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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File2.高橋典孝(32) ファンからの現実逃避
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其之七 -嘘つき-

 その日の診療が終わると、まだ酒の熱気の籠っている腰を、織田が平手で景気良く叩いた。

「よぉっし、治療終わり!」

「ありがとうございます。明日も同じ時間でしょうか」

「何言うとる。完治っちゅう事だ」

「え、えっ?」

 動揺を露わにしながら、慌てて体を起こす。

 確かに、最近痛みは殆ど感じていないが、完治が近いとは聞いていなかった。


「試合に出られんでフラストレーションも溜まっているだろう。

 もう、チームに戻って構わんぞ」

「き、急に言われても……本当に治っているんですか?」

「そう言うとるだろうが。良かったな!」

 織田はそう言うと、高橋に気兼ねなく陶器瓶を煽る。

 強い日本酒の香りが新たに漂ってきたが、高橋はそれに突っ込みもせず、虚ろな視線を宙へ向けていた。


「あ……あの。俺、まだチームに戻る決心が付いていないんです」

「気持ちは分かるぞ。長年痛めていた部位だからな。

 だが恐れず、思いっきり体を動かして構わん」

「ではなくて、なんと言うか……」

 その先の言葉は、出てこなかった。

 思わず頭を抱え、うなだれてしまう。

 織田も、そんな姿に何かを感じたのか、すぐには声を掛けてこなかったが、

 やがて先に口を開いたのは、彼の方だった。



「……お前さんの患部が腰だけじゃないのは分かっている」

「監督から、報告でもありましたか?」

「球団からは腰の事しか聞いとらんよ。ただの俺の勘だ。

 何か別の存在を怖がっているような気はしていた」

「……俺、一体、どうしたらいいんだ」

「知るか。そもそも何で悩んでいるのかは、俺は知らんのだぞ」

 自問の言葉を相談と受け取られたようだが、高橋は発言の訂正もせずに考え込む。



 ――天津にゴシップ誌を見せられたのは、まだ昨日の出来事だ。

 ファンからの実際の反応は分からない。

 ネットで調べれば出てきたかもしれないが、そうする度胸はなかった。

 多分、自分を売ったのは、ファンだろう。

 球場に戻っても、バッシングの嵐が待ち受けているに決まっている。

 中には、それでも応援してくれるファンもいるだろうが、

 その者も、本心では何を考えているのか、分かったものではないのだ。


 そもそも、一ヶ月そこそこでメンタルを回復できるなんて考えが甘かった。 

 だが、半年ならどうだろうか。

 それでも駄目なら、一年かければどうだろうか。

 天津の言うように永遠にとまではいかなくとも、もう少し。

 もう少しだけ、逃げだす事ができれば……。




「……俺、もう暫く伊部に残ろうと思います」

 顔を上げずに、消えてしまいそうな声を漏らす。

「事前の予定通り、一ヶ月キッチリって事かい?」

「いや、もうちょっと……少なくとも年内は残ろうかと思います。

 球団への説得は……協力してくれる人がいますので」

「いかん。さっきも言ったが腰は問題ない。

 あとは気持ちの問題だから、さっさとチームに戻ってしまえ。

 お前さん、ニュース見とらんのか? ジャガーズはとうとう最下位転落したぞ。

 解説者も『高橋の復帰が待ち望まれる』と言ってたよ。

 ……いや、解説者だけじゃない。きっとファンも」

「そんなわけ、ありません!!」

 自分でも驚くような大声が出た。

 歯が震えで打ち鳴りそうなのを必死に堪え、高橋は立ち上がった。



「きっと、また叩かれる! 今度は直接危害を加えられるかもしれない!!

 もう、沢山なんですよ。プロ野球選手になったのがそもそもの間違いだった!

 金もいらない! 解放されたいんです!!」

「……そうか。お前さんの悩み、なんとなく分かった」

「なら、分かって下さい。もうちょっとここに残らせて下さい。

 回復すれば、必ず……必ずチームに……」

「ならん。なおの事、戻らなくてはいかん。それを望んでいる者がいるのだ」

「自分勝手なんですよ、そんなの! 今年は絶対に復帰しません」


 もはや、八つ当たりだと分かっているが、それでも叫ばずにはいられなかった。

 だが、その言葉に対する返事は、織田の口からは語られなかった。





「嘘つき!!」





 甲高い、子供の声。

 声のした治療室出入口を見れば……そこには思いがけない姿があった。


「君……この間の、リトルの……」

「高橋選手の嘘つき!! 腰が治ったら復活するって言ってたのに、嘘つき!!」

「あっ、君……!!」

 

