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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File2.高橋典孝(32) ファンからの現実逃避
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其之八 -ほくろ-

「これは、全部織田氏から聞いた話だ。

 とても自分からは告げられないから、友人なら君から説明してくれ、だと」

「………」

「谷崎ユキが織田診療所で働き始めたのは、俺達が大学三年の頃らしい。

 きっかけは、谷崎ユキの大事な人が怪我をした為だそうだ。

 その人の力になるべく大学を休学し、昔馴染みの織田に師事したと。

 とはいえ、女性の指の細さでは、按摩の際に刺さって痛い。

 結局、彼女が学んだのは鍼灸だが、織田に弟子入りしたのは間違いない」

「それって、もしかして……」

「そうだ。だが、お前は結局、自力で復活してしまった。

 ならばユキも大学に戻って、お前とも復縁すればいいんだが、できなかった。

 ……ユキが診療所に来て間もなく、妊娠が発覚していてな。

 子持ちの自分がいては、スター街道まっしぐらの恋人の邪魔になる……

 ユキはそう考え、大学も辞めて診療所に残ったそうだよ」


 沖の声には、時折震えが伴った。

 その都度、彼は唇を噛みしめ直して語ってくれた。


 だから、自分も泣くわけにはいかない。

 分かってはいるのに、感極まるのを抑えきれず、目尻から涙が零れそうになる。

 失恋ではなかった。

 捨てられたのではなかった。

 彼女は……谷崎ユキは、ずっと……




「ユキは、ずっとお前の事を愛していたんだよ。

 死の間際の病床でも、枕元にラジオを置き続けていたそうだ。

 病は苦しかっただろうに、お前の活躍を聞いている時だけは、静かな微笑みを携えていたそうだ」

「……沖、ありがとう……。目が醒めた……!」


 沖の肩をがっしりと掴み、それだけを告げる。

 零れかけた涙が、頬を伝う事はなかった。

 いじけている場合じゃない。

 グラウンドに立つ事こそが、自分が愛した女性の願いなのだ。


「沖。ちょっと席を外す」

「ま、待て。話は終わってないぞ?」

「急ぎの用事があるんだ。少し待っていてくれ」

 そう言って沖に頭を下げ、天津に向き直る。

 傍で話を聞いていた彼は、表情を変えずに自分達を眺めていた。



「天津さん。代償があるんだよな」

「……ええ。もちろん」

 相変わらず、彼の声は冷たい。

 だが、構わない。天津にどう思われようと、今は自分の責任を果たすだけだ。


「その話は、あとでちゃんとする。逃げたりしない。

 でも、さっきの少年に謝って、ユキの墓にも行かなきゃいけないんだ。

 ……だから、代償の件はその後でいいかな」

「ご自由にどうぞ。……私としても、今はお邪魔者がいて話がし辛いですから」


 高橋は、頷くのと同時に走りだした。









 ◇









 闇雲に町内を探し回る事、約三十分。

 ようやく冷静になった高橋は、少年がユニフォーム姿だったのを思い出した。

 近所にある野球場へ向かうと、次第に子供達の元気な声が耳に届く。

 辿り着いたそこでは、さっきの少年と同じユニフォームを着たチームが、他のチームと試合をしているようだった。

 フェンスの外側では、父兄がベンチに腰掛け、試合を観戦している。

 その中に、知った顔があった。


「あれ……みずきさん?」

「高橋さん。どうしてここに」

 私服姿の谷崎みずきは、日傘を片手にグラウンドを眺めていたが、

 高橋が声を掛けると、驚きつつも手招きしてくれた。

 そういえば、今日の彼女は午後から非番だったので、観戦しているのだろう。

 少年達の中に、知り合いがいるのかもしれない。



「俺は、ちょっと子供を探していて」

「リトルの子を?」

「そうだ。今、守備についているチームがあるよな。

 あのチームのユニフォームを着た子を、色々あって泣かせてしまってね。

