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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File4.五十嵐美穂(30) 夫家族からの現実逃避
24/31

其之一 -居場所-

 紙袋に入っている調理器具が、やけに重く感じる。

 多分気のせいだろうと、五十嵐美穂(いがらしみほ)は考えた。天神での買い物を終え、北九州の自宅に帰りたくない、明日職場に行きたくない……そんな感情が生み出す、正真正銘の気のせいだろう。

 出かける時には、小姑の初子(はつこ)から「お母さんが心配じゃないのかしら」と、散々に嫌味を言われている。何かに付けて自分をイビるので疲れる相手だが、気が休まらないのは他の家族といる時も同様で、だからこそ適当に理由を付けて、こうして時間が掛かる天神まで買い物に出かけたのだ。


「……どうしようかなあ、これから」

 喫茶店のテラス席でぼんやりと外を眺めていると、独り言が漏れる。

 帰宅後の夕食準備を考えると、天神にいられるのは一時間程だろうか。

 このまま喫茶店でたそがれていても、嫌な事を考えるだけだろう。現実を忘れられるような暇潰しでもあれば良いのだが……。

 そんな事を考えながら外を眺めていると、視界に鳥居が映った。

 思わず二度見したが、確かに鳥居だ。薄暗い路地の中腹に人間サイズのそれが立っている。この街では異質な存在だが、誰もそこを気に留める様子はない。そもそも自分も、つい先程までまったく気が付かなかった。



 好奇心に駆られて立ち上がり、喫茶店を出て路地に入る。間近で見ると、それは鳥居を模した扉だった。上部には『遊山屋』『旅行センター』と書かれた看板が掛かっている。


「旅行代理店、かしら」

 中を覗けるような窓は見つからないが、看板に偽りがなければそうだろう。

 美穂は看板を薄目で眺めながらも、ドアノブに手を掛けていた。

 旅行の妄想をしている間ならば、現実が邪魔をする事はないだろう。怪しげな雰囲気だけは気になるが、天神のど真ん中にいかがわしい店があるとは思えない。宗教の類であれば、強引に帰れば良いだけの事だ。


「お邪魔します……」

 店内を覗き込みつつ、そっとドアを開ける。

 中は一風変わった朱色主体の造りとなっているようだったが、ハッキリとは分からない。ドアの前に立っていたゴリラのような背中をした男が、視界の大半を遮っていた為である。