 ユニフォーム姿の少年は、部屋から逃げるようにして出て行った。

 だが、なんだろうか。走り去る少年の顔に違和感を覚える。

 織田を一瞥し、彼が頷くのを確認してから、高橋も後を追ってロビーへ出る。

 そこで高橋を待っていたのは、少年ではなく、天津鞍馬であった。



「天津さん。さっき、子供が走って来なかった?」

「先日見かけた、高橋様のファンの子ですね。

 ……ええ、診療所の外へと出ていきましたよ」

「ありがとう。ちょっと急ぐから、これで」

「いえ、少々お待ちを」

 ガラス戸を引いた高橋の腕を、天津が握りしめる。

 この急いでいる時になんなのだと抗議しようとしたが、

 その前に腕を締め付けられて、顔が苦痛に歪む。

 頬を引きつらせながら天津の顔を見れば……彼は冷ややかな視線を返してきた。



「あの少年……泣いていました。どうやら、制約を破られたようですね」



 やはり、そうだった。

 罪悪感と併せて、天津との制約に不安も感じていたが、案じたとおりだった。

 外に出ようとするのを止め、握ってくる手を振りほどいて天津に向き直る。

 彼が冷ややかな理由も、ファンを泣かせてしまったからだろうか。

 ……いや、それにしては、腕の締め付けが苛烈過ぎた。

 何か、別の憤りが、天津の中にはあるのだろうか。




「……やっぱり、泣かせたんだな」

「ええ、ぽろぽろと涙を流されていました。相当辛い事があったようですね」

 天津は外の様子をまったく気にせずに、そう言い放つ。

 どうやら、簡単には解放してもらえないようだ。


「制約と、代償……ファンを泣かせたら、俺は大切なものを失うんだったな」

「よく覚えておいでですね」

「あの契約、本気なのか?」

「もちろん本気ですとも。詐欺師を許せないと言ったでしょう?」

「悪かった。子供を泣かすつもりじゃなかったんだ。謝る……」

「少し勘違いをされているようですね……。

 私は、あの少年がかわいそうだから怒っているわけではありません。

 ……嘘をつく行為。それ自体が許せないのです」


 天津が品定めでもするような目付きで、顔を寄せてきた。

 なぜだろうか。その行為に、生命の危機を感じてしまう。

 蛇に捕食される寸前の蛙は、こんな気分なのだろうか。

 いや、そんな悠長な事を考えている暇はない。

 何か……彼の様子が、何かおかしい……!!


「あ、天津さん、一体、何を……」

「そうですね、高橋様の大切なものは……」

「待て待て、待ていっ!!」

 外から聞こえてきた怒鳴り声が、天津の声を掻き消した。

 何故、彼がここにいるのだろう。

 そんな疑問を抱きながらガラス戸の外を見れば、

 いつだったかと同じように、沖精一が顔を上気させながら仁王立ちしていた。




「沖……お前、一体……」

「島田監督に行き先を聞きだしたんだよ」

 沖が肩を上下させつつ中に入ってくる。

 まさか、また中洲から走ってきたとは言いださないだろうが、

 何か無茶をしてくれているのは、ひしひしと伝わってきた。


「よくそんな事ができたな」

「あの人は俺にとっても大学野球部の先輩だからな」

「だからって、そう簡単には教えてくれないと思うが」

「ゴシップ誌を読んで、お前が心配になったと監督に相談したんだよ。

 監督も同じ気持ちだったみたいで、すぐ教えてくれた」

「監督も、俺を心配してたのか……」

「……なあ、高橋。以前お前の跡を付けて遊山屋に行ったろう?

 波戸の件は調査打ち切りで、もう仕事じゃないのにさ。

 あの時もそうだが……俺は、お前が心配だったんだよ」

 沖は目を光らせながらそう言い、ずしり、と音が聞こえそうな迫力で近づいてきた。

 だが、それを遮るかのように天津が前に出る。



「これはこれは、探偵さん。少し外して頂けませんか?

 私は高橋様に大切なお話があるのですが」

「制約と代償がどうの、と言ってたな。

 何をやっていたか知らんが、事件の香りがプンプンする発言だ」

「……あまり深入りされない方が宜しいですよ」

「そうだな。元々お前に話があったわけじゃない。

 そもそも何故お前がここにいるのかも分からん。

 今はそれよりも、高橋に大事な話があるんだ。ちょっとどいてくれ」

 沖は力ずくで天津を押しのけ、高橋の眼前に立った。

 高橋もまた、友の角ばった顔を見つめる。

 相変わらず力強い目つきをしていたが、下唇は強く噛みしめられていた。

 何故、今その表情をするのだろう……彼が、涙を堪えてる時の癖だった。




「実は、伊部には昨日から滞在していたんだ。

 お前を探して聞き込みをしていたら、この診療所の事を知ってな。

 ……そこで聞いた話の裏付けを取っていて、今日まで姿を現せなかった」

「診療所で、何を聞いたんだ……?」

「谷崎ユキの話だ」


 思わず、息を飲み込んでしまう。

 すぐには声が出なかったが、沖は構う事なく語り始めた。

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