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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File4.五十嵐美穂(30) 夫家族からの現実逃避
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其之四 -ゴリラ再び-

 このまま、社員寮で働き続けられないだろうか。


 天神での新生活が始まって三週間経ったが、その考えは日増しに膨らんでいた。

 まず、料理が楽しくて仕方がない。他にも清掃業務があるし、人の出入りがある年度末は多忙となるのだろうが、それを差し引いても、銀行で張り詰めた時間を過ごすよりは気楽で良い。


 それに、仕事の内容以上に、人間関係が良いのだ。

 社員達は相変わらず気軽に接してくれるし、時には、管理人の仕事を手伝ってくれる事さえある。夫一族といる時のような緊張感は一切ないのだ。もちろん皆の気遣いあってこそなので、美穂としてもそれに応えようと、ちょっとしたお菓子を作ったり、夕食にプラスワンしたりするのだが、それもまた楽しく思える。


 だが、充実感を覚えた後は、決まって現実を思いだしてしまう。

 いつかは、夫の実家に帰らなくてはならない。そうしないと、あの家は回らなくなっている。

 理想と、現実。

 どちらを取ればよいのか、美穂は分からなくなっていた。





「じゃあ、あと一週間で五十嵐さんともお別れってわけですか」

 隣を歩く伊藤が、青いコートの端を握りながらそう言った。

 明朝に出す牛乳を買い忘れていた為、深夜になって買い物に出かけようとしたのだが、そこを彼に見られてしまい、強引に同行されたのである。

 一応、固辞はしたものの、夜の街を一人で歩くのは不安でもあったし、本音では彼の存在が心強い。

 思えば、他の社員と比べても、彼は特別自分を案じてくれている。

 後輩への点数稼ぎだ、と彼は言ったものの、何か他に含むものがある気がするのだ。



「そうねえ。前の管理人さんも順調に回復しているらしいから」

「残念だな。あ、いや、回復自体は良い事だと思うけどさ」

「分かっているわ。……でも、私も今の生活がなくなるのは惜しいかも」

 少しだけ、小さな声で言う。

 息が白くなった、等と関係のない事を考えた。


「へえ。どんなところが惜しいんですか?」

「……縁あって、短期間の管理人代理にはなったけれど、私も、元々は別のお仕事があるのよ。……でも、今の生活が気に入っちゃって。非日常感があって凄く楽しいわ」

「そっか。俺達も少しは、その非日常に貢献できているのかな」

「ええ、とても。……ちょっとだけね、このまま今の生活へ逃避したいとも思うくらいよ」

「じゃあ、そうしたらいいじゃないか」

「……無理よ。自分の身で置き換えてみたら、簡単じゃない事くらい分かるでしょう?」

「もちろん、分かるよ。……でも今まで歩んできた人生が間違っているとしたら?

 今の生活が、本来送るべき日々なのだとしたら?