 更にその奥には、店員らしき男がいる……そこまで視認したところで、背中を見せている男が、前へ大きく詰め寄った。




「だーかーら! さっき帰った客にも、変な旅行を提案したんだろう!?」

「いい加減にしてください、探偵さん。今の方はただのお客様です」

「嘘をつけ。お前の言う事は信用ならん」

「私が嘘をつくはずがないでしょう」

「どうだか。じゃあ朱莉ちゃんに聞くぞ。朱莉ちゃん、どうなんだ?」

 ゴリラはそう言うと、カウンターの右側に設置されている長机の方を向いた。

 美穂も釣られてそちらを見ると、小学校高学年くらいの、物静かな雰囲気の少女が座っている。

 すると、少女も美穂に気が付いたようで、じっと見つめ返した。

 ……これは、取込み中に邪魔をしてしまったのだろうか。


「天津さん、お客様よ」

「おや、これはこれは。気が付かずに申し訳ありません」

 カウンターの奥にいる男が、うやうやしい挨拶を送ってきた。

 その声に押されたかのように、視界を遮っている男が横に身体を引いて、ようやく店内全体が目に入る。

 怪しげな和雑貨が多数並んだ店内に、先程の神秘的な少女と、黒髪長髪の中性的な顔立ちの男、そしてゴリラ……改め、探偵と呼ばれた男。

 どれをとっても旅行代理店とは思えないのだが、その疑問を悟ったかのように、黒髪の男が話を続けた。


「ようこそ、遊山屋へ。旅行をご検討でしょうか?」

「は、はあ……まあ……」

「私、店主の天津鞍馬と申します。どうぞこちらにお掛け下さい」

 優男のイメージを崩さない落ち着きのある声だった。

 言われたとおりに席に座ると、それが合図になったかのように、天津は視線を探偵へと向けた。


「探偵さん、お仕事の邪魔ですので、お引き取りを」

「売り物になるようなプランなんかないくせに」

「大きなお世話です。ほら、早く」

「へいへい。……おい、あんたも気をつけろよ」

 探偵の最後の言葉は、明らかに美穂の背中に投げかけられていた。

 言葉の意味も、そもそも、探偵が旅行代理店にいる理由も気になる。

 美穂は思わず振り返り、何か聞き返そうとしたが、探偵はその前に、ガニ股歩きで店から出て行ってしまった。

 ……やはり胡散臭い。席を立とう。

 そう思ったところで、動きを制するように天津が深々と頭を下げた。



「見苦しいところをお見せしました」

「いえ……今の方は?」

「疫病神のようなものですよ。お気になさらずに」

 天津は口元を歪めながら言う。

「であれば、いいんですが……」

「ええ。それよりも、どちらへの旅行をお考えで?」

「それが、あまり深くは考えていないんです。自分で……」

 勝手に検討しますから、と断ろうとして気が付いたのだが、パンフレットの類が見当たらない。

 店内をきょろきょろ見回していると、長机の前に居た少女が不意に立ちあがり、美穂の方へゆっくりと歩いてきた。

 そういえば、この少女の事も良く分からないが、天津を名前で呼んでいたあたり、関係者なのだろうか。


「あ……お嬢ちゃん、パンフレットとか知らないかしら?」

「ごめんなさい。このお店には、ご案内できるプランは殆どないんです」

「さっき帰った人と同じ事言うのね……でも、旅行代理店なんでしょう?」

「はい。……それよりも、お姉さん……」

 お姉さん。

 最近三十歳になった美穂にとっては、テンションが上がる一言だ。

 その高揚を見せないよう、口を堅く結んで少女を見ながら首を傾げる。

 それでも少女は、続く言葉をなかなか発せず、天津を一瞥した後で……なおもためらいがちに、ゆっくりと口を開いた。


「……人間関係から逃げたい。そんな悩みをお持ちですよね……?」

 








 ◇ 




 

 




 帰宅中も、遊山屋での経験は脳裏に焼き付いていた。

 少女に悩みを見抜かれただけではなく、店主の天津からは、現実逃避プランとやらを提案されたのである。

 確かに、自分を取り巻く人間関係から逃げ出したいのは事実だが、「はいお願いします」と、怪しい提案に乗るわけにもいかない。


 結局、詳細を聞く前に店を出たのだが、天津の話が後から気になってしまう。電車の中でも、小倉駅から自宅へ向かうタクシーの中でもぼんやりとしていて、運転手から到着を告げられるまで、自宅前に戻ってきた事にも気が付かなかった。




「……帰ってきちゃったか」

 5LDKの二階建て住宅を見上げながら、重い溜息を零す。

 五年前、初めてこの家を見た時は立派に見えたものだが、今では自分を押し潰しそうな威圧感が伝わってくる。

 いつまでも玄関前でまごまごしているわけにもいかず、荷物を引きずるようにして中に入ると、すぐに玄関前の階段が踏み鳴らされ、上から小姑の初子(はつこ)が駆け下りてきた。


「美穂さん、今頃帰ったの!?」

「ご、ごめんなさい……あの、七時の夕飯には間に合うように支度しますので」

「そんなの当然じゃない。それより、今日の昼は貸しだからね」

「はあ……貸し、ですか?」

「分からないの? 美穂さんが出かけたせいで、昼食はカップ麺だったのよ」

 これが、初子の平常運転である。

 一週間前から告げていた外出によって、カップ麺を食べる事になったのが、彼女にとっては『貸し』なのだ。

 


