其之五 -酒-
沖がもう一度遊山屋の扉を開けたのは、それから五日後の午後九時だった。
中はまだ照明が点いていたが、営業は終了していたようで店頭には誰もいない。
来店を告げようかとも思ったが、物音が届いていたようで、天津が奥から顔を覗かせ、すぐにその顔をしかめた。
「お引き取りを」
「そう言うなよ。忙しいのか?」
「夕食も終わりましたし、ひと段落していたところです。それでも探偵さんに割く時間はありませんが」
予想どおりの反応である。
こうも嫌われている相手に、本当に効果があるのか疑問ではあったが、沖は手に持っていた金色の化粧箱を突き出した。
「……これは?」
「話を聞かせて欲しい。その代わりの土産だ。そう悪くないもんだと……」
最後まで言い切る前に、化粧袋をひったくられる。
天津はぐっと目を寄せて化粧箱を凝視したが、次第にその瞳は輝きを帯び始めた。
「西条のお酒……しかも、大吟醸、加茂鶴ゴールドではありませんか!」
「あ、ああ。広島に行った時はドタバタしてて飲んでないんじゃないかと思って」
「素晴らしい。どうやら、私、探偵さんの事を誤解していたようです」
天津は化粧箱をさすってから長机へ置き「肴の用意をしますね」と告げて奥へと戻っていった。
まるで、マタタビに飛びつく猫である。
沖は唖然としつつも、酒を化粧箱から取りだして待つと、天津は十分ほどで盆を手にして戻ってきた。
「簡単な物しかなくて申し訳ありませんが」
「タコ刺しか。十分、十分」
長机に置かれた盆には、緑色の刺身皿に盛られたタコの刺身、涼しげな青色のぐい飲みと徳利、後は分厚い氷が載っている。見ているだけで涼を感じられる、夏の夜にはありがたい組み合わせだった。
「それでは、早速頂きましょう。ああ、なんと素晴らしい日でしょうか」
「……お前、性格変わりすぎだろ」
「何も変わっていませんよ。情だけでお迎えはしませんが、今回はちゃんと見返りをご用意頂いていますので」
「そういう事じゃなくて……いや、まあ、いいか」
それから、ちょっとした酒席が始まる。
とはいっても、天津は幸せそうにぐい飲みを傾けるばかりだし、沖としても、妙な事を口走ればまた追い出されそうで言葉少なになる。
居心地はあまり良くなかったが、和雑貨に囲まれて酒を飲むのは、雅で珍しい体験だった。
これで天津さえいなければ……等と考えながら酒を一気に飲み干すと、ぐい飲みの底に、何かが付いている事に気が付いた。
「なんだこれ……花の形をした金箔?」
「加茂鶴ゴールドですから、金箔入りですよ。知らずに買われたのですか?」
「ネットで『西条で有名な酒』という評判だけを見て取り寄せたからな。何も知らん」
「それはまた無粋な……いえ、それでこのお酒を引き当てるのは、ある意味幸運の持ち主かもしれませんが」
「酒なんて味が全てだろうに」
「いえ、それは勿体ない考えです」
天津はゆったりとした手つきで、二杯目をぐい飲みに注ぎながら話を続けた。
「もちろん、味は何よりも大事です。特に加茂鶴は手間暇掛けた分だけ美味ですよ。
長らく地中を流れている伏流水を用いており、米も長時間の洗米で良質なデンプンを抽出していますからね」
「ま、旨いのは俺も分かる」
「しかし、酒は味を楽しむだけではなく、高揚感を覚える為にも飲むものです。
金粉は、いわばその為の演出です。気分という味を提供してくれるわけですね。
……ご存知ありませんか? このお酒は、米国大統領との会食でも振舞われたのですよ」
「ふん。日本酒博士は博識だな」
不機嫌そうに鼻息を鳴らし、沖も次の一杯を注ぐ。
だが、悪態を付きながらも、天津の言うとおりかもしれない、と思った。