 ……棄てちゃいなよ、前の生活なんか。管理人代理、続けなよ」


 伊藤は美穂の方を見なかったが、口調は真剣なものだった。

 ちらと横目で観察すれば、彼はどことなく肩が張り、緊張しているようにも見受けられる。



 ……もしかしたら。



 ふと、この後の展開が脳裏をよぎってしまい、周囲の様子を意識的に見る。

 天神といえども郊外になれば、民家や公園の目立つ普通の住宅地で、喧騒とは無縁だった。

 街灯で所々照らされたその街を、無言で並んで歩く。

 色とりどりの落ち葉を意識的に踏みながら、ただただ歩く。

 不思議な時間だった。

 自分が、五十嵐美穂という人間ではないような気がした。

『伊藤と、どこかへ逃避するのはどうだろうか』

 頭の中でそう囁いたのも、自分ではないのだろうか。





「五十嵐さん。俺……」

 伊藤が、先に口を開いた。

 彼の一人称が変わったのは、一体いつからだったろうか。

 先手を打たなくてはいけない。自分の思い込みだったとしても、笑い話で済むはずだ。


「伊藤さん、駄目です」

「………」

「前に、お話した事がありましたよね。私は既婚者です」

 彼に向かって左手を掲げながら、しっかりとした口調でそう告げる。


「……お見通し、か」

「私だって子供じゃないから、薄々は伝わってるわ」

 男性がメインの寮なのだ。この可能性は事前に理解していた。

 なのに、あまりにも居心地がよくて、警戒が緩んでいたのかもしれない。

「俺じゃあ、駄目だというわけ?」

「伊藤さんがどうのこうのという問題じゃないの。……それも分かっているでしょう?」

 そう告げながら、歩調を少しだけ早める。

 前方に街灯はなく、人がいるのかどうか、よく分からない。



「旦那さんがいるから駄目なんだよね。五十嵐さんの旦那さんだから、さぞ素晴らしい人だと思う。きっと、俺なんかより稼ぐ人なんだろう」

「稼ぎとか、人格とかでなく……」

「でも、俺なら五十嵐さんを……いえ、美穂さんをもっと幸せにする。貴方が忘れた感情を、もう一度思い出させてあげられる」

「ごめんなさい、本当に……」

 忘れた感情。

 その言葉に胸が高鳴りかけるが、平穏を保とうと強く意識する。

 夫の顔を、思いださないと……

「美穂さん!」

 伊藤が圧し掛かるように距離を詰めてきた。

 反射的に背中を向けると、彼の両手が、美穂の腰に巻き付く。

 全身に電流が走ったような衝撃を覚え、反射的に彼を押しのけようとするが……腕力に押し切られて動かせない。


「や、やめて……!」

「おい、何をしている!」

 かすれたような声で叫ぶと、闇の中から男性の声が聞こえた。

 姿は見えなかったが、誰かが小走りで近づいてくるような音もする。

 足音は伊藤にも届いていたようで、彼は口元を震わせて美穂を見つめていたが、すぐに手を離して横道へと逃げた。

 その衝撃にふらつきはするが、辛うじて踏み留まる。両手を膝の上について呼吸を整えているうちに、声をかけてくれた男が街灯下へと辿り着いた。


「大丈夫でしたか、お嬢さん」

「あ、ありがとうございます……はあっ……でも、私、お嬢さんなんて歳じゃあ……」

 苦笑を浮かべながら、来てくれた男の顔を見上げる。

 四角い輪郭に、眉の太い昭和の男のような顔立ち。

 肩幅はゴリラのように広く……、


「……貴方、確か……」

「おや。天津の店で会った女性か?」









 ◇









 沖精一と名乗ったその男は、近所のファミリーレストランに入ると、確認も取らずにホットコーヒーを二つ注文した。

 カップ越しに伝わる熱気は、実際の温度以上に暖かい気がして、美穂の緊張感を大いに解してくれる。

 そのせいだろうか。話の流れで、家庭の事情や現実逃避した事も、沖に語ってしまったが、不思議と勇み足を踏んだような気はしない。

 先程の出来事を考えれば『誰しも裏がある』と、慎重になるべきなのだろう。相手は大柄な男だからなおの事である。

 それでも気を許せたのは、何故だろうか。美穂にも理由はよく分からなかった。



「……なるほどねえ。人間関係に嫌気がさして現実逃避、か」

「でも、その結果、危険な目に遭うんですから、情けない話ですよね」

「いや、お嬢さんは悪くない。悪い男は別にいる!」

 沖はぐっと握り拳を作りながら、そう主張した。

 お嬢さんなんて歳ではないと、もう一度訂正したいところだったが、それを挟ませない迫力が彼にはあった。



「悪いのは、天津だ! 全部天津の仕業だ。奴が絡むとろくなことがない」

「は、はあ……。天津さんが……?」

 思わぬ名前が出てきて、きょとんとしてしまう。

 だが、それに構わず、沖は腕を振り回すようにして力説を続けた。


