其之二 -再来-
『いほう不動産』の看板から、目を離す事ができなかった。
正式名称が大豊不動産である事は天津から聞かされているが、天神地下街の人目につきにくい立地もあって、遊山屋とは別の方向性で怪しげに感じられる。
それでも、前に遊山屋を訪れた時同様に、いかがわしい店だったら逃げ出せば良いし、天津が先に店に入ってくれた事もあって、ようやく美穂も足を踏み入れる。中の造りは普通の不動産屋で、天津の他に、人のよさそうな中年男性が椅子に腰かけていた。
「えっと……お邪魔します」
「ようこそ。店主の大豊です。宜しく」
大豊と名乗った中年男性は手を掲げ、気さくに挨拶を返してくれた。
その反応に少しだけ気持ちが落ち着くと、大豊は見計らったかのように、来客用テーブルの上に置かれた湯呑みを差した。
「まずは一息ついて下さいな。さっき入れたばかりだから、暖かいよ」
「どうも、頂きます」
「十一月も近づいて、最近はめっきり寒くなったからね。暖かいものが恋しい季節だ」
「ええ、まったくです」
テーブル前のソファに腰掛けて、湯呑みに口を付ける。
お愛想で飲むつもりだったが、喉が飲み物を欲していたのか、気が付けば半分ほど飲んでいた。
「……美味しいですね、これ」
「味の違いが分かるかい? そいつは嬉しいな。八女の緑茶なんだよ」
「私、喉を通る物に関しては多少うるさいんです。地元の銘茶、良いですね」
「まったくだ。……ところで、今日はどのようなご用件で? 事前に天津さんから受けた電話では、詳しい話を聞いていなくてね」
大豊は、傍に立っている天津の方を見ながらそう言った。
すると、視線を反射させるかのように、天津は美穂の方を見つめてくる。
美穂は小さく唾を飲み込んで、内緒話をするかのようにそっと口を開いた。
「実は……今の環境から逃避したいと考えているんです」
「ほう?」
「夫の実家で暮らしているのですが、居場所がなく……かといって、職場でも諸事情あって針のむしろなんです」
「人間関係という奴か。気持ちは分かる、と言うのは無責任な発言かな」
「いえ、お気持ちは嬉しいです。……それで、我慢の限界になりまして、つい先刻、天津さんのお店で現実逃避プランの話を聞いたんです。とはいえ、まだ具体的な事は何も決まっていないんですよ。『それを考えましょう』と言われて、ここには来ました」
出てきた言葉は、自分でも驚くくらいきっぱりとしたものだった。
これも、まだ両手に微かに残っている緑茶のぬくもりのお陰かもしれない。
とはいえ、不安が残っていないわけではなかった。
遊山屋で天津から聞いた現実逃避プランとやらは、いくらなんでも出来過ぎている。
一ヶ月間の現実逃避プランを無料同然で提供する……それだけでも信じ難いのに、自分をがんじがらめにしている現環境の問題まで解消してくれると彼は言ったのだ。
どんな手を使うのか皆目見当が付かず、怪訝な表情で話を聞いていると、天津もその気持ちを悟ったのか「具体的な話の前に、逃避先を楽しく考えましょう」と誘われ、大豊不動産に来る事になったのだ。
「なるほど。大変な日々を送っているようだ」
大豊は、おっとりとした優しげな声で同情を口にした。
月並みな言葉ではあるが、彼の口から聞くと他意はなさそうで、悪い気はしない。
怪しい不動産屋だけに、彼の人柄で釣り合いが取れているような気さえした。
「ところで、うちがどんな不動産屋かは、天津さんから聞いているかい?」
「はい。日本中どんな町だろうと転居先を紹介してくれるし、希望するなら、現地でのお仕事も斡旋してくれると……」
「そんなところだ。でもお客さんは、行き先も仕事も、確固たる希望はないのだよね」
「ええ……」
「だったら、まず仕事は忘れて、行き先から考えてみよう。どんな所でも構わないが、本当に希望はないのかい?」
「そう、ですね……」
顎に手を宛てながら、考え込む。
いざ日本中と言われても、逆に選択肢が多すぎて絞りにくい。やはり明確な案は浮かんでこなかったが、細やかな希望であれば、先刻からずっと持ち続けているのにようやく気が付いた。
「……身の安全、でしょうか」
「ふむ」
「現実逃避するのにこんな希望を挙げるのは変かもしれませんが、見ず知らずの土地でいきなり一ヶ月も暮らすのは、不安でもあるんです。特に治安が悪い場所は避けたいな、と……」
「なるほど、女性が一人暮らしするわけですから、もっともですね」