「それはそうと、何買ってきたのよ」

 初子は鼻息を鳴らしながら、持ち帰ってた物をじろじろと観察し始めた。

「フライパンのテフロンがボロボロだったので、新しい物を」

「それは聞いているから知ってるわよ。他には?」

「あとは、まな板も……」

「そうじゃなくて! お土産はないの?」

「あ、ありません」

「使えない子ねえ、まったく。私みたいに気遣いの女になりなさいな」

 そう言って髪を掻き上げる初子の姿は、悔しいながら様になっている。

 今年で四十二歳になる彼女は決して若々しくはないものの、年相応の女性としての存在感を持っていた。

 だが、それだけだ。縁談もあったと聞くが、結局この歳になるまで未婚なのは、気遣いの女が自称に過ぎないからだろう。

 それをはっきりと告げてやれば、少しは気も晴れるはずだ。

 だが、美穂は頭を下げ、逃げるように階段を上がって、二階の自室へ入る。

 着替えを終え、早速今日から使おうとフライパンを取り出していると、ノックなしで部屋の扉が開いた。入ってきたのは夫の次彦(つぐひこ)だった。




「あ……次彦さん、ただいま帰りました」

「ああ。帰るそうそう、姉さんとやりあったみたいだね」

「聞こえていたのね……」

 気分を悪くさせただろうか、と微かに首を下げてみせるが、次彦は目もくれずに部屋奥のビジネス書籍棚へと向かった。

 どうやら、家庭内のいざこざよりも明日の仕事で頭がいっぱいと見える。


「……お仕事?」

「明日は朝から会議で忙しいからね。忙しいのは君もだろう?」

「ええ、月曜の銀行窓口は激務ですからね」

「分かってるよ。俺も現場にいる頃はつらかったからね」

 次彦はそう言いながら、本を一冊手に取った。細見で眼鏡を掛けながら本を見つめる夫の姿は、初子同様に見栄えが良い。


 ――夫とは、職場恋愛だった。

 北九州に本店を置く銀行で働くようになって三年目、二十五歳の年に、当時支店長だった夫に見初められ、また自分も彼の知的な姿に惹かれて、十歳差がありながら籍を入れたのだ。

 交際期間は短く、結婚してから明らかになる一面は多かった。

 例えば、彼は職場で自分に一切話しかけない。本店の受付窓口と支店長では顔を合わせる機会はほぼないが、本店会議の時でも夫の態度は変わらない。理由を聞いてみれば「必要以上に関わって、現場の関係を崩したくないから」だそうだ。

 冷たい気もするが、確かに筋が通った話で、受け入れざるを得なかった。

 その状態は夫が本店人事部長に昇進した現在でも続いている。




「人事部も大変なのね……でも、期待されている証拠よね」

「一般的には、人事部長はもう少し年長の者が担うからね。年齢だけを参考にすれば、期待されていると解釈はできる」

「……じゃあ、この先も現場に介入はしてくれないのね」

「どうやら、武藤(むとう)係長の事を言っているようだね」

「分かるの?」

「君の上司くらい把握しているよ。自身が昇進できないけど、人事部長に不満をぶつけるわけにもいかないから、その妻である君が嫌味を言われているようだね」

「そ、そうなの。……なんとかならないかしら」

「君の気持ちは分からなくもないが、やはり夫として介入するわけにはいかない。係長としての力量はあるから彼は弄らないよ」

 人情を加味しない、予想通りの答えが返ってきた。

 少しだけ落胆はするものの、仕事だから仕方がないだろう。

 しかし、私生活ならどうだろうか。

 初子とのやりとりを見られはしたが、考え方によっては、彼女について抗議する好機かもしれない。



「……それはそうと、次彦さんは、義姉(ねえ)さんをどう思います?」

「どうって、何が?」

 次彦は本に視線を落としたままで返事をした。

「あまり悪くは言いたくないんですけれど……今日のやりとりの事です」

「そういう話がしたいんだね。まあ、横暴な部分はあるよ。今日も揚げ足取りされたんだろ?」

「そ、そうなんです!」

「でもまあ、仕方ないかな」

 淡々とした口調だった。


「仕方ないって……」

「君には同情するけど、これが我が家だからさ。姉さんは伴侶がいない分、気持ちのはけ口がないんだよ。少しは我慢してあげてよ」

「そうは言っても、おかしいのは義姉さんですよ……?」

「でも、今更姉さんが心を入れ替える事はないよ。それは弟の俺がよく分かる。

 じゃあ解決するにはどうすればいいか。どちらかが違う場所で暮らすしかない。

 でも、それは無理だろう? 君は俺の妻だから一緒にいなきゃいけないし、姉さんも四十二歳になって独り暮らしは酷だ。これが我が家、ってのはそういう事さ」

 大学教授の講義のような口調で、現実を告げられる。

「でも、私……」

「それより、来週末の母さんの見舞い、忘れないようにね」

「来週末……? 今度は、次彦さんの番では?」

「おいおい、忘れて貰っちゃ困るよ。来期の新卒絡みで忙しいから、君に代わってもらうよう頼んでいたじゃないか。脳卒中で寝たきりになっている母さんの世話が楽じゃないのは分かる。でも、俺の仕事も大事な時期なんだよ。そこをフォローするのが妻じゃないのか?」

