其之七 -嘘つき-
その日の診療が終わると、まだ酒の熱気の籠っている腰を、織田が平手で景気良く叩いた。
「よぉっし、治療終わり!」
「ありがとうございます。明日も同じ時間でしょうか」
「何言うとる。完治っちゅう事だ」
「え、えっ?」
動揺を露わにしながら、慌てて体を起こす。
確かに、最近痛みは殆ど感じていないが、完治が近いとは聞いていなかった。
「試合に出られんでフラストレーションも溜まっているだろう。
もう、チームに戻って構わんぞ」
「き、急に言われても……本当に治っているんですか?」
「そう言うとるだろうが。良かったな!」
織田はそう言うと、高橋に気兼ねなく陶器瓶を煽る。
強い日本酒の香りが新たに漂ってきたが、高橋はそれに突っ込みもせず、虚ろな視線を宙へ向けていた。
「あ……あの。俺、まだチームに戻る決心が付いていないんです」
「気持ちは分かるぞ。長年痛めていた部位だからな。
だが恐れず、思いっきり体を動かして構わん」
「ではなくて、なんと言うか……」
その先の言葉は、出てこなかった。
思わず頭を抱え、うなだれてしまう。
織田も、そんな姿に何かを感じたのか、すぐには声を掛けてこなかったが、
やがて先に口を開いたのは、彼の方だった。
「……お前さんの患部が腰だけじゃないのは分かっている」
「監督から、報告でもありましたか?」
「球団からは腰の事しか聞いとらんよ。ただの俺の勘だ。
何か別の存在を怖がっているような気はしていた」
「……俺、一体、どうしたらいいんだ」
「知るか。そもそも何で悩んでいるのかは、俺は知らんのだぞ」
自問の言葉を相談と受け取られたようだが、高橋は発言の訂正もせずに考え込む。
――天津にゴシップ誌を見せられたのは、まだ昨日の出来事だ。
ファンからの実際の反応は分からない。
ネットで調べれば出てきたかもしれないが、そうする度胸はなかった。
多分、自分を売ったのは、ファンだろう。
球場に戻っても、バッシングの嵐が待ち受けているに決まっている。
中には、それでも応援してくれるファンもいるだろうが、
その者も、本心では何を考えているのか、分かったものではないのだ。
そもそも、一ヶ月そこそこでメンタルを回復できるなんて考えが甘かった。
だが、半年ならどうだろうか。
それでも駄目なら、一年かければどうだろうか。
天津の言うように永遠にとまではいかなくとも、もう少し。
もう少しだけ、逃げだす事ができれば……。
「……俺、もう暫く伊部に残ろうと思います」
顔を上げずに、消えてしまいそうな声を漏らす。
「事前の予定通り、一ヶ月キッチリって事かい?」
「いや、もうちょっと……少なくとも年内は残ろうかと思います。
球団への説得は……協力してくれる人がいますので」
「いかん。さっきも言ったが腰は問題ない。
あとは気持ちの問題だから、さっさとチームに戻ってしまえ。
お前さん、ニュース見とらんのか? ジャガーズはとうとう最下位転落したぞ。
解説者も『高橋の復帰が待ち望まれる』と言ってたよ。
……いや、解説者だけじゃない。きっとファンも」
「そんなわけ、ありません!!」
自分でも驚くような大声が出た。
歯が震えで打ち鳴りそうなのを必死に堪え、高橋は立ち上がった。
「きっと、また叩かれる! 今度は直接危害を加えられるかもしれない!!
もう、沢山なんですよ。プロ野球選手になったのがそもそもの間違いだった!