「そう、天津が! 俺は過去に、奴に関わった客を何人か見たが、皆ロクな目に遭っちゃいない」

「じゃあ、伊藤さんが私を襲ったのは、天津さんの差し金と……?」

「もちろんだ。まだ詳しい事情は分からないが、奴が全部悪いに決まっている! ……あ、お姉さん、これ下さい」

 なおも根拠のない主張を続けながら、近くを歩いたウェイトレスに、フライドポテトを追加で注文する。

 その姿が随分とコミカルに見えて、美穂は思わず吹き出してしまった。


 確かに、別件でなら天津を疑った事はあるし、彼からは怪しげな雰囲気を感じもする。

 とはいえ……天津と沖の、遊山屋での様子も考慮すると、沖の主張の理由は何かしらの私怨だろう。

 多分、天津と伊藤は無関係だ。

 むしろ沖の反応のお陰で、美穂はその考えに至った。



「む……俺が何か変な事でも?」

「ふふっ。いえ、そうじゃありません。ただ、沖さんのお陰で落ち着けました。ありがとうございます」

「ならば良いが。しかし、いつでも俺が助けられるわけじゃない。今後は重々気を付けて」

「……そうか。私、助けられたんですね」

「悲鳴を聞いて、俺が一方的に駆けつけただけだ。気にしなくていいぞ」

 天津との制約はあるが、確かに先程は、単に悲鳴をあげただけで、助けを求めたわけではなかった。

 おそらくは大丈夫だろうと考え、自分を安心させるかのように深く頷く。

 それを返答と勘違いした沖は、ポケットからタバコを取り出し「吸っても良いかな?」と確認した上で、火を灯して咥えた。

 夫も吸うから、タバコの香りはあまり気にならない。

 離れて暮らして三週間なのに、あの煙たさが随分と懐かしいような気がした。




「……しかし、なんだなあ」

「まだ、天津さんが気になるのですか?」

「いや、お嬢さんの事が、だよ」

 沖は煙草をふかしながら、真剣な口調でそう言う。

 口説いているとも解釈できる言葉だったが、煙の向こうに見える沖の鋭い目付きが、そうではない事を物語っていた。


「私が、何か?」

「いやな、天津の存在を差し引いても、よく現実逃避なんかする気になったな、と思ったんだよ」

「……沖さんも分かって下さっているとは思いますが、それだけ、元の生活環境が息苦しいんです」

「そうだろうな。……だが、考えてみてくれ。それらは、避けては通れない存在じゃないのか?」

 沖の言わんとする事が、まだよく分からない。

 黙って彼の目を見つめると、それに呼応して、沖はすぐに話を続けた。


「俺にも、会いたくない奴や、顔を合わせたくない奴はゴロゴロいる。天津以外にもな。だが、望んでそんな奴らと知り合ったわけじゃないんだよ」

「………」

「人生はいつも良かれと思う道を歩んできた。それは断言できる。それでも出会っちまう嫌な奴ってのは、前向きな行動から生まれているんだよ。

 俺は好んで探偵という仕事に就いたが、この世界では、俺が事前に思っていた以上に、悪意を持った人間と接する事が多かった。

 お嬢さんだって、そうだろう? お偉いさんが旦那さんになったせいで、上司が嫌みになったし、家族からいびられているんだろう?」

「だから、避けて通れない、元の生活環境で生きるしかない……そう言われたいのですね」

「そうだ。そんなに都合よく嫌な部分だけ削り落とせるものじゃない。結果として、嫌な奴に付随する大切な存在も失うぞ。

 現実逃避ってのは、それだけ重い行動だ。だから、誰もが自重しているはずだ。

 お嬢さん。本当に現実逃避をしたいのなら……腹を決めなきゃいかんぞ」

 沖が矢継ぎ早にまくし立てる。

 その勢いに完全に飲み込まれて、美穂はすぐには言葉を絞り出せなかった。




「……でも」

 口にする事ができたのは、それだけだ。

 でも、苦しいのだ。

 良かれと思って進んだ道を捻じ曲げたいくらい、心が痛むのだ。

 だから、天津の胡散臭い話にも飛びついたのだ。


 理想と現実、どちらを取ろうかなんて、今までずっと悩んできた事である。

 それでも、もう一度考えてみると、沖という新たな切り口のお陰か、答えはすんなりと浮かび上がってきた。


 ……確かに、一人で現実逃避すれば、大切な存在も失ってしまうだろう。

 ならば、その大切な存在と共に現実逃避すれば良いのではないだろうか。

 夫と結婚した結果、苦しい環境に陥ったのなら、夫と共に現実逃避すれば良いのではないだろうか。




「まあ、結局決めるのはお嬢さん自身だ。……まだ考える時間はあるんだろう?」

「……いえ、考えはまとまりました」

 沖の目をしっかりと見据えながら、美穂は頷いた。

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