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幻影旅行代理店 遊山屋 ~現実逃避の旅、29泊30日プラン~  作者: 加藤泰幸
顧客File2.高橋典孝(32) ファンからの現実逃避
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其之六 -表裏-

 翌日から、腰の治療が始まった。

 織田の予告どおり、酒マッサージでの治療方法となったが、これが実に心地良かった。熱を伴いながら患部をほぐされると、痛みがそのまま快感へと変わるような気がする。施術中に眠ってしまう事も何度かあった。


 そうして眠ってしまった日は、ロビーへ戻る前に洗面所で顔を洗う。

 誰が種火になったのかは分からないが、ジャガーズ高橋が療養に来ていると聞きつけたファンが、診療所のロビーにたむろするようになった為である。

 診療所の迷惑になるのではと考えて、初めはファンを避けようともしたが、

 それを知った織田は、むしろ対応を推奨してくれた。

 田舎の診療所は、地域住民のサロンのような要素を元々持っているし、

 診療所としても良い宣伝になるので助かるらしい。


「早く治せよ典孝! 応援しとるぞ!」

「頑張ってください、高橋選手!」

「高橋さん、握手してくれませんか!」


 ファンから掛けられるのは、どれもありきたりな声援だった。

 だが、そのありきたりが何よりも嬉しい。

 伊部に来てから二週間が経ったが、不快な言葉は一度も聞かなかった。






「そうは言っても、退屈ではありませんか?」

 谷崎みずきはそう尋ねながら、小さな口に弁当を運んだ。

 午前診療を割り当てられている土日は、診療所の休憩室にお邪魔して、

 彼女と昼食を食べるのが日課となっている。

 高橋が食べる弁当も、みずきが自主的に作ってくれたものだ。

 申し訳ないので一度は断ったが「二人分作るのも、三人分作るのも同じですから」と言って、彼女は作り続けてくれた。

 残るもう一人分を誰が食べているのかについては、まだ聞く機会はなかった。



「確かに娯楽の類は少ないな。大阪と比べればどうしてもね」

「ほら、やっぱり」

「でもバカンスに来たわけじゃないし、まったく問題ないよ。

 それに、個人的にはのどかな場所は好きだし。伊部には何の不満もない」

「そうなんですか。プロ野球選手って、もっと派手に暮らしているイメージがありましたので、意外です」

「俺だって、指圧師って小ざっぱりとしたイメージがあったから、意外だな」

「うちの先生が意外で申し訳ありません」


 みずきが冗談っぽく言うと、どちらからともなく笑ってしまった。

 この二週間で、彼女の事も少しずつ分かってきたのだが、姉のユキよりも幾分か明るく、垢抜けた女性だった。その為か、顔は似ていてもユキをダブらせた事は一度もない。みずきに失礼だし、それで良かったと思う。




「でも、織田先生に診てもらえて良かったよ。

 お陰様で一ヶ月を待たずに回復しそうなくらい、調子がいいんだ」

「そうなんですか。腰が治ったら、すぐに大阪に戻られるのでしたっけ?」

「……いや、メンタルもかな」

 最近前向きになっているお陰だろうか。気後れなく、それを口にする。


「メンタル……なにかあったのですか?」

「色々あって、野球選手を続ける自信を無くしているんだよ。

 伊部には羽を伸ばしにも来たわけ」

「あまり、詳しいお話は聞かない方が良さそうでしょうか?」

「そうだね、愚痴になっちゃいそうだ。

 ……ただ、腰よりもメンタルの方が先に治りそうだよ」


 口にした言葉は、社交辞令ではない。

 伊部の人々との交流を経て、すさんだ心は間違いなく回復しつつあると、高橋は自覚していた。特に前向きになれたのは、織田敏克との会話だろう。


 織田が、どのような器が焼き上がるのかが心配なように。

 自分が、どのような治療なのか不審に思ったように。

 球場に来ているジャガーズファンも、

 高橋が打ち、チームが勝ち、そして優勝できるかが不安なのだろう。

 達成への工程を知らないから、その心境になり、結果としてヤジが生まれているのだろう。


 もちろん、不安の域を越えた、ただのうっぷん晴らしもある。

 だが、横暴なファンを恐れるがあまり、期待してくれているファンからも逃げてしまうというのは、好ましい事ではない。


 