深く頷いて共感の言葉を口にしたのは、天津だった。
彼はスーツの胸ポケットから扇子を取り出し、暑くもない店内で自身を仰ぎながら、言葉を付け足した。
「であれば、私に妙案がありますよ」
「教えてもらえますか?」
「天神に逃避する……というのはいかがでしょうか」
予想もしなかった答えが、天津の口から飛び出す。
思わずきょとんとしながらも、彼の言う意味を考えたが、美穂の表情はすぐに真顔へと変わっていった。
確かに天神ならば多少は見知った街だ。それでいて北九州からは十分に離れているから、別環境での生活も送れるだろう。治安だって悪くはない。少なくとも北九州よりはずっと良いと思う。
新鮮さには欠けるが、許容できる。それで良いじゃないか。自分を取り巻く人々から逃げだせれば、及第点なのだ。
「なるほど、天神に現実逃避とは考えたね。これまでそういうお客さんはいなかったな」
と、大豊が話を盛り上げる。
「ですが、天神であれば……せっかく大豊さんに相談に乗って頂いて申し訳ないのですが、居住施設や職業は、私の方で用意できるかもしれませんね」
「何か考えがあるようだね」
「ええ、まあ。……とはいえ、五十嵐様のお気持ち次第にはなりますが」
「いいよ。そういう事だったら、こっちは気にしないで二人で話を詰めてくれ。天津さんの仕事には必要以上に深入りしない……俺はそういう条件で天津さんを手伝っているわけだしな」
「お気遣い、大変感謝致します」
「気にしないでくれ。俺も天津さんには恩があるんだ」
大豊はそう言うと、向かいのソファから立ち上がってデスク前の椅子に座った。
それと入れ替わって、今度は天津がソファに腰掛け、美穂の顔を覗きこんでくる。
二人の関係を推察する間もなく、眼前に据えられた蠱惑的な表情に、美穂は思わず息を飲み込んでしまった。
「さあ、五十嵐様。どうされますか? 天神へ、現実逃避してみませんか……?」
天津が、囁くような声で語りかけてくる。
具体的な話はまだなのに、美穂の両手にはいつの間にか力が篭っていた。
◇
美穂が三度遊山屋に来たのは、それから二週間後の事だった。
私生活では履く機会の減ったタイトスカートに、Yシャツ、ボレロの井出達は、前に遊山屋に来た時よりもめかしこんでいる。カウンター前で出迎えた天津もそれを察したようで、彼は美穂を見るなり、穏やかな笑顔を振りまいた。
「ご無沙汰しております。今日は格別お綺麗で」
「どうも。今日は他にも行く所がありますから」
「おや。……もしかして、新しい職場、でしょうかね」
「……天津さん。貴方の差し金なの?」
神妙な口調でそう尋ねながら、彼の前に座り、鞄から宝玉を取り出してカウンター前に置く。
「宝玉……ですか。使い方が分かりませんでしたでしょうか?」
「いえ。使い終わったのでお返ししに来たんです」
「そうですか。ちゃんと肌身離さず持ってくれていたのですね」
「……ええ。あの日、仮契約を結んで宝玉を渡されてから、ずっと持ち歩いていました。『この環境から逃げ出したい』と、お願いするのも忘れずに」
「おまじない程度の効果があれば……と思ってお渡しした物ですけれどね。いかがでした?」
「そんな可愛い効果じゃなかったわ……」
天津の顔を一瞬だけ睨み、一度言葉を切る。
彼は相変わらずの笑みを携えていて、感情が読み難いが、どこか鵜呑みにはできない笑みでもあった。
「……私が勤めている銀行は天神や博多にも支店があるんだけれど、そこで働いている若い社員は、天神の社員寮に入っている人が多いの」
「それは随分とありがたいものですね」
「管理人さんが食事も作ってくれるから、助かっている人は多いみたいね。……でもね。その管理人さんが、先週、車にひかれて入院する事になっちゃって」
「おや……」
「期間は一ヶ月。となると、すぐにでも管理人代理が必要なんだけれど……これが難しいのよ」
「急な求人の上に、期間限定となれば難しそうですね」
「それに、仕事柄、調理師免許も必要ですからね。それで『いっそ、替えの利く社員を、管理人代理として派遣できないか』って話になったそうで……。学生時代に調理師免許を取っていた私に、私に白羽の矢が立ったの」
「つまり、一ヶ月間北九州から離れて、天神で社員寮の管理人代理として働く事になった……と。思わぬ形で願いが叶いましたねえ。おめでとうございます」
「もう一度聞くわ。……天津さんは何も関わっていないの?」
