其之二 -ブラック企業-
波戸の仕事は、ほぼ年中忙しいと言っても差し支えはない。
ゲーム会社でプログラマーとして勤めている為、ゲーム開発に動員されている間は拘束が厳しい。終電帰宅は当たり前で、泊まり込みや休日出勤しなくてはならない日も珍しくはない。それが終わっても即座に休めるわけではなく、他プロジェクトのヘルプに駆り出される日々。
ゆっくりできるのは、会社全体の仕事が落ち着いた時か、形骸化しているリフレッシュ休暇を運良く取れる時……いずれにしても年間で数える程の回数である。
「なぁ波戸。ちょっといいか?」
この日も深夜まで、ラボに一人篭ってキーボードを叩き続けていると、
別室にいたプロデューサーの重野がひょっこり現れた。
話を聞かずとも、ロクな事にならないと察しが付く。
彼が話しかけてくるのは、納期遅れを叱る時か仕事の無茶振りをする時だけ。
それらに愛想笑いで答えるのもいい加減疲れた。いっそ倒れて入院したいとさえ思うが、そんな気持ちの時に限って、不思議と人間の体は壊れないものである。
「はい、なんでしょうか」
「ライブラリの修正、来週までだよな。進捗はどうだ?」
「あ。ええと……」
あまりにも忙しいので、後輩のプログラマーに投げた仕事だ。
正直に言っても怒られるだろうし、適当にかわすに限る。
「もちろんやっていますよ。終わったら共有に入れて連絡入れます!」
「本当か? 前もそんな事言いながら間に合わなかったよな」
「も、申し訳ありません。でも今回は大丈夫です!」
「よし、信じるぞ。それはいいとして……ちょっとばかり相談があるんだが」
そぉら、きた。
「なんでしょうか」
「戦闘後のロード時間、やっぱり長いと思うんだよ。現状でも売り物にはなるが、お客さんのストレスにもなる。画像読み込みのタイミングを調整してくれ」
自身の出っ張った腹を叩きながら重野は言う。本当に叩きたいのは部下の尻だろう。
「あー……申し訳ありません。多分、現実的じゃないかと思います」
「技術的に無理って事か?」
「いえ、改善の余地はあります。ただ、今から調整していたら、他の不具合を誘発する可能性がありますよ。それに、ライブラリの修正にもしわ寄せが来ます」
「ライブラリは少しだけなら遅れても構わん。やってくれ」
「……他のプログラマーは空いてないんですか?」
「駄目だな。別ラインのヘルプで埋まっている。開発の遅れが酷くて、発売延期を決めたばかりのタイトルがあるのは、お前も知ってるだろ」
「確かにそうですが、こっちはこっちで……」
つい愛想笑いを忘れて、渋い声を漏らしてしまう。
どうも流れが悪い。このまま粘っても、重野が説教を始めるだけだろう。お前は口だけだ、もっと仕事に打ち込めだと、言いたい事を言ってくれる男なのだ。
「分かりました。じゃあ、やります」
「よし、決まりだな。あと一つ話がある。次のプロジェクトなんだけれどさ」
「次……すか。まだ今の仕事が……」
「まあまあ。話しておくだけだよ。大規模なアクションゲームの仕事が入ってきそうなんだ。開発期間は、そうだなあ。波戸が入ってくれれば一年もかからないかな。頑張ってくれるよな」
そう言われれば評価されているようで気分が良いが、彼の持ち掛けるスケジュールはいつも破綻している。実際には一年半は拘束される仕事と見た。その期間中は、地獄のような日々になるだろう。
「任せて下さい。とりあえず今のプロジェクトを……」
そう返事をしかけた所で、キーボード横の固定電話が鳴ったので、重野に目礼してから受話器を取る。
「波戸です」
『東郷さんからお電話です』
「はい。外線一番ですよね」
お得意様からの電話である。外線ボタンを押しながら、嫌な予感に苛まれた。
「お電話代わりました。波戸です」
『あー波戸さん? どうも、東郷です。先日波戸さんにバージョンアップして貰ったアプリ、強制終了が見つかってね……』
今日は……いや、今日も厄日のようだ。
築いていたスケジュールが頭の中で崩壊していくのを感じながら、問題点の説明を受ける。話は思いの外長くなり、ようやく状況を把握して受話器を置いた時には、重野の姿はもうなかった。
重い溜息を付きながらモニターに向き直ると、新着メールが届いている。
『販売会社へのPRがあるから、新プロジェクトのエンジンは先行して取り組んでくれ。絶対に機嫌を損ねられない相手だから手を抜くなよ! 重野』
がつん、と強い衝撃音がラボに走る。
波戸は打ち据えた手を震わせながら立ち上がると、ゾンビのような足取りでオフィスを出て休憩室へと向かった。
ふざけるんじゃない!
