其之一 -現実逃避の店-
沖縄に逃げたくて、たまらない。
慣れた手つきでスマートフォンを弄り、いつもの愚痴をSNSに投稿した波戸真澄は、けだるげに顔を上げた。目の前に広がっているのは、碧空でなければ、焼けるような熱さの砂浜でもない。ビル群と雑踏、ただそれだけだ。
大学一年の夏、先輩に誘われて遊びに行った沖縄が、全ての始まりだった。
先輩の手ほどきを受けてダイビングに初挑戦した波戸を待っていたのは、水中から砂地の水平線を拝める程に透明な海や、思わぬ魚と遭遇するサプライズだった。すべてが波戸を魅了してくれたが、何よりも、沖縄のゆるやかに進む時間が良かった。スローライフは波戸の波長には合っていたのだ。
だが、波戸が暮らしているのは沖縄じゃない。福岡だ。
「……結局、この街で生きていくしかないんだよな」
声にならない声を口の中で漏らし、ボサボサの髪を掻きむしる。
ふと、真新しいスーツを着たサラリーマンが、背筋をまっすぐに伸ばして信号を待っているのが目に入る。先日、新社会人になったばかりの若者だろう。
彼もいつかは、この都会の波に飲み込まれてしまうのだろうか……。
――福岡県福岡市中央区天神には、様々な人が行き交っている。
国内外から観光客が押しかけるし、商業施設が多いから地元の者もよく利用する。ビジネス街としての一面もあるからサラリーマンもよく見るし、欲望の町・中洲に行く為に天神を通る者も多い。
それらが、うねるような喧騒を作り出している街だ。
波戸は、この街で就職してから今日までの五年間、その喧騒をうっとうしく思っていた。私鉄終点の天神駅が込み合うのは当然だが、人の波は駅の外に出ても続いている。まるで満員電車の延長戦なのだ。
小さく溜息をついて、青信号に切り替わった歩道を渡る。
昨晩はあまり寝る時間がなかったから、午後に居眠りしないか心配だ。缶コーヒーでも買おうと左右を一瞥すると、横道の奥に自動販売機があったので、そちらへ進路を変える。
大型書店の入っているビルと、複合商業ビルに挟まれた横道で、これまで歩いた事はない。自動販売機で缶コーヒーを購入し、横道を引き返す最中……彼の足が止まった。
「なんだ、あれ?」
横道中央に、更に細い路地が伸びている。
ビルに囲まれている為に薄暗く、雑踏とも無縁の閑静な場所なのだが……その路地中に鳥居が立っていたのだ。
思わぬ発見に興味が湧いて近づくと、正しくは鳥居を模した扉だと分かった。
朱塗りの柱に埋め込まれるように木製扉が付いている。小窓がないので中は覗けないけれど、鳥居の上部に視線を移すと『遊山屋』と書かれたプラスチックの看板が掛かっていた。その先には小さな文字で『旅行センター』と続いている。つまりは、旅行代理店だろう。
ふぅん、と腕を組んで暫し考え込む。
仕事が忙しく旅行なんてできないが、気分だけでも沖縄に浸れるかもしれない。
それに、内装も面白ければ雑談のネタになりそうだ。寄り道する時間も、五分くらいならあるだろう。
冷やかしを決意して扉を開け……その直後、波戸は思わず目を見開いた。
一面の朱が、飛び込んできたのだ。
眼前にある木製カウンターは朱塗りで、その奥に並ぶ飾り棚も、漆が赤く輝いている。
棚には達磨やらお猪口やら扇子やら、和を印象付ける物が乱雑に並んでいて、円柱を輪切りにした江戸金魚鉢も置かれていた。そこから飛びだしたかの如く、店内に所狭しと吊り下げられた金魚提灯も目を引く。
「期待はしたけれど、凄いな、ここ……」
非現実空間にうろたえつつも、店内を見回し続ける。
まるで千代紙の中にいるような幻想的な気分だ。ここは、本当に旅行代理店なのだろうか。一風変わった喫茶店のようにも見える。もしくは、中洲からは少々離れているが、風俗かバーの類かもしれない。
「――いらっしゃいませ」
そこへ、突然の人の声が聞こえてくる。
どこか妖しげで、それでいて落ち着きのある声色だ。
聞こえた方を反射的に見ると、棚の傍に店奥への通路があったようで、そこから男が姿を現した。
「あ。えっと……店員さんかな? 旅行代理店と間違えたみたいで」
「いえ、当店は旅行代理店でございます」
男がカウンターの前で深々と頭を下げる。……いや、男というのは思い込みかもしれない。
