第五章その19
その日の夜、フィンシードとアリシアは執務室にいた。
アリシアが煎れた紅茶のカップを揺らしながら、フィンシードは立ち上る甘い香りを楽しんでいる。
「ようやく終わったなあ」
「ええ、そうですね」
大使館が占拠され、無血で事件を解決し、交渉の末にアボット達の無罪放免を勝ち取った。
そのアボットが大使館で働き始めた今日、この日がようやく事件が終わった日に思える。
「大使館が占拠された時からずっと考えている事があるんだ」
「何でしょう?」
「いつも一人か二人で買い物に行かせる三姉妹なのに、君はどうしてあの日に限って三人揃って買い物に行かせたのかって」
「……たまたまですよ」
アリシアはやんわりと答える。
「いつも一緒の三姉妹ですもの。たまには三人一緒も悪くないと思ったのです。あの日は買い物も多かったですし」
「……まあそういう事にしておくか」
反論を受けても、フィンシードの余裕の表情は崩れない。
「もうひとつ、考えている事がある。
アボット達は裏口を守る衛兵が交代するタイミングを狙い、大使館に侵入した。
あいつらは独力でそこまでできるほど器用じゃない。
誰か大使館の中にいる人間が内通していない限り、できるはずがない」
「……まさか私がアボットさんの手下で、あの人達を大使館に引き入れたとでも?」
アリシアは笑って答える。
「確かに私は外部の人間ですし、三姉妹をあらかじめ避難させたと考えるのも自然でしょう。
ですがそれだけで私を犯人と決め付けるのは強引ではないでしょうか?」
「あいつらが大使館に侵入した時、大使館のメンバーには会わなかったと言っていた。
みんなワイン蔵に逃げ込んでいたからだ。
どうしてそんな事になる?
賊が侵入してくれば安全なワイン蔵に逃げ込むのは自然だ。
だけど賊に会う前に、どこかに隠れようと思うはずはない。
あらかじめ賊が侵入してくる事を知っている誰かが、ワイン蔵に隠れるように言わない限り」
「……………」
「アボット達は自分の考えと判断に基づいて行動していたつもりだったが、本当は裏で糸を引く黒幕の手の平で踊らされていたんだ。
筋書きとしてはこうだ。
アストリア人を恨むならず者の集団が大使館に押し入り、占拠するが、ルーンバウム軍の強行突入によって大使館は取り戻され、人質も無事に解放される。
そのために人質はいない事が……全員ワイン蔵に隠れている事が必要だったんだ。
賊はその時の戦闘で殺されるか、捕まって厳しい罰を受ける事になる。
これによりルーンバウム政府は各国との平和友好を受け入れない者に対して厳しい態度で臨む事を内外に示し、暴動や外国人に対する襲撃事件の沈静化を図る……。
そういう事なんだろう」
「面白い作り話でいらっしゃいますね。殿下が大使をお辞めになっても、きっと劇作家か吟遊詩人で食べていけると思いますよ」
「でもね、あの時にシルヴィールが薬師の集まりに呼ばれていた事、僕が宰相サラティエル殿に呼ばれていた事は、裏で帝国側の人間が糸を引いていない限り、説明が付かないんだ」
それこそ「たまたま」で押し切れない事もないけど、とフィンシードは付け加える。
「それでも私が犯人という証拠にはならないのでは?
物的証拠がない以上、ワイン蔵に隠れた人達全員に同じく犯人の可能性があるのではないのでしょうか?
