其之三 -管理人代理-
天神の社員寮は、繁華街から大分離れた閑静な場所にあった。
コンクリート製の四階建てで、外から見ると普通のマンションにも見えるが、玄関を潜った先に広がっている食堂が、そうではない事を物語っていた。
食堂には、食事用と思われる安っぽいパイプ机が並んでいて、薄型テレビが一台だけ備わっている。奥にはキッチンのような場所も見えたが、そこを確認する前に、テレビを見ていた男性が美穂に気付き、近づいてきた。
「あー……もしかして、五十嵐美穂さん?」
「はい、五十嵐ですが……」
「やっぱりそうだ。話は聞いていますよ。僕、この社員寮で暮らしています、伊藤と言います」
落ち着いた顔立ちの男は伊藤と名乗り、白い歯をにっと輝かせて挨拶してきた。
見たところ、同年代だろうか。活舌はやたら良い。もしかしたら営業かもしれない、との印象を持った。
「ご丁寧にどうも。短い間ですがお世話になります」
「いやいや、お世話になるのはこっちの方ですよ。僕を含めて、若い連中は皆自炊が苦手で……。前の管理人さんが入院されてから、ずっと食事に困っていたんです」
「でしたら、今日からしっかりと用意させて頂きますね」
「楽しみにしています。あ、腕を振るって頂くのはこっちになります」
伊藤はそう言うと、体を反転させてキッチンへと歩きだした。
後に続いて近くで見ると、作業スペースが大きく取られているのが分かる。清掃も隅々まで行き届いていて、元々の管理人の人柄が見て取れた。
業務用の大型冷蔵庫を開くと、中には一通りの調味料が揃っていたが、食材の類は何も残っていない。
それを調達するのが最初の仕事だと思うと、テンションは嫌でも高まった。
「しっかりとしたキッチンのようですね。ちょっと楽しくなってきました」
「それでしたら、良かったです」
「では、早速買い出しでも……。あ、荷物はどこに置いたら良いでしょうか」
「ああ、使って頂く部屋が食堂の隣にありますから、手荷物はそこに置いて下さい。事前に送って頂いた私物も搬入済みです。
経費の落とし方とか、寮の門限とか、管理人の仕事に関わる事は、前管理人さんから聞いたメモを用意しています。これも部屋に置いていますので、お時間がある時にでも読んで下さい」
「そうでしたか。ご丁寧にありがとうございます。お優しいんですね」
「気にしないで下さい。これも僕の仕事ですから」
伊藤は照れ臭そうに笑いながらそう言い、近くの椅子に腰かけた。
「僕、一応この社員寮では最年長になるんですよ。なので、今日は住人を代表して、案内の為に五十嵐さんを待っていたんです」
「それでも案内して貰えてありがたいわ」
「いや……案内はちょっと見栄を張っちゃったかな。本当は打算なんです。元々本店勤務だったんですが、昨年ここに異動になったもので、若い連中からは、突然来た面倒臭そうなおっさん、みたく思われているんです。その分の点数稼ぎですね」
「お幾つか聞いても良いかしら」
「今年で二十九歳になります」
「憂鬱な年頃ね。私は今年でその憂鬱ラインを越えてしまったわ」
「とすると、三十歳ですか。意外だな。もっと若いと思っていた」
聞きようによってはセクハラとも解釈できる発言だが、彼に他意はないようだった。
美穂としても、素直に誉め言葉として受け取り、微笑んでみせる。
「ふふっ。おだてても、何も出てきませんよ?」
「それは残念。夕食に好物のから揚げが出るくらいは期待していたんだけどな」
「食材次第では検討するわ。じゃあ、早速買い出しに行かないと」
「外も案内しましょうか?」
「ありがとう。でも少しは道も分かるし、途中でスーパーに目星も付けてきたから大丈夫よ」
そう断ると、伊藤も無理に着いて来ようとせず「何かあったら声を掛けて下さい」と言い残して食堂から出ていった。
どうやら、この新生活は幸先が良いようである。
美穂も軽い足取りで食堂を出て、教えられた部屋に入る。内装は1Kで、管理人室というにはやや貧相だった。おそらく本来の管理人室は別にあるのだろうが、不満はない。
少しのんびりしたい気持ちもあったが、時刻は間もなく午後二時になる。約二十人分の夕食作りは初めての経験だし、早めに取り掛かった方が良いと考えた美穂は、荷物を置いてスーパーへと出かけた。
だが、ここで一つ判断を誤った。
パン粉と油は備蓄を使えるが、大量の鶏肉は当然新たに買う必要があるし、その他、ポテトサラダとみそ汁の材料だけでも、一度の買い物だけでは到底運べそうにない。それに加えて、明朝の食材も今のうちに用意しておいた方が良いだろう。
結局、買い物を終えたのは午後五時過ぎになってしまった。
キッチンに貼られたタイムスケジュールを見る限り、夕食の定刻は午後七時から午後九時の間までとなっている。勤務初日から遅れるわけにはいかないし、腹を空かせているであろう皆にも申し訳ない。猫の手も借りたいと思いながら米を研ぎ始めたのだが……『猫』は、まさしくその時やってきた。
「五十嵐さん、お邪魔します」
親しげな声と共に食堂へ入ってきたのは、伊藤と、彼よりも若年と思われる男性二人であった。
「あら、伊藤さん。……そちらの方々は?」
「寮の後輩です。初日で大変でしょうから、手伝おうと思って」
手伝う。
その言葉に、少しだけドキリとするものの、伊藤が連れてきた二人は知らない顔だった。
天津との制約である『旧知』には該当しないようで、胸を撫でおろしつつ、その胸をすぐに高鳴らせてキッチンから出た。
「本当に? 思っていたよりも時間がかかるみたいで、困っていたの。凄く助かるわ。……二人とも、初めまして。これから一ヶ月間、管理人代理としてお世話になる五十嵐美穂です」
「うす」
「お世話になります」
伊藤に比べると無愛想気味に頭を下げた二人は、聞けばまだ二十二歳で入寮したてだという。
少々固い反応ではあったが、夕食を作っているうちに、伊藤が間を取り持った事もあって、すぐに打ち解けた。二人とも年相応にフランクな部分はあるものの、管理人代理の美穂に感謝している好青年だった。
やがて、時刻が午後七時に近づくと、彼らのような若者が次々と食堂に入ってくる。
彼らも皆、美穂に対して好意的な反応を示してくれたのは、何よりだった。
(……懐かしいな、こういうの)
鍋の中で揚がるから揚げを見つめながら、美穂は思う。
こうも気が休まる時間を過ごせているのは、いつ以来だろうか。
夫の実家で過ごしている時より落ち着くし『本店人事部長の妻』という肩書は隠しているお陰で、必要以上に構われたり、逆に敬遠される事もない。
仕事も忙しくはあるが、好きな料理という事もあって、まったくもって苦ではなかった。
「お待たせしました。もうすぐから揚げ、あがりまーす!」
年甲斐もなく大きな声を食堂中にこだまさせ、美穂は菜箸を手に取るのであった。