 謝りたくて、ここまで来たんだ」

「だったら、どの子の事か分かります。

 泣きじゃくりながら試合に滑り込んできた子がいるもの」


 みずきは、高橋を見つめながらそう言った。

「どの子の事かな」と尋ねたが、彼女は返事をせず、視線を外そうともしない。

 何かあるのだと察しがつき、彼女の意思に応じるように背筋を伸ばす。

 すると、みずきはようやく、視線をグラウンドへと戻した。



「……いつだったか。お願いがあるって言いましたよね」

「うん、言ってたな」

「あのお願い、もう叶っていたみたいです。

 センターの子、見えます? あの子と、お話してもらいたかったんです」

 そういえば、あの少年はセンターだと自己紹介していた。

 なるほど、彼がそうかと思いながら、自分も視線をそちらへ向ける。

 少年のチームはランナーを背負ってピンチを迎えており、少年は外野から投手に檄を飛ばしている。少なくとも、グラウンドで泣いてはいないようだ。


「ああ。泣いてたのは多分あの子だ」

「実はね、私、あの子の保護者なんです。谷崎誠。今年で小学五年生」

「……君、結婚してたのか」

 彼女の静かな語りに影響されたのか、予想外の言葉にも、冷静な返事ができた。

 だからだろうか。三人分の弁当の件も思いだした。

 残る一人分の弁当は、誠の分だったのだろう。母のお仕事というわけだ。


「ううん、私は独身です」

「……じゃあ、バツイチ?」

「でもないわ。未婚よ」

 みずきは小さく笑い、話を続けた。


「ここからじゃ見えませんけど……

 ううん、近くにいてもアンダーシャツを着ているから見えないかしら。

 誠は、首にほくろがあるんです」

「……みずき、さん?」

「首の、右側。姉さんと同じ場所……」


 みずきの声の最後は、涙声になって殆ど聞き取れなかった。

 高橋も、すぐには声を絞り出せない。

 まさか、あの少年は……、




「高橋さん……あの子は……」


 みずきがもう一度、説明しようとしてくれたが、やはり言葉にならない。

 グラウンドでは、少年の所へ痛烈なライナーが飛んできたが、少年がめいっぱい右手を伸ばすと、打球は辛うじてグラブに収まる。

 高橋と同じ左投げの少年は、投手の好投を称えながら、ボールを送り返した。









 ◇









 七月になると、大阪ジャガーズの猛チャージが始まった。

 チームに復帰した高橋のバットは快音を連発し、

 それに引かれるように、他の選手達も復調し始めたのである。

 月末にはAクラスへの復帰も果たし、ペナントレースは混戦模様となった。解説者達はこぞって、キーマンに高橋を挙げるようになった。

 注目されるのは良いのだが、高橋としてはマスコミが気になってしまう。

 調子を落とした時に、やり玉に挙げられるのを恐れているわけではない。

 心配なのは、家族への影響だった。





「お、お父さん、おかえりなさい」

「まだ起きていたのか、誠……」

 大阪の自宅マンションに帰り着いたのは午後十一時を少し過ぎた頃だったが、

 高橋誠は目を眠そうに擦りながら出迎えてくれた。

 自分に構わず休むように言っているのだが、誠はいつも起きて待っている。

 子供の健康を考えれば、強く言い聞かせるべきかもしれなかったが、

 今は彼の気持ちを尊重する事にした。



「今日も試合、お疲れ様でした」

「おい、いい加減敬語はいいよ。親子なんだ」

「あ……ごめんなさい」

「それより、ご飯はちゃんと食べたんだろうな」

「うん。今日はカレーだったよ。お義母さんの得意料理」

 誠は満面の笑みを浮かべながら言った。

 それだけで、カレーがいかに美味しかったかが伝わってくる。


「じゃあ、俺も明日の朝は残り物に預かるとするか。

 ……みずきさんは、もう帰ったのか?」

「ご飯作ったら、すぐに帰った。まだ引っ越しの荷物整理が終わってないんだって」

「そうか。……引っ越しが終わったら、みずきさんの所に泊まっても構わないんだからな。寂しいだろう」

「大丈夫だよ! 全然寂しくなんかないよ」

 言葉では否定しても、本意ではないのは明白だ。