 次彦の声に、今日初めて感情が宿る。

 確かにその話は聞いていたし、仕事があるのなら、夫の言い分ももっともだ。

 やはり反論はできないのだが、せめて気遣いの言葉は欲しかった、と思う。





「分かりました。……私、夕食の準備があるから失礼するわね」

 仕方なく、彼に一礼してから料理器具を手に取り、一階の台所へと降りる。

 時刻は午後六時を回っていた。炊飯は予約済なので問題ないが、あと一時間弱で全ての料理を用意しなくてはいけなかった。

 とはいえ、これは苦ではない。

 学生の頃から料理は好きで、趣味が高じて調理師免許も取った程だ。

 食材を選び抜いて、買ってきたばかりのまな板でリズムを刻むと、気分が高揚するのが自覚できる。なにせ気が休まる時間は、料理をしている時か、出勤中くらいしかないのだ。

 職場では上司の嫌みを浴び、家庭では義母の介護に駆り出され、小姑からは責められる。夫に訴えても反応は鈍いし、舅は……



「美穂さん、帰っとったのか」

 その舅、宗一郎(そういちろう)の声が、背後から聞こえてきた。

 反射的に背筋を伸ばして振り返れば、間もなく七十歳になるとは思えないガッチリとした体格の宗一郎が、台所の入口で仁王立ちしている。



「お、義父(とう)さん……」

「夕食、七時には間に合うんだろうな?」

「はい。下ごしらえはしていたので、大丈夫です」

「ふん、相変わらず飯だけは手際がいいな」

 宗一郎はしゃがれた声でそう言い、腕を組んだままで食卓の椅子に腰かけた。

 やっている事はただそれだけなのだが、彼が苦言を呈する時の癖でもある。

 美穂も姿勢を崩さずにいると、案の定、彼は苦虫を噛み潰したような表情で睨み付けてきた。


「だが、相変わらず他がなっとらん」

「な、何か不手際がありましたでしょうか……」

「次彦のYシャツ、まだアイロン掛けが済んでいないだろう」

「そ、それは夕食が終わった後でやろうと……」

「備えあれば憂いなしだ。急に職場に呼び出される事もある。何故出かける前にやっておかんのだ」


 今日もまた、始まった。

 いわゆる『昭和の男』である義父の宗一郎は、何かにつけて苦言を呈してくる。

 その上、恫喝するような大声で主張するものだから、反論するのも怖い。

 接していて、もっとも精神の消耗を強いられるのが、彼なのだ。




「前々から言っているだろう。夫の家に入ったのだから、夫を立てるようにと」

「……申し訳ありません」

「その上、あれは出世街道を行く自慢の息子なんだ。その足を妻が引っ張ってどうする。どうも美穂さん、妻としての自覚が足りないのではないか?」

「……はい」

 案の定、その後の説教は十数分にも及んだ。

 家事に専念したらどうだ、嫁に来たからには我が家の流儀を守れと、あれこれと文句を言われ、黙ってそれに耐え続ける。

 機を見て「夕食の支度がありますので」と告げた事で、ようやく解放されはしたものの、時刻は六時半を回っていた。これではおそらく、問題ないと告げていた七時の夕食には間に合わない。



 また、彼らから文句を言われるのか。

 また、精神をすり減らさなくてはならないのか。

 一人きりになった台所で、猛烈な勢いで野菜を刻みはしたものの、それが徒労に終わるのだと思うと、全てが馬鹿馬鹿しくなって、美穂は手の動きを止めた。



「……やだ、もう」

 肩を落としながら、小さな声で呟く。

 しっかりセットしていたはずの前髪は、いつの間にか大いに乱れていた。

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