自分を評価しろとまでは言わない。手を抜ける所は手を抜くし、仕事をごまかす事もある。そんな内面を知られれば、クズと言われてもおかしくはないだろう。
とはいえ、ここまで酷い扱いを受けるいわれはないはずだ。
満員電車でよれよれ通勤して、深夜までボロ雑巾のように働いて、愛想笑いで機嫌を取って。こんな生活、もう嫌だ。逃げ出してしまいたい……。
六畳の小さな休憩室に入るなり、ポケットからスマートフォンを取り出す。
SNSにいつもの愚痴を投稿すると、少しだけ気持ちが落ち着いたので、ソファに腰掛けて、ついでにタイムラインを眺めた。
すると、沖縄で知り合った飲み屋の店長の投稿が目に入る。
「店長、相変わらずだなぁ」
客のリクエストに応じ、三線を語り弾きしている写真を見ると、波戸の目尻が自然と緩くなる。
店長と知り合ったのは、大学三年の頃だった。
自分も三線を経験させてもらったのだが、店長が奏でる陽気な音色とは打って変わって、妖怪でも現れそうなおどろおどろしい音しか出せなかった。でも、それが面白くて、仲間と馬鹿笑いした記憶がある。
仲間の中には、沖縄に連れて行ってくれた先輩もいる。
あの人は、就職先まで沖縄だった。きっと、今でも楽しく暮らしているのだろう。
「……それに引き換え、俺ときたら……」
俺はなんという馬鹿だ。ソーシャルゲームバブルに惹かれて福岡で就職したのが、ボタンの掛け違いの始まりだった。こんなはずじゃなかったのだ。
昔は、あんなに活気に満ちた日々を送っていたのに。
沖縄が自分に合っていると分かっていたのに。
「何をやっているんだよ、俺は……」
緩んだ目尻から、涙が零れ落ちた。
◇
数日後、波戸の姿は勤務時間ながら屋外にあった。
とはいえ、取引先からの帰りである。
波戸の会社はいわゆる下請けだ。製作したゲームを発売・管理する会社は近所に別途存在する。この日はその会社に赴いて、先日納品したゲームの仕様を説明する必要があった。……波戸の仕事ではないにもかかわらず、であるが。
「まったく、あいつら物分かりが悪いよなあ」
隣を歩く重野が、口の端を歪めながらそう言う。
それはこちらのセリフだ、と返したいところではあったが、波戸は似た表情を作って頷いてみせた。
「大体さ、販売会社ってだけで、でかい顔しすぎなんだよな。仕様が分からないからって、わざわざ説明に呼びつけるんだからなあ……」
「そうですね。重野さんは多忙の身だというのに、迷惑な話ですよね。俺も腹ただしいですよ!」
「……ふむ?」
「向こうに出向いても、担当者はなかなか出てこないし、茶も出さない。何様だよ、って話ですよね!!」
「なんだか偉そうな事言ってるが、今回の件はお前も反省しなきゃいかんのだぞ?」
重野はそう言いながら首を左右に振った。
どうやら波戸の言葉はヤブヘビだったようだが、もう取り返しはつかない。
「は、はあ……」
「お前、なんで仕様説明に同伴させたか分かっていないのか? 元はと言えば、お前が作った仕様書が分かりにくかったから、こんな事態になったんだ」
「それは……」
「俺が仕様説明を楽したいから同伴させたんじゃないんだ。そこのところ、ちゃんと理解できているか?」
理解できるはずがない。
確かに、先方に渡る仕様書を手掛けたのは自分だが、ページ数がかさんでしまった為、要点はメール本文の方に纏めていたのだ。
そのメール本文の方を、重野が先方に伝えていなかったから、上手く理解してもらえず足を運ぶハメになった。
だが、今の重野にそれを伝えても火に油を注ぐようなものである。
波戸は神妙な顔で頷き続けたが、だからといって、火が沈下するとも限らない。
「ともかく、お前にはもうちょっと仕事の取り組み方を考えろ」
「……はい」
「ライブラリの修正も、明日までには終わらせろ。その方が余裕をもって仕事ができる」
「そ、それはさすがに工数が足りないかと……」
「ああっ!?」
