其之零 -佐伯彩音の決意-
佐伯彩音は、五度の不通で父に電話する事を諦めた。
一度も電話に出てもらえない理由は分かっている。
政治には詳しくないが、衆議院解散が近い事はニュースで知っている。
そうなると、仕事に全てを注ぐようになり、家庭を一切顧みようとはしないのが、父・佐伯陽介なのだ。
現役の衆議院議員なのだから、選挙に打ち込むのは理解できる。
だが、選挙がない時期でも、亡き母や自分に対して、父は淡泊だった。
どこかへ遊びに連れていってもらった記憶も、将来への不安を聞いてもらった記憶もない。
そのような男なのだと確信したのは、高校一年の頃だから、七年前だろうか。
だから、今更ショックを受けもしない。
「……期待はしてなかったんだけど、ね」
そう呟きながら、スマートフォンをバッグに戻し、自宅アパートの扉を開ける。
迎えてくれたのは、いつもと変わらない真っ暗な自室だ。
彩音は照明を付けず、派手な化粧も落とさずにベッドへと倒れ込んだ。
実家のベッドに比べれば貧相だが、それでも気分だけは楽になる。
突っ伏している間だけは、嫌な事を忘れる事ができるのだ。
そうして、暫く目を瞑っていると、不意にバッグの中から電子音が聞こえた。
慌てて取り出せば、父からの電話である。
困惑と僅かな期待を抱きつつ、受信ボタンをタップする。
父の声を聞くのは一年ぶりだろう……そんな事を考えながら、端末を耳に当てた。
「あ、もしもし……」
『ご無沙汰しています。佐伯です』
他人行儀な声が聞こえてくる。
別の困惑が生じたが、それは父も同様のようで、暫しの沈黙が生まれた。
『……もしかして、彩音か?』
「あ、う、うん。何度も電話してごめんね。ちょっと相談が」
『間違えたじゃないか。紛らわしい連絡は止めろ! 忙しいんだ!!』
怒鳴り声が、彩音の言葉を掻き消してしまう。
一年ぶりの会話は、それで終了した。
彩音はよろよろと立ち上がり、端末をバッグへ戻すと、代わりに中から一枚の書類を取り出した。
一縷の望みを託して連絡したけれど、それでも駄目。
ならば、やはり決断するしかない。
自分を救ってくれるのは、この現実逃避プランしかないのだ。
叩きつけるように書類を卓上に置き、保留としていた署名欄に名前を書く。
筆先を見つめる彼女の眼は、絶望的な状況の割に、爛々と輝いていた。