殿下が身内を疑いたくないお気持ちは察しますが……」
「確かに物的証拠は何もない。でも君以外にあり得ないんだ」
「まだ私だけが外部の人間だとか、三姉妹を揃って買い物に行かせたとか、そういう事をおっしゃるのですか?」
「違う。確かにワイン蔵の事はみんなが知っていた。
だけどワイン蔵の事をみんなが知っているという事実を知っているのは、みんなにワイン蔵の事を教えた、アリシア、君以外にいないんだ。
賊が侵入しても、誰も人質に取られない事を知っていたのは君一人だけなんだ」
「……………」
「アリシア、君は上手くやり過ぎたんだ。
こんなに上手くいくはずないのにやってしまったから、かえって不自然になって、余計な疑念を招いたんだ。
本当にバレないようにしようと思ったら、三姉妹の誰か一人くらい人質になって、強行突入の時に怪我のひとつでもさせるくらいの覚悟が必要だったんだ。
でも君はそうしなかった。
しなかったんじゃない、できなかったんだ。
前に君は僕の事を甘いと言っていたけど、君の方がよっぽど甘いんじゃないのか?」
「……………」
アリシアは黙って一度目を伏せ、また顔を上げる。
「完璧だと思っていたんですが……甘かったようですね」
美しいメイドの、にこやかな笑顔。
年下のメイド三姉妹に優しく、時に厳しく接する、賢明なメイド。
それが崩れていく。
消えていく……。
「それで私をどうなさるおつもりですか? 追い出しますか? 捕まえて拷問でもしますか? それとも……」
声が低くなる。
ナイフのような冷たさをはらんだ危険な声。
「それとも、殺しますか?」
もはやその顔からは笑顔は消えている。
低く腰を落とし、想定される事態に対応できるように備える。
「どうすると思う?」
一方、フィンシードは余裕を保ったままだ。
それでもアリシアの一挙一動を油断なく見守る。
「どうもしないさ」
「え?」
アリシアがきょとんとして目を見開く。
いつも落ち着いていて笑顔を絶やさないアリシアの見慣れない表情を引き出した事に、フィンシードは少なからず満足感を覚えた。
「どうもしない、そう言ったんだ。今まで通り、三姉妹と一緒にここで働いて欲しい」
「……どういうつもりですか?」
アリシアの顔に警戒の色が浮かぶ。
「スパイが目の前にいるのに、知らないふりをするのは面倒だと思ったんだよ」
「……………」
「君だってスパイである事を隠しながら暮らすのは息苦しいんじゃないかな?」
「……茶化さないで下さい」
「そうだな。本当の事を言おうか」
「……………」
「仲良くしたいからさ」
フィンシードは簡潔に言い切る。
「今回の事件では怪我人もいなかったし、実害はなかった。
アボットはここで働いてくれる事になったし、見舞金でコレットとソフィアが店を出す金も貸す事ができた。
むしろ君のおかげと言ってもいい。
感謝したいくらいだ。
君の本当の雇い主に僕達と敵対するつもりがないなら、こっちとしても敵対する理由はないんだ」
「……………」
「仲良くするっていうのは、そういう事なんだ。
裏切られるかも知れない。
傷付く事になるかも知れない。
確かな事は誰にもわからない。
それでも手をつながなくちゃいけないんだ。
一人になるのが嫌なら、心配だろうと不安だろうと、ね」
「本当に……殿下は甘い方でいらっしゃいますね」
アリシアはため息をついて、身体の緊張を解く。
「殿下に言わせれば私も甘いようですから、甘い者同士でちょうどいいのかも知れませんね。
わかりました。それではこれからもこちらで働かせていただきます」
アリシアの顔にいつものにこやかな笑顔が戻る。
優しくて厳しい、賢明なメイドが当たり前のような顔でそこに立っていた。
「ああ、こちらからもよろしく頼むよ」
フィンシードもそう言って、同じように笑う。
二人は握手をする事もなく、笑顔で視線を交わし合った。
フィンシードがアリシアに言わなかった事がある。
どうせアリシアをどうこうしたところで、本当の雇い主は代わりの誰かを送り込んでくるだけだ。
大使館に近付いてくる者全てを警戒するよりは、アリシア一人だけに目を光らせている方がよっぽど負担が少ない。
それにもし今後、大使館から極秘情報が漏れるような事があれば、真っ先に疑われるのはスパイである事が知られているアリシアだ。
それがわかっていれば、アリシアは慎重にならざるを得ない。
何も処罰しない。
一見、甘く思える対応は、逆に相手の選択肢を狭める合理