其之二 -十年来の親友-
「どーせ大阪の水が合わないんだろう! 今日はしっかり食えよ!!」
居酒屋の個室に入るなり、沖精一は、高橋の背中を豪快に叩いてきた。
半年ぶりに見た彼の顔は、相変わらず実年齢よりも老けて四十歳手前に見える。
ホームベース型の輪郭と、昭和の顔をイメージさせる太い眉のせいで、そう感じるのだろう。だが、ぎょろついた目付きからは、若々しい力強さを感じる。昔からエネルギッシュな男だった。
「沖に心配されるとは、俺も落ちたものだな」
「なにぃ!? 三年の時に故障して三軍降格したオメーのリハビリを手伝ったのは、誰だと思っているんだ!」
「はいはい、あの時はありがとうよ」
高橋が大げさに頷くと、沖はふんぞり返ってメニューを眺め始めた。
『そろそろ福岡の飯が恋しいだろう』
それが今日のお誘いの理由らしいが、おそらく沖は、自分が精神的に追い込まれている事を薄々察している。不用意には踏み込んでこないが、とりあえず激励しようと、この席を設けてくれたのだろう。
人情家。沖を一言で表現するなら、その言葉がしっくりくる。
思い返せば、初めて口をきいた大学三年の頃から彼はそうだった。
「リハビリしていた時は、腰以外にも不安要素があったなあ。
監督は三軍落ちした選手を気に掛けないし、取り巻きも姿を消してさ。
話し相手がいなくて、いきなり独りぼっちになったような気がしたよ」
「無理もない。部員数は百人以上で、練習場が違う選手とは話す機会がないから、
それまでの間、俺らみたいな万年三軍選手とは話す機会もなかったしな」
「そんな言い方するなよ。別に見下してたわけじゃない」
「分かってる、分かってる!」
「……でも、三軍で浮いていたのは事実だったな。
沖も、そんな俺によく声を掛けて、リハビリを手伝う気になったもんだ」
「よくって……困ってそうな奴がいたら、声を掛けるもんだろうがよ」
そうするのが当然、と言わんばかりの口調で沖は言う。
こんな奴だから、自分がプロ入りを決めた時、泣いて喜んでくれたのだろう。
一方、自分も暇を見ては、沖の練習に付き合うようになったわけだ。
「……そういや高橋。お前、最近腰はどうなんだ?」
沖が、席付属のタブレットで注文を入力しながら尋ねる。
「最悪だよ。大学の時みたく、じっくりリハビリしたいな」
「すればいいじゃねぇか」
「そうもいかないよ。四年分の年俸が確定しているFA選手だから、
試合に出ないと給料泥棒になる」
「でも故障は別だろう。選手生命にもかかわるぞ。しっかり休め」
「まあまあ。明日は頑張るから、テレビで応援してくれよ」
「心苦しくて見る気が起きんよ。
……一度、お前を批判するボードを掲げているファンが映ってな」
「そうか。そんなにボロクソな扱いなのか」
思わず、自分に対する失笑が漏れてしまう。
コンドルズファンとジャガーズファン、どちらの行為だろう。両方かもしれない。
「……ファンの反応、お前も気にしてるんだな。
辛いなら愚痴って構わんぞ。少しは楽になるだろ」
「気持ちはありがたいが、楽になるのも一日だけだ。
その都度お前に愚痴るわけにもいかんさ」
「あまり思いつめるなよ。大体、ファンなんて現金な奴らなんだよ。大学時代もそうだったろ? 追っかけの女の子達、三軍に落ちたお前には見向きもしなかったじゃないか」
「そうだったな。……谷崎ユキも消えたしな」
ふと、嫌な記憶が蘇る。
それでも、哀愁に浸りたいのだろうか……話を止める気はしなかった。
「三軍落ちした時に、彼女に捨てられたと言ってたな。その子の事か?」
「うん。ユキも元々は俺の追っかけでさ。
大学は違うけど、雰囲気がいい子だから付き合ったんだ」
「そんなにも美人だったのか」
「顔付きは地味というか、素朴だったかな……
ただ、透き通るような白い肌と、首の右側にあるほくろが印象的だった。
いつも静かに笑って、健気に応援してくれる良い子だったよ」
「でも、捨てられたわけだ」
「ああ。三軍落ちした後は、一切連絡に応じなくなってさ。
家に行っても引っ越してて、結局、自然消滅」
「それが今でも忘れられない……か」
「女々しいと思うか?」
「いや。むしろ女は過去を振り返らない。反対に男の哀しみは後からくるからな」
「哀しみとか、そんなんじゃないさ。
……ただ、同じ時間を過ごしたんだな、と思うだけだ」
ふん、と鼻で笑って天井を仰ぐ。
沖もそれ以上茶々を入れず、暫く無言の時が流れた。
高橋は、思う。
三年時の故障が無ければ、ユキとは結婚していたかもしれない。
少なくとも、高橋はそのつもりだった。彼女は初めて肌を合わせた相手だった。
そうして伴侶を得ていれば、彼女の為に奮起し、ファンのバッシングにも耐えられたのではないだろうか。
『誰かを守りたい』という気持ちは、自分の原動力なのだ。
だが、ユキは消えた。父も蒸発した。
高橋は、たった一人で重圧に耐え続けなくてはいけないのだ。
もしくは、あの少女が言うように、逃げ出すという選択肢もあるだろうか……。
「……話は変わるんだが、ここに来る前、変わった女の子と会ったよ」
特に深い考えはない。雑談のつもりで高橋は口を開いた。
「なんだ、三十過ぎのオッサンのくせして、逆ナンされたのか」
「馬鹿。小学生くらいの子だよ。その子、なぜか俺の考えを見抜けるんだ」
「何を考えていたか知らんが、偶然じゃないのか?」
「偶然じゃないよ、あれは。あと『悩みがあるなら、親がやっている旅行代理店に来い』みたいな事も言っててさ。なんだったのかなあ、あれ」
「旅行代理店……」
話を聞いた沖の目付きが、ギラリと輝いた気がした。
それから、注文の品が届くまでの間、沖は妙に無口になった。