「少し寂しくなりますけれど、仕方ありませんね。

 伊部に永住されるわけでもありませんし」

「永住……天津さんが、そんな事言ってたっけかな。

 可能性がゼロじゃないけど、現実的じゃないだろうね」

「でも、帰る前に二つお願いを聞いてもらえませんか?」

「俺に出来る事なら」

「ありがとうございます」

 みずきは礼を告げながら、箸を弁当箱にかけ、両手を膝の上に置いた。


「……まず、姉の墓参りをして貰えませんか。近所の墓地にあるんです」

「近所……。ユキも、ここで暮らしてたの?」

「あら、話していませんでしたっけ。私達は伊部の出身なんです。元々は姉が診療所で働いていたのですよ。私と織田先生が知り合ったのは、二年前の姉の葬儀でした。それ以来、私が働いているんです」

「……なるほど。ユキは故郷で亡くなっていたんだな」

 そう呟きながら、視線をみずきから外す。

 彼女に、今の自分の無様な顔を見られたくなかった。


 別に、今でもユキが恋しいわけじゃない。

 故障した時に見捨てられたし、自分からも連絡を取らなくなったのだから、

 彼女との関係は終わっている。

 以前、沖が言ったとおり、ただ懐かしく思うだけの存在だ。

 その懐かしさが、胸を締め付けるだけの事だ。




「分かった。今度、時間がある時に案内してよ」

「そう言って頂けると嬉しいです。姉も喜ぶと思います」

「で、もう一つのお願いってのは?」

「……こちらは、ちょっと時間を頂けませんか。

 言うべき時になったら、お願いしようと思います」


 みずきはそう呟いて、カラの弁当箱に視線を落とした。

 彼女には、そこに何か見えているのだろうか。

 真意はまったく分からなかったが、高橋はただ黙って頷いた。









 ◇









「なるほど。始めて来ましたが閑静で良い町ですねえ」

 伊部駅で出迎えた天津鞍馬は、扇子で自身を仰ぎながらそう言った。

 六月中旬、梅雨が近づき湿度も高い時期である。

 彼はスーツを脱いでのYシャツ姿だったし、高橋も気楽なTシャツ姿だった。


「長旅、お疲れ様。福岡からだと大分時間が掛かったでしょ」

「多少は。でもお仕事ですから」

「アフターケア、だっけか」

「お客様が逃避先でお困りでしたら、少しでも力になるのが私の仕事。

 顔を合わせて伝えたい事もありますしね」

「気を遣ってくれるのは嬉しいけれど、電話で言ったように、本当に何も困ってないんだけどなあ……」

「来た理由は他にもありますよ。ついでに岡山のお酒を満喫しようと思いまして」

 天津は糸目でにっこりと笑った。

 中性的な顔立ちのせいか、女性と見間違えそうな笑みだった。

「岡山は季節限定販売の原酒が美味なのですよ。

 アルコール度数が高く、体を包むように濃厚な味がたまらないのです」

「あ、そういう事ね」




 そんな会話を交わしながら、仮住まいのマンションまでの道を歩く。

 遊山屋が用意してくれたマンションに不満はない。むしろ面倒な契約を請け負ってもらって助かっているくらいだ。

 改めてその旨を説明し、アフターケアは不要だと伝えると、天津はゆっくりと首を横に振った。



「私が気にしているのは、高橋さんが現実逃避するに至った理由の方です。

 少しは気持ちが楽になりましたか?」

「お陰様で、メンタルも回復したよ。こっちでもファンと交流する機会があったけど、天津さんが前に言ったとおりだと実感できた」

「どの発言の事でしょうかねえ」

「ファンとは、家族でもない赤の他人に対して、ありったけの応援をしてくれる人々……みたいな事を言ってたじゃないか。一部の痛烈なヤジで盲目になっていたけど、ファンってそういう存在だったのを思いだせたよ」