金もいらない! 解放されたいんです!!」
「……そうか。お前さんの悩み、なんとなく分かった」
「なら、分かって下さい。もうちょっとここに残らせて下さい。
回復すれば、必ず……必ずチームに……」
「ならん。なおの事、戻らなくてはいかん。それを望んでいる者がいるのだ」
「自分勝手なんですよ、そんなの! 今年は絶対に復帰しません」
もはや、八つ当たりだと分かっているが、それでも叫ばずにはいられなかった。
だが、その言葉に対する返事は、織田の口からは語られなかった。
「嘘つき!!」
甲高い、子供の声。
声のした治療室出入口を見れば……そこには思いがけない姿があった。
「君……この間の、リトルの……」
「高橋選手の嘘つき!! 腰が治ったら復活するって言ってたのに、嘘つき!!」
「あっ、君……!!」
ユニフォーム姿の少年は、部屋から逃げるようにして出て行った。
だが、なんだろうか。走り去る少年の顔に違和感を覚える。
織田を一瞥し、彼が頷くのを確認してから、高橋も後を追ってロビーへ出る。
そこで高橋を待っていたのは、少年ではなく、天津鞍馬であった。
「天津さん。さっき、子供が走って来なかった?」
「先日見かけた、高橋様のファンの子ですね。
……ええ、診療所の外へと出ていきましたよ」
「ありがとう。ちょっと急ぐから、これで」
「いえ、少々お待ちを」
ガラス戸を引いた高橋の腕を、天津が握りしめる。
この急いでいる時になんなのだと抗議しようとしたが、
その前に腕を締め付けられて、顔が苦痛に歪む。
頬を引きつらせながら天津の顔を見れば……彼は冷ややかな視線を返してきた。
「あの少年……泣いていました。どうやら、制約を破られたようですね」
やはり、そうだった。
罪悪感と併せて、天津との制約に不安も感じていたが、案じたとおりだった。
外に出ようとするのを止め、握ってくる手を振りほどいて天津に向き直る。
彼が冷ややかな理由も、ファンを泣かせてしまったからだろうか。
……いや、それにしては、腕の締め付けが苛烈過ぎた。
何か、別の憤りが、天津の中にはあるのだろうか。
「……やっぱり、泣かせたんだな」
「ええ、ぽろぽろと涙を流されていました。相当辛い事があったようですね」
天津は外の様子をまったく気にせずに、そう言い放つ。
どうやら、簡単には解放してもらえないようだ。
「制約と、代償……ファンを泣かせたら、俺は大切なものを失うんだったな」
「よく覚えておいでですね」
「あの契約、本気なのか?」
「もちろん本気ですとも。詐欺師を許せないと言ったでしょう?」
「悪かった。子供を泣かすつもりじゃなかったんだ。謝る……」
「少し勘違いをされているようですね……。
私は、あの少年がかわいそうだから怒っているわけではありません。
……嘘をつく行為。それ自体が許せないのです」
天津が品定めでもするような目付きで、顔を寄せてきた。
なぜだろうか。その行為に、生命の危機を感じてしまう。
蛇に捕食される寸前の蛙は、こんな気分なのだろうか。
いや、そんな悠長な事を考えている暇はない。
何か……彼の様子が、何かおかしい……!!
「あ、天津さん、一体、何を……」
「そうですね、高橋様の大切なものは……」
「待て待て、待ていっ!!」
外から聞こえてきた怒鳴り声が、天津の声を掻き消した。
何故、彼がここにいるのだろう。
そんな疑問を抱きながらガラス戸の外を見れば、
いつだったかと同じように、沖精一が顔を上気させながら仁王立ちしていた。
「沖……お前、一体……」
「島田監督に行き先を聞きだしたんだよ」
沖が肩を上下させつつ中に入ってくる。
まさか、また中洲から走ってきたとは言いださないだろうが、
何か無茶をしてくれているのは、ひしひしと伝わってきた。
「よくそんな事ができたな」
「あの人は俺にとっても大学野球部の先輩だからな」
「だからって、そう簡単には教えてくれないと思うが」
「ゴシップ誌を読んで、お前が心配になったと監督に相談したんだよ。
監督も同じ気持ちだったみたいで、すぐ教えてくれた」
「監督も、俺を心配してたのか……」
「……なあ、高橋。以前お前の跡を付けて遊山屋に行ったろう?
波戸の件は調査打ち切りで、もう仕事じゃないのにさ。
あの時もそうだが……俺は、お前が心配だったんだよ」
沖は目を光らせながらそう言い、ずしり、と音が聞こえそうな迫力で近づいてきた。
だが、それを遮るかのように天津が前に出る。
「これはこれは、探偵さん。少し外して頂けませんか?
私は高橋様に大切なお話があるのですが」
「制約と代償がどうの、と言ってたな。
何をやっていたか知らんが、事件の香りがプンプンする発言だ」
「……あまり深入りされない方が宜しいですよ」
「そうだな。元々お前に話があったわけじゃない。
そもそも何故お前がここにいるのかも分からん。
今はそれよりも、高橋に大事な話があるんだ。ちょっとどいてくれ」
沖は力ずくで天津を押しのけ、高橋の眼前に立った。
高橋もまた、友の角ばった顔を見つめる。
相変わらず力強い目つきをしていたが、下唇は強く噛みしめられていた。
何故、今その表情をするのだろう……彼が、涙を堪えてる時の癖だった。
「実は、伊部には昨日から滞在していたんだ。
お前を探して聞き込みをしていたら、この診療所の事を知ってな。
……そこで聞いた話の裏付けを取っていて、今日まで姿を現せなかった」
「診療所で、何を聞いたんだ……?」
「谷崎ユキの話だ」
思わず、息を飲み込んでしまう。
すぐには声が出なかったが、沖は構う事なく語り始めた。