酒だけではなく、全体の雰囲気から感じた事だが、『酒席』自体を楽しんでいる自分がいたのは事実だった。
「しかし……先程も言いましたとおり、本当に大事なのは味です。
だというのに、近頃のお酒には、パッケージや物珍しさだけが先行したお酒も目立つ。
このお酒のように、味も見た目も伴って欲しいものです」
「そんなものなのか。例えば、どんな酒が駄目なんだ?」
「例えば……中洲で客引きをしたり、薄っぺらい愛情を囁くような酒達が、駄目ですね。
そんな酒の虜になってしまえば、悪酔いもするというものです」
沖の目が反射的に見開かれる。
刺すような視線を天津に向けると、彼はその感情をいなすかのように、扇子を取り出して自身を仰ぎ始めた。
「探偵さん、そう怖い目をなさらないで下さいよ」
「佐伯彩音の話だな」
「ご明察。彼女がホストクラブに入り浸った理由を考えた事はありますか?」
「いや……ないかもしれん。大方の予想は付くがな」
「契約の席で、本人から聞きました。……父親に愛されていなかった彼女は、その安らぎを求めてホストクラブに通ったらしいです。
そこで出会ったホストが実に優しく、これまでの十数年分の愛情を求めるかのように、お金をつぎ込んだそうですよ」
「そんなところだろうな」
腕を組んで深く頷く。
依頼人の人間性を思えば、あり得る話だった。
「ですが、彼女は何故そんな事を私に話したのでしょうかね」
「誰でもいいから、聞いてほしかったんじゃないのか」
「ならば、大学の友人なりに話して発散すれば良い。何故契約の席で話すのか……という事ですよ。
ああ、もう一つ忘れていました。移動先が西条というのも疑問ですね。借金取りから逃げたいならどこでも良いのに、何故わざわざ特定都市を選択したのでしょうか」
「……天津、何が言いたい」
酒の高揚感が、みるみるうちに抜けていく。
意図を尋ねつつも、頭の中で個々の事情を結び付けていくが、それが終わらないうちに天津は答えを明かした。
「これは、あくまでも私の個人的な考えです」
「構わん。聞かせてくれ」
「彼女が、借金取りから逃げたかったのは事実でしょう。ですが、彼女がその様な行動を取ったのは、支えになってくれる人物が、何らかの事情でいなくなったからではないでしょうか」
「佐伯彩音が入れ込んでいたホストが、そうなったと?」
「ええ。仮にホストが西条に行ったとすれば……佐伯様が西条行きを希望された理由が成り立ちます。
契約の席で暴露したのも、契約内容とホストに関連性がある為、口を滑らせたのかも。
……しかし、西条でホストと出会ったとしても、佐伯様は幻滅すると思うのですよね」
「ホストクラブで会ってる頃は、酒の箔で気分よく飲めたが、西条で冷静になって中身を吟味してみりゃ、水みたいに薄っぺらかったってわけだな」
「ホストの人となりを知らないので、断言はできませんが、
仕事から離れた本当の顔を見て幻滅……よくある話です」
「言いたい事は分かった。探すべきはストーカーじゃなくホスト……か」
天津の言う事は、あくまでも推測の域を出ない。
だが、話に筋はとおっている印象を受けた。
「変な妄想ばかりして、とでもお考えですか?」
「いや、今回は違う。俺もそんな気がする」
「同意見というのも癪ですね。……しかし、実際、可能性が高い話だと思います。証拠はなくても、そう考えるに至った理由はあるのですよ。と言うのも……」
天津はゆっくりと目を細めながら言った。
そういえば、今日は三日月だったのを沖は思いだす。
地上の全てを見下ろす月ならば、事件を目にしていただろうか……。
「ホストやホステスに入れ込まれる方の考えは、手に取るように分かるのです。
皆様、現実逃避を望まれるお客様と、似た考えをされますから……ね」