「あ……いや……」
重野の威嚇するような声を受け、言葉に窮してしまう。
これ以上、彼に言われるがまま仕事をしていては、間違いなく潰れてしまう。
とはいえ、良い逃げ道も見つからない。波戸が青ざめた表情で口をパクパクさせていると……不意に、背中に鈍い衝撃が走り、それとほぼ同時に、足元でガラスが割れるような音が鳴り響いた。
「わっ……と……」
軽くたららを踏みながらも振り返った波戸は、思わず目を丸くした。
背後には、先日、旅行代理店で出会った天津鞍馬がいたのである。
「あれ……あんた……」
「ちょっと、何してくれるんですか、お兄さん。お兄さんが前をゆったり歩いているから、仕事で使うワインが台無しじゃないですか」
「ワイン……?」
そう言われて、彼の足元には赤ワインとガラス瓶が散乱しているのに気が付く。
「そう。高かったのですよ、これ。なにせ、私のホストクラブで振舞うものですから。きっちり落とし前はつけて頂きますからね」
「え、いや、ホストクラブって、あんた……」
「言い逃れする気ですか?」
天津はそう言うと、威嚇するように顔を寄せつつ、重野から見えない側の目をウインクさせてみせた。
これは、もしかすると……。
波戸がその考えに至ると同時に、天津は視線を重野の方へと移した。
「あ……あんた、ホストかい?」
「ええ、中洲で少しばかり怖いお店を経営していましてね。貴方、お知り合いですか? 別に貴方に弁償して頂いても良いのですよ」
重野の問いに、天津はどこか冷徹な口調で答える。
「い、いや……あんたと波戸の間で起こった問題なんだ。二人の間で片づけてくれ」
「では、お言葉に甘えて、この方をお借りしますね」
「好きにしてくれ。波戸。俺は忙しいから先に帰るぞ、お前はゆっくり話を付けてこい」
重野は早口でそう告げると、足早に雑踏の中へと割って入った。
天津と二人並んでそれを見届けていると、やがて、天津はどこか子供っぽい表情になって、小さく笑ってみせた。
「……ふふっ。私、ホストに見えましたでしょうかね」
「そうだな。なかなかの名演技だったよ。ありがとう天津さん。お陰で助かったよ」
◇
二度目の来店でも、遊山屋は奇妙な空間に思えた。
それでも、前回の帰り際程に不気味には感じない。
やはり、店の主である天津に窮地を救われたからだろうか。
カウンター横の応接用長机に突っ伏してそんな事を考えているところへ、トレイを手にした天津が悠々とした足取りで奥から出てきたので、波戸は慌てて背筋を伸ばした。
「お茶、お待たせしました。緑茶でよろしかったですか?」
「何でも構わないよ」
「では、どうぞお召し上がりください」
天津が向かいの席に着きながら、トレイに載せていた湯呑を卓上に置く。
とはいえ、すぐには手を付けずに、波戸は小さく首を前に倒した。
「さっきは本当に助かったよ。改めて、ありがとう」
「いえいえ、お気になさらずに。……ワインは少々、痛とうございましたが」
「あー……あれ、本当に高かったの?」
「それほどでは。……ただ、私、アルコールには目がないものでして。値段とは無関係に、残念でした」
「悪いな。でも、そこまでして俺を助けてくれなくても、良かったのに」
「いえいえ。お酒は確かに好物ですが、それよりもお客様の方が大切です」
天津は小さく首を傾けながら微笑んでみせた。
その態度に、波戸は少しだけ体をこわばらせる。
『あのお客さん、仕事に疲れてしまって、沖縄に現実逃避したいらしいわ。案内してあげたらどうかしら』
先日、少女が最後に告げた一言は、実に印象的だった。
どういうつもりの発言なのか、少し気になるが、今はあの少女は見当たらない。
話の取っ掛かりを見つけきれないでいると、天津はスーツの内ポケットから扇子を取り出して自身を仰いだ。
すると、甘く妖しい匂いが波戸の鼻孔にも微かに届く。
植物の香りのような気がするが、はっきりとは分からなかった。