男性用のスーツを着てはいるけれども、やや高い声に、端正な顔立ちと細い眉、そして脇辺りまで伸びている艶やかな黒髪を一本縛りにした外見からは、中性的な印象を受ける。
年齢は自分と大差ないだろう。二十七歳前後と見た。
「本当に旅行代理店? あれってオフィスみたいな造りをしているもんじゃないの」
「大手様はそうですが、個人でやっておりますので、内装も自由でして。
完全に私の趣味なのですよ。良いと思いませんか? 特に棚に並んだ扇子」
男は狐のように目を細めながらそう告げる。
「確かに神秘的ではあるけれど……。
それより、個人でやってるって事は、あんたが店長さんなんだ」
「はい。天津鞍馬と申します。お見知りおきを」
「鞍馬? 変な名前……。男だよな?」
「おや。時と場合によっては、問題視されそうな質問ですよ」
確かに無作法な質問である。波戸は首だけを前に突き出す形で、なお無作法に頭を下げた。
「悪い悪い。……それはそうと、旅行パンフレットとかないの?」
「もちろんございますよ。小さい店なので、並べていないだけです」
「んじゃあ、沖縄旅行プランとか見せてほしいな」
「かしこまりました。どうぞ、カウンター前の椅子にお掛け下さい」
言われるがままに腰掛けると、天津は棚から冊子を引っ張り出してカウンターで広げてくれた。ペラペラの冊子だった。
「こちらでございます」
「こちらって……これ、四ページくらいしかないじゃない」
「はい。これで全てでございます」
「ええ……? 沖縄だよ? 普通、二、三種類は冊子があるもんじゃないか」
「他店様はそうかもしれませんが」
「あ、そう……」
天津と冊子を交互に見ながらページをめくるうちに、波戸の表情には困惑の色が浮かんだ。ただでさえ薄い冊子だというのに、記載されている旅行先は北海道、東京、京都、大阪、沖縄と日本各地だ。
つまり、これは沖縄旅行の全プランじゃない。この店の全旅行プランなのだ。
「お気に召したプランはございましたでしょうか?」
相変わらずの狐目をした天津が、楽しげな口調で尋ねてきた。
個人経営だろうと、もうちょっとマシなプランを用意できるはずだ。どうやら、まともな商売をするつもりがないようだが、その意図が分からない。なんとも捉え処がない男だった。
「気に入るプランなんか、あるわけないじゃん……」
「申し訳ございません。これも個人経営故に」
「そうすか」
呆れたような声を漏らして立ち上がる。
面白い経験はできたけれども、もう、この辺りが切り上げ時だろう。
「おや、お帰りですか、お客様」
「ちょっと、探しているプランはなくてね」
「左様ですか。またのご来店をお待ちしております」
「あんた、さっきから本気で言ってるの?」
「さあ、どうでしょうか」
波戸は嘆息しながら振り返り、扉のノブに手を掛けようとしたが、それに先んじて外から扉が開かれた。
中に入ってきたのは、ランドセルを背負った十歳くらいの少女だった。
腰辺りまで髪を伸ばした、可愛らしい子である。
「お嬢ちゃん、来る所間違えたかい?」
「いいえ。ここ、私の家よ」
少女はそう告げ、足早に中へ入ると天津の横に立った。
天津がそれを咎めようとしない辺り、本当なのだろう。つくづく変わった店だ……。
「ねえ、天津さん」
少女が天津のスーツを引っ張りながら、澄んだ声で呼びかける。
「あのお客さん、仕事に疲れてしまって、沖縄に現実逃避したいらしいわ。案内してあげたらどうかしら」
「……っ!」
驚愕の声が喉元まで競り上がったが、辛うじて抑え込む。
この少女は、沖縄の話を聞いちゃいないはずだ。
盗み聞きしていたとしても、現実逃避したいとは口にしていない。
なんなのだ、店と人々は。
「じ……邪魔したな」
店に感じていた神秘性が、不気味さに変貌していくのをハッキリと感じながら、波戸は逃げるようにして外に出た。その足取りのままに路地を抜けると、ちらほらと通行人が視界に入る。最初の分岐路まで戻れば、もうそこは雑踏の一角だ。
何度か後ろを振り返りつつも、ようやく歩調を緩めて会社への道を歩く。
あれだけ嫌っていた人ゴミなのに、この時ばかりはどこか心が落ち着いた。