まあ、結局決めるのはお嬢さん自身だ。……まだ考える時間はあるんだろう?」
「……いえ、考えはまとまりました」
沖の目をしっかりと見据えながら、美穂は頷いた。