天津の賛辞を無視して、今度は強い口調でそう尋ねる。
「……そんなに不思議にお思いですか」
天津は、胸ポケットからまた扇子を取り出し、自身を仰ぎながらそう呟いた。
無論、偶然にしては出来過ぎていると思う。
天神に現実逃避したい、と天津に告げてから半月も経たないうちに、それが実現してしまったのだ。本当に宝玉が願い事を叶えてくれた、なんておとぎ話があるはずもないし……であれば、この状況を作り出す為に天津が暗躍している可能性は高い。
だが、それはすなわち、元々の管理人を交通事故に遭わせたのが天津、という事にもなる。
現実逃避できるのは嬉しいが、天津の反応によっては、この後は社員寮ではなく警察署は行かなくてはならない。
「ですが、考えてみて下さい。私はそもそも、五十嵐様が銀行勤めである事を、たった今知ったのですよ」
「確かに、それは話していなかったけれど、調べれば……」
「それだけではありません。五十嵐様が調理師免許をお持ちだった事も知りません。仮に私が暗躍していたとしても、一週間でそれらを調べ上げて、更には口を割らない協力者を探し出して事故を起こさせる……ちょっと無理がある話ではないでしょうか」
確かに、天津の言うとおりかもしれない。
とはいえ、天津が無関係ならば、この状況は偶然成り立った事になるが、やはりそれも考え難い。
「偶然ですよ。偶然。もっと言えば、お渡しした宝玉が願いを叶えてくれたのですよ」
「……天津さんが無関係だというのは分かったわ。でも偶然とも……」
「それよりも、願いが叶ったのでしたら、本契約をさせて頂いても宜しいでしょうか?」
「あ、そ、そうね……」
虚を突かれたような返事をすると、天津は満足げに頷き、カウンターの中から契約書を取り出して卓上に置いた。
大まかな話は事前に聞いていたが、一点を除いて問題はない。
契約期間は一ヶ月だが、延長もできるそうで、期間満了時に天津が確認に来るらしい。料金はほとんど無料同然。とはいっても、移住先や仕事は遊山屋が提供してくれたわけではなく『おまじない』とやらの効果らしいから、そういう意味では妥当な料金。悩み相談料とでも考える事ができた。
しかし、問題にしているのは金銭面ではない。
天津も面倒な説明は省き、早速契約書の文面の一部を指差した。
「こちらに記載の通り、五十嵐様には制約と代償を設定させて頂きます」
「胡散臭い条項ね……」
「そう仰らないで下さい。人間の意思とは脆い物。現実逃避先での行動を制約しなければ、本当に求めているものは手に入らないものですから」
「その理屈は聞いているわ。……で、私に何を破ってはいけないの?」
「そうですね。……やはり、この様なところでしょうか」
天津は契約書を自分の方に向けると、空欄に文字を書き連ねていった。
『旅行期間中に、旧知の者に助けを求めないことを誓います』
流麗な筆跡の文字が加わった契約書が、再び美穂の方に向けられ、天津は先手を打って口を開いた。
「旧知の者に助けを求めないこと……これが五十嵐様の制約です」
「私は現実逃避をしに天神へ来たのだから、知人と連絡を取るのは本末転倒……そういう事?」
「ええ。しかし、ご家族と一切の連絡を取らないというわけにもいきません。そこで『助けを求めない』と、制約の内容を緩めております」
「旧知の者って、具体的にはどこまでが含まれるの?」
「現時点です。現時点で面識のある方全てが旧知の者です。なので、この後、社員寮で会う方々は対象外です」
「……それを破ると?」
「以前にもお伝えしましたが……代償、すなわち大切なものを失う事になります」
「やっぱり、そこはハッキリしないのね……」
「ええ。大切なものなんて、日替わりですからね」
契約書を手に取り、じっと見つめながら考え込む。
実際に天津に移住先や仕事を手配して貰ったわけではないのだから、この契約書にサインをする必要はない。しかし、美穂には、どうしても切り捨てる事ができなかった。
やはり、今回の件は偶然ではない気がする。
何がどうと説明はできないのだが、遊山屋に足を運んだ結果として、現実逃避が成り立った気がする。
その点に対する感情はあるし、契約する事で、この事態を作り出した真実が明らかになるかもしれない。
「いざとなったら、私、警察に行きますからね」
「いかようにも」
「……分かりました。それで良いのなら……」
散々悩んだ挙句……美穂は、ゆっくりとペンに手を伸ばしたのであった。