「ですが……おや」

 ふと、天津が視線を横に流した。

 同じ方を見ると、野球のユニフォームを着た少年が、小走りで近づいている。

 少年の目的に、大方の予想は付いた。天津も同じ事を考えたようで、こちらを肘で突いてきたので、目礼を返してから少年に向き直った。




「高橋選手、ですか?」

「そうだよ。初めまして」

「い、いえ。前に織田診療所でお会いしています!」

 そう言われれば、顔は見てないが、最初に診療所を訪れた時に少年とすれ違った。


「あ、あの……良かったら握手してもらえませんか!?」

「もちろんいいよ」

 笑顔で返事をして手を出すと、少年は威勢よく手を握り返してきた。子供ながらに固い手だった。

「君も、野球をやってるんだね」

「はい、リトルでやってます!」

「頑張ってるんだな。ポジションはどこだい?」

「肩がいい方なので、センターやらせてもらってます!」

「おじさんと同じポジションだな。外野手は守備の最後の砦だ。

 応援してるから、しっかり守って投手を助けてやれよ」

「高橋選手の事も応援しています!!」

「サンキュー。怪我を治したら大活躍するから、待っていてくれよ」

「はいっ!!」

 少年の声は、脳に直接響いたと思える程に大きかった。

 少年野球らしく気持ちの良い喋り方で、なんとも微笑ましい。


「じゃあ、失礼します!」

 少年は最後に、帽子を取って深々と頭を下げ、走り去っていった。

 道の奥にはグラウンドがあった気がする。練習に行く途中なのだろう。




「……今のが伊部のファン、ですね」

 少年の姿が見えなくなると、天津が静かに言った。

「だな。暖かいもんだろう」

「それは、どうでしょうか」

「え……?」

 予想外の反応に、反射的に彼の顔を見つめる。

 天津は相変わらずの糸目で微笑んでいたが、これまでとは違って、どこか冷たさがひそんでいるような気がした。




「……先程、少年が来た為に話しそびれましたね。

 高橋様は本当にチームに戻られるおつもりですか?」

「当たり前じゃないか。急に何を言い出すんだよ」

「急ではございません。前にも申し上げましたが、

 このまま逃避先の伊部に永住するという選択肢もあるはずです」

「ない。万全の状態でグラウンドに立てるよう、治療しているんだ。

 確かにその選択肢は前にも聞いているけれど、天津さんは『ファンは大切だ』とも言ってたじゃないか。そのとおりだよ。逃げ出すわけにはいかないんだ」

 天津に一歩詰め寄りながら主張する。声を荒立てないようにするのに苦労したが、天津の顔をよく見れば、むしろ彼の方が微かに眉をひそめていた。



「プロ野球は興行ですから、もちろんファンは大切ですよ。

 あの時は、あくまでも一般論として申し上げました。

 ただ……高橋様の周囲には、尊重するに値しないファンがいるかもしれない」

「……どういう事だ?」

「要は、高橋様を『売った』ファンがいるかもしれないのです。

 表では好意的に接して応援しながら、裏では小遣い稼ぎのネタにする者が。

 そのような詐欺師を、私は許せません。……それ故、アフターケアとして、高橋様の意志を直接伺いに来たのですよ」

「さっきから『尊重に値しない』とか『売った』とか、ハッキリしないな。

 ずばり言ってくれよ。何を気にしているんだ?」


 天津は返事をせず、代わりに鞄から雑誌を抜き取り、突き出してきた。

 受け取って表紙を見れば、最近発売されたゴシップ誌である。

 付箋が挟まれていたので、自然とそのページを開いて……高橋の体は、固まった。




「……お、おい。これ……」

「『ジャガーズ高橋典孝、失踪の真実』……随分と早く目を付けられましたね。

 記事の内容がまた強烈ですよ。ご覧になって下さいな」

 言われるまでもない。

 食い入るように紙面を黙読していくうちに、高橋の体からは血の気が引いた。


 自分が伊部に長期滞在している事が、写真付きで報じられている。

 いつ誰が撮ったのかは分からないが、織田診療所付近を歩いている写真で、

 映りは良かった。こうして報じる為に隠し撮りしたのだろう。

 ならば、治療の件が報じられても良さそうだが、その事については一切触れられず『サボり』『バカンス』と、あげつらう文面が並んでいた。

 更には、シーズン中にバカンスを楽しむ姿を非難するファンの声も書かれている。

 大抵、この手の発言は編集部によるねつ造だし、ある事ない事を報じられるのは慣れている。

 だが、高橋が一番衝撃を受けたのは、これを報じた者の存在だった。

 



「一体、誰が……」

「私には、そこは分かりません。

 当然、雑誌編集者にマークされていた可能性はあるでしょう。

 ですが……高橋様も、他の可能性にお気づきなんでしょう?」

 返事はせずにゴシップ誌を閉じ、なおかつ目を背ける。

 それでも、天津はその先を告げた。


「ファンの誰かが、密告したのかもしれません」

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