其之三 -探偵、乱入-
沖と別れてタクシーに乗り込んだ高橋は、天神に移動した。
中洲程ではないが、天神も飲食店や屋台のネオンが眩しい不夜の街である。その中で目的の店を探し出せるのか、少々不安ではあったが……遊山屋はあっけなく見つかった。
「……こりゃ、変わった店だな。まだやってるのかな?」
鳥居を模した扉に感嘆しつつ周囲を見回すが、窓はない。
ドアノブに手を掛けると、鍵の手応えを感じない。思い切って開けてしまうと、朱塗りのカウンターや和雑貨の並んだ異質な店内が姿を現した。
興味本位で来てはみたが……これは妙な所へ足を踏み込んだのかもしれない。
店内で視線を遊ばせたが、それはすぐに、カウンターの奥にいる男のところで止まる。高橋の入店に気付いた男は、すかさず立ち上がって一礼した。
「これはこれは、高橋様ではありませんか。どうもいらっしゃいませ」
「……そうか。俺の顔を知ってるか」
「福岡では有名人ですからね。それに、朱莉から事情は聞いております」
「朱莉?」
「数時間前、小学生の女の子に名刺を渡されたでしょう?
あの子の名前です。……さあ、席にお掛け下さい」
「立ち入った話をされても困るんだけど……」
「そう言わずに。ほら、どうぞどうぞ」
慇懃に勧められれば断れず、カウンターを挟んで向かいの席に座る。
同時に、なおも店内を観察したが少女の姿はなかった。
「私、現実逃避のお手伝いをさせて頂いております、天津鞍馬と申します」
「どうも、高橋だ。……現実逃避がどうの、って話は朱莉ちゃんがしていたな。
旅行代理店なのに現実逃避って、どういうわけなんだ?」
「旅行代理店は表向き。当店の本当の商いは、現実逃避斡旋店でございます。
……現代に生きる人間は何かしらの理由で疲労し、現実逃避を望まれる方は少なくありません。当店はそのようなお客様が、一ヶ月ほど他の土地に逃げ出せる環境を整えさせて頂いております」
天津は、まっすぐに高橋を見据えながら言う。
嘘をついている様子はなかったが、容易には信じられなくもある。
「環境を整える……
つまり、現実逃避先への移動方法や、住居の世話をしてくれるって事?」
「その他、必要なお客様には現地でのお仕事もご紹介致します。
後は、これが皆様一番のネックのようですが……現実逃避したくてもできない環境であれば、折り合いを付けるお手伝いも致します」
「今の環境に折り合いをつけるなんて、簡単にはできないだろ?」
「それができるのですよ」
天津は自信満々で答えた。通販番組で性能を誇る司会者のような語り口だった。
答えを用意しているのは仕事熱心で結構だが、今回は効果がなければ返品できる件じゃない。納得いくまで話を掘り下げる必要がある。
「例えば、俺はプロ野球選手だ。冬になるまでは球団から離れられない身だよ。
……そんな俺でも現実逃避できるとでも?」
「もちろん可能です。バッシングに悩まれているのでしょう?