 それ以上は追及せずに、彼の背中を押して寝室へと向かう。

「明日は試合がないから、二人で引っ越しを手伝おうか」と、誠に提案すると、彼は大きく頷き、満足した様子でベッドへと入ってくれた。

 高橋としても、なるべく誠とみずきが顔を合わせる機会を作りたかった。誠を引き取る話に彼女は同意してくれたものの、内心では寂しく思っているはずなのだ。




「おやすみ、誠」

「おやすみなさい、お父さん」


 挨拶を交わして電気を消し、自身はようやくリビングのソファに身体を預ける。

 どっと疲れが出た気がしたが、嫌な疲労感ではなかった。

 目を閉じて、暫くそのままの状態でいたが、やがて胸ポケットに入れたスマートフォンが振動したので取り出す。

 発信者は、天津鞍馬。伊部で別れて以来、初めて届いた連絡だった。





『こんばんは。夜分遅くに失礼します』 

「いいよ、まだ起きているつもりだったから。何かあったの?」

『ええ、ある方に伝言をお願いしようと思いまして。

 ……その前に、最近、試合では好調のようで何よりですね』

「腰が治ったからな。織田先生には頭が上がらないよ」

『メンタルも……でしょう?』

「そうだな。さすがにチームに戻った時は、ゴシップ誌の件でヤジられる事もあったけど、それだけだ。今はなんともないよ」

 そう言いながら、今日のヒーローインタビューで浴びた大歓声を思い出す。

 勝ち越しホームランを称え、次の試合での猛打を期待する声だけではない。

 感謝の言葉までもが、高橋に寄せられていた。


 今では、彼らの期待に応えたいと心から思える。

 辛いヤジを受ける日もあるだろうが、不安の裏返しだと分かっている。

 もちろん、それ以上のバッシングが飛んでくる事もあるだろう。

 だが、それも耐えられる。守るべき存在ができた今なら、きっと耐えられる。





「……ところで、天津さんには謝らなくちゃな」

『おや、なんでしょうか?』

「誠を泣かせ、制約を破った事だ。……許して欲しいわけじゃないが、悪かった」

『……もう良いですよ、その事は』

 言葉とは裏腹に、天津の声が不機嫌そうなものに変わった。

「しかし、ファンを泣かせた代償とやらを受けていないぞ?」

『今回は、私に失言がありましたから』

「失言……?」

『ファンとは、家族でもない赤の他人……あの言葉を覚えられていますか?

 誠君は、正確にはファンではなく、高橋様のご家族でしたからね。

 私としても、自分の発言に嘘は付けませんよ』

「あの時点では、戸籍上は違ったけれども、いいのか?」

『代償を受けたいと?』

「いやいや、違うよ。ただ……」

 ふう、と溜息をついてあの日の光景を思い出す。

 氷のような目つきをした、普段とは違う天津の顔を思い出す。

 まるで、人に欺かれて、大切なものを失った怒りのようだった。


「……あの時の天津さん、本当に怒っているみたいだったから。天津さんにとって、代償……つまり約束事って、それだけ大事な事だったのかな、って思って」

『人として当然の事を履行して頂こうと思っただけですよ。それに、今回はイレギュラーな事がありましたからね。伝言のお願いもそれに関するものです。

 探偵さん……沖精一さん、ですか。彼に宜しくお伝えください。

 その節はお世話になった……と』

「了解」

 無論、言葉どおり好意を伝えて欲しいわけではないのだろう。

 どうやら、自分で思っている以上に、親友の存在に救われたようだ。




『用事はそれだけです。では、失礼しますね。おやすみなさいませ』

「はいよ。おやすみなさい」


 沖との通話を終えるのと同時に、バットを持ってベランダに出た。

 明日が休養日なのは良いが、試合感覚が鈍る。自主的に調整する必要がある。

 百回、二百回とバットを振り込むうちに、天津との話は頭から抜けていった。


 明後日も、明々後日も。来年も、再来年も。プロ生活はまだまだ続く。

 それらの日々と戦う為、そして大切な息子の為、高橋はバットを振り続けた。

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