其之四 -登録抹消-
遊山屋を訪れた翌々日、高橋は一軍登録を抹消された。
福岡コンドルズとの二戦目で、ホームラン性の当たりを好捕した際に体をフェンスにぶつけ、腰痛が我慢できない状態まで悪化したのである。
大差でリードした七回表、無理する必要がない展開での故障だった。
『状況判断が出来ないようでは困る』と苦言を呈する解説者はいたが、当然ながら『二軍落ちの危機にある後輩の失点を防ぐ為では』と深読みする者はいなかった。
『……この度の二軍落ち、誠に残念でしたね』
高橋からの電話に出た天津は、開口一番、二軍落ちの件を気遣ってくれた。
社交辞令的な口調で、本心から案じている印象は受けなかったが、今は言葉だけでもありがたい。
高橋は素直に礼を言い、自宅のベッドに腰をそっと預けなおしてから、話を切り出した。
「今回の二軍落ちで、俺はチームを離脱する事になったよ」
『離脱? 辞められるのですか?』
「違う違う。大阪を出て、岡山の診療所で集中的に腰の治療を受けるんだ。
備前の伊部って町に、ゴッドハンドと呼ばれている先生がいるらしくてさ」
『なるほど。それ程までに重い故障でしたか』
「まあな。……一ヶ月ほどの長期治療になりそうだ」
『随分と時間がかかるものですね』
「いや、治すだけなら一ヶ月もかかったりしないんだがな……」
一ヶ月間の離脱は、島田が強要したものだった。
最低限の治療でチームに復帰するのではなく、長期滞在して徹底治療するように、との意向だが、父の件を気遣ってメンタルケアをさせたいのだろう。
勘違いではあるのだが、ありがたい勘違いだ。
「……とにかく、いい機会だ。じっくり治療してくるよ」
『それが宜しいでしょう。その報告の為に、お電話下さったのですか?』
「いや、本題は契約周りの再確認だ。
……天津さんと会った日に、現実逃避プランの契約をしたじゃないか」
『ええ』
「受けられるサポートは、移動手段の手配と、現地での居住施設のみ……
これは間違いないよな」
『もちろんです。高橋様の名義ではない施設なので、明日には引っ越せますよ』
「ありがとう。次に……契約期間は偶然にも治療期間と同様の一ヶ月……と」
『現地での生活がお気に召されましたら、そのまま永住しても構いません』
「無茶言うなよ。契約を三年半残して引退する事になる。大事件だぜ」
『そうですか。ともかく、現地で暮らしてから考えてみて下さいませ』
「はいはい。……なあ。ところで、今回の怪我、変だと思わないか?」
本当に聞きたいのはここからだ。
高橋は表情を引き締め、薄氷を踏むように恐る恐る声を出した。
『何か気になる事でもありましたか?』
「俺、あの晩は完全に冗談のつもりで契約してたんだよ。
『近々チームを離脱するから、その時の住居を用意します』と言われても、
そんな予言めいた話を、本気で受け取るはずがないだろ?
結局、具体的な離脱方法は教えてくれなかったしさ。
もしも料金前払いだったら、冗談でさえも契約はしなかったよ」
『契約をキャンセルされたいのでしょうか』
「違う違う。本当に天津さんの言うとおりになったし、契約は成立だよ。
……でも、それが怖いんだ。冗談が現実になった瞬間は、ゾクッとした」
『偶然の一致とはいえ、あまりにも出来過ぎたタイミングですからね。
怖いと思われるのも当然です』
天津は狼狽える事なくそう言った。
先日の、沖との問答の時にも薄々感じたが、彼はポーカーフェイスで何を考えているのか分からない。ならば、ストレートに切り込む他ないだろう。
「……失礼を承知で聞くけど、天津さんが何か暗躍したわけじゃないよね」
『まさか。ご自身の判断でプレーして故障した結果、離脱したわけでしょう?』
「確かにそうなんだけどな。……悪かった。本当に失礼だったよ」
『あまり悩まれない方がいいですよ。
岡山へ心も癒しに行くのに、ストレスを溜め込んでは本末転倒です』
「それもそうだな。ありがとう。……だがなあ」
『まだ気になるのでしたら、こう考えてはいかがでしょうか。
……契約した晩、願い事を叶える宝珠を、お守り代わりにお貸ししましたよね』
「ああ。確かに借りたな」
『あれが起こしてくれた偶然、とでも考えておいてはいかがでしょうか』
「それはそれで、胡散臭くはあるなあ」
今度の話は、明らかに冗談だ。
だが、それでも根拠になれば少しは落ち着く。
高橋は表情を緩めたが、まだ聞くべき事が残っているのを思い出して、すぐに引き締め直した。
「ともかく、料金は後で振り込んでおくよ」
『宜しくお願いします。宝珠はご返送下さいね』
「分かった。大阪を発つ前に送る。あと、最後にもう一つ。
制約と代償って、契約書に書いてあったよね」
そう言いながら、脇机に置いていた契約書に手を伸ばして再確認する。
契約内容の中には『旅行期間中に、ファンを泣かせない事を誓います』と奇妙な一文が記されていた。
今回の契約は、バッシングから逃れて羽根を伸ばす為のものだ。
ただし、有名人である以上、ファンから完全に逃れる事はできない。
ならばせめて、逃避する姿を露骨に示してファンを泣かせないように……
そんな天津の要望を受けて結んだ契約だ。
『ええ、守って頂かないと困りますよ』
「当然守るさ。逃避先で気持ちが緩み過ぎたら現実への復帰に苦労する、
って言い分も、もっともだしな。……ただ、代償って本当に分からないの?」
『残念ながら。時と場合によって、いかようにも変わりますからね』
「……そうか。やっぱり分からないか」
気味の悪さは、やはり払拭できなかった。
これには、何か裏があるような気がしてならない。
もしかすると、波戸真澄という男の失踪にも関連しているかもしれない。
考えれば考える程不安になるが、天津が先程言ったように、ストレスは溜め込まない方が好ましい。ここは治安大国日本だ。何か起こっても逃れる方法はいくらでもあると考える事にしよう。
「まあ、ファンを泣かせなければ問題ないんだよな」
『そのとおりです。私が言うまでもないでしょうが、本来、プロにとってファンは大切な存在ですよ。家族でもない赤の他人に対して、ありったけの応援をしてくれる人々なのですからね』
「……そうだな。大切なんだよな」
『私のような客商売でも、心中ではどう思っていても、愛想笑いをします。
お客様相手に、あまり冷たい態度を見せるのは考えものですよ』
愛想に満ちた口調でそう言われる。
高橋は思わず失笑したが、反論はしなかった。
『ゆめゆめ、お忘れなきように。では、今夜はこれで失礼します。
現地での住所等は、また明日ご連絡しますね』
「宜しく頼む」
……彼の言う事は、よく分かっている。
実際、昨年までは彼と同じように思っていたのだから。
ファンを怖がる今の考え方が、ねじ曲がっているのだろう。
だが理屈では分かっていても、怖くて仕方ない事に変わりはないのだ。
これからの一ヶ月で、昔みたくファンを大切に思えるようになるだろうか。
それとも、別の結果が待っているのだろうか。
そんな事を考えながら、高橋は終話ボタンを押した。