その悩みから解放して差しあげますよ。
職務から逃げ出すわけにはいかない……とでもお考えでしょうが、それでは高橋様が潰れてしまいます。時にはシーズン中であろうと、心を洗濯した方が良いですよ。プロとはいえ人間なのですから」
天津はきっぱりとそう言いきり、狐のように目を細めて微笑んでみせた。
胡散臭さを感じる笑みだし、どのように逃がしてくれるのか、具体的な方法はまだ分からない。
……だが、そう考えた上で、高橋は彼の話を信じる気持ちになり始めていた。
仮に彼の話が事実であれば、こんなにも魅力的な提案はない。
それだけバッシングには参っている。
詐欺に遭う者は、きっと今の自分のような精神状態なんだろう。
「現実逃避、本当にできるのか」
そう呟きながら、今日も浴びた罵声を思い出す。
「もちろんですとも」
「……じゃあ、もっと詳しい話を……」
「ちょっと待ったぁ!!」
高橋の声は、背後から聞こえてきた怒声にかき消された。
数十分前まで聞いていた声だ。誰が発したのかすぐに分かる。
振り返れば、沖精一が荒々しく息を整えながら立っていた。
「沖!? どうしてここに……」
「はあっ、はあっ……わ、悪いな、高橋。跡をつけさせてもらった。
お前の話を聞いてこの店が気になったんだよ」
「俺、天神までタクシーで来たんだが、それについてきたのか?」
「おう。隣町とはいえ、無茶苦茶走らされたぞ。尾行というより長距離走だった」
説明してくれれば、一緒に来たのだが。
そう言おうと思ったが、沖から肩を叩かれる形で制された。
「高橋。俺は今から、よく分からない話をする。暫く黙って見守ってくれるか?」
「あ、ああ……」
彼の剣幕に圧されて、よく分からないうちに頷いてしまう。
その返事を聞いた沖は、天津に強い視線を向けた。
「というわけだ。あんたに用事があるんだよ、優男さん」
「私に、ですか。お客様も、どこかへのご旅行をお考えで?」
「まあな。……自己紹介がまだだったな。
近所にあるカチカチオンラインってゲーム会社勤務の、波戸真澄という者だ」
「お客様、ご冗談を。先程、高橋様が『沖』と呼ばれていましたよ」
「揺さぶっても表情は変わらんか。……まぁ、いい。
探偵の沖精一だ。波戸の話を聞かせてもらいに来た」
沖が言うとおり、話の流れがまったく見えない。
ゲーム会社? 波戸真澄? 沖の探偵業と何か関係あるのだろうか?
しかし、約束どおり口を挟まずにいると、ある事に気が付いた。
居酒屋で一瞬みせたように、目をギラつかせて相手を睨む高橋。
相変わらずの狐目で、涼しげな様子を崩さない天津。
この二人……なんとも対照的なのだ。
「……波戸さんという方が、どうかされたのですか?」
「波戸真澄は、さっき話したカチカチオンラインのプログラマーだ。
先月の五月末に、大事な仕事を放り投げて失踪している」
「それは大ごとですね。……沖様は、探偵と仰いましたか。
どなたかから依頼を受け、行方を調査中、といったところですか」
「確かに依頼は受けた。……もっとも、現在は契約満了しているがな」
「つまり、探偵さんが役に立たなかったので、
継続契約してもらえなかった、と?」
「チッ! 言い方ってもんがあるだろ」
沖は悪態をつき、ポケットから煙草とライターを取り出して口に咥えた。
対する天津は、これ見よがしに煙を扇子で仰ぎ始めたが、
沖は構わずに大きく煙を吸ってから、話を再開した。
「だが、手がかりはある。波戸は、失踪先から友人に電話をかけているんだよ」
「ほう」
「なんでも『旅行代理店で現実逃避を希望しろ』と意味不明な頼み事をしたそうだ。
電話を受けた男は、残念ながら店を見つけられなかった上に、
今では店名を失念したもんで、調査のしようがなかったがな。
……だが、高橋が出会った少女の話を聞いてピンときたんだよ」
「それで、当店が波戸様の失踪に関わっていると踏んで、乗り込んだわけですか」
「そんなところだ。……店内に乗り込む前に、高橋とお前の会話も聞いていたぞ。
現実逃避斡旋店とか言っていたじゃないか。どうなんだ、アァン!?」
ドスの利いた声が、沖の口から飛び出す。
一方の天津は、それでも表情を崩さずに肩を竦めた。