「扇子の香りなの?」
「そうですが、お気に触りましたら失礼。白檀ですよ」
天津は、相変わらず楽しげな口調で返事をした。
ビャクダン、とやらの言葉の意味はよく分からないが、嫌な香りじゃない。
むしろ、少し気持ちが落ち着いたような気がする。
「……お客様、か。この前の女の子も、妙な事を言っていたな」
「沖縄旅行ではなく、現実逃避の件ですか」
「それそれ。多分、あれは言葉の綾だと思う。でも、もしも……」
「ええ。そのもしも……です。当店は現実逃避を斡旋しておりますよ」
天津の声が、少し低くなった気がする。
彼はまっすぐに波戸を見つめてきた。
「失礼ですが、お客様はどのようなお仕事をなさっているのですか?」
「……プログラマーだ。この近所にカチカチオンラインってゲーム会社があってね。そこで働いているよ」
「なるほど。どうりでお疲れのご様子です」
「分かるのか?」
「クマが酷いですよ。鏡をご覧になって下さい」
そう言われれば、最近、じっくり自分の顔を見る余裕もない。会社で使っているマシンのデスクトップアイコンの乱れっぷりと良い勝負をしている事だろう。
「……現代に生きる人間は、お客様のように、皆、疲れております。
お仕事、人間関係、自身の境遇と、疲労の理由は人それぞれ……。
しかしながら、その解消方法として、遠い地へ現実逃避したいと思われる方は少なくありません。当店は、その様な方々を案じており、力になりたい一心で、現実逃避プランを提示させて頂いております」
「この前見せてもらった冊子の事じゃないんだよな?」
「もちろんです。あれは表向き。この現実逃避プランこそが、当店の商いです」
胡散臭い。
普段ならこの時点で席を立っていたが、今日はそんな気にならなかった。
おそらくは、天津の態度のせいだろう。これまでの捉え処がない彼とは違い、はっきりと相手を見つめながら概要を語る天津は、真剣そのものだった。
本気で心配し、現実逃避させると言っているように感じられるのだ。
だが、まだ確認するべき点はある。
「プラン、ってところ、詳しく聞かせてくれるか?」
「もちろんです。内容はお客様に合わせて変えておりますが、基本的には、希望される土地への移動、居住施設、あとは、ご希望なら仕事もお世話させて頂いております」
「そいつは至れり尽くせりだな」
「ただし、契約期間は一ヶ月。つまりはお試し期間です。
いざ現実逃避したは良いが、前の環境の方が良かったというお客様もおられますので、一ヶ月後に、そのまま逃避を続行するか、それとも元の環境に戻りたいかを伺っております」
「逃避先の環境を整えてくれるのは分かった。
でも、今の環境が抱えている問題を解決しなきゃ逃避なんてできないと思うぞ」
「ごもっともです。もちろん、その解消方法もございます」
天津は顔色を変えずに言った。
「無茶言うなよ。例えば俺の場合だったら、山のように仕事を押し付けられて、休みなんか取れそうにない。仮に仕事が落ち着いてても、一ヶ月はさすがに無理だ。それともなにか? 会社を辞めろとでも言うのか?」
「まさか。それでは逃避先がお気に召さなかった時に、元の環境に戻れません」
「じゃあ、どうやって」
「それよりも」
ぴたり、と扇子を閉じながら天津が言う。
「今は、楽しい事から考えませんか?
現環境の解決方法やら、細かい契約やらは後回しにして、どの様な生活を送れるかをご説明しますよ。外へ出ましょう」
「外……?」
「全て当店で担うわけではないのですよ」
天津はそう告げながら立ち上がり、金魚提灯を器用に避けて店の外へ出た。
慌てて波戸もそれに続くと、外を百メートル程歩いた所にある、地下街への階段へと先導された。地下街は、アパレルショップを中心とした商業施設が百軒以上多数並んでいる他、私鉄と地下鉄の駅にも通じているので、地上以上に混んでいる。波戸としては歩きたくない場所だった。