「盗み聞きとは、さすがは探偵さんですね」
「挑発しても無駄だ。観念するんだな。この店は間違いなく失踪に絡んでいる。
……さあ、波戸について話してもらおうか」
「と言われましても、そのような男性、私は存じませんよ」
「今、なんと言った」
「そのような男性存じません、と」
「やっとボロを出したな、優男」
沖が、にぃ、と歯を見せて笑った。
「俺は波戸真澄が男だとは一言も言っていない。なのに、なぜ男性だと言えるんだ」
「……はぁ」
「真澄という名は男女どちらにもある。なのに『男性』と言うって事は、
実際に会って性別を知っているからだろう!!」
「いや、それは……」
「はっはっはっ! 一度やってみたかったトリックだが、
まさか引っかかってくれるか! こりゃ気分がいいな」
「あ、あの、探偵さん?」
「さあ、吐け! 波戸真澄はどこにいる!!」
「探偵さん。私は男性だと思い込んだから、男性、と言ったのですよ?」
「……へっ?」
声が、すっとんきょうなものに変わった。
「本当の性別は存じません。ご友人が男性という情報や、
男女比8:2と言われるプログラマー職から察しただけです」
「あ、あれっ。そんな、ちょっと待て? ええと……?」
沖は、何度も何度も首を傾げた。
そんな彼を見ていると、緊迫した空気が一気に緩んでいくのが分かる。
やがて、自分の発言が罠になっていないと理解した沖は、
顔を真っ赤に染め上げながら地団駄を踏んだ。
「ぐうっ……やるな、天津鞍馬」
「やるもなにも、探偵さんが自爆されただけですが……」
「あー、うるさい! 分かった、今日のところは引き下がってやる。
だが、絶対尻尾を掴んでみせるからな!!」
沖はそう怒鳴ると、握り拳でカウンターを強く叩いて立ち上がった。
その衝撃で、高橋も気持ちが切り替わる。
どうやら話は済んだようだし、彼には言っておきたい事があるのだ。
「おい、沖」
「んだよ」
沖は口をへの字に曲げ、不機嫌そうに返事をした。
「そんな事情があったなら、尾行なんてせずに話してくれよ。
そしたら一緒に来たのに」
「……話せるか、馬鹿」
「どうしてさ」
「お前、今、自分の事で精いっぱいなんだろ」
沖が教えてくれた答えは、それだけだ。
灰の崩れ落ちそうな煙草を咥えたまま、彼は店の扉を出た。
扉が閉められる一瞬、憂慮の表情が見えた気がした。
「……仲が宜しいのですね」
天津が囁くように言った。
悪い気はしないが、恥ずかしくもある。
「どうかな。……それよりも、現実逃避プラン、
もっと詳しい話を聞かせてくれないかな」
「おや。探偵さんの話が気にならないのですか?」
「……気にならないと言えば嘘になるね。
それに本音を言えば、沖の話とは無関係に少々胡散臭くは思っている」
「それは残念」
残念さ皆無の、とぼけた口調で言われる。
それが面白くて、高橋はつい苦笑を零した。
「ははっ。……ただね。ここだけの話だけど、
ファンから逃げ出したいって気持ちも本音なんだ」
初めて出会った男に、この悩みを告げるとは、自分でも思ってもみなかった。
それだけ、天津の話す現実逃避プランを魅力的に感じているのだろう。
現役選手である以上、絶対に無理だと思っていた休養を得られるかもしれない。
しかも、一ヶ月。
それだけの長期間なら、メンタルを完全に回復できるかもしれない。
「やはり、それが高橋様の望みですか」
「一応釘を刺すが、誰にも話さないでくれよ」
「もちろんですとも。ちなみに、逃避先のご希望はおありで?」
「場所なんかどこでもいい。バッシングされなければ、それでいいよ」
「かしこまりました。それでは、ご説明しましょうか。
気に入らなければご契約頂かなくとも構いません」
「ああ、そうだな。まだ話を聞くだけだ。まずは、今の環境を解消する方法を知りたい」
「では、その前にお茶を入れてまいります。
……お酒が良ければ、それでも」
「えっ? 最後の方、声が小さくてよく聞こえなかったんだけれど」
「なんでもありません。……それでは少々お待ちを」
天津はそう告げると、店の奥へと消えた。
朱色の店内に一人残されると、高橋はゆっくりと天井を仰いだ。
今夜は、少しばかり長い夜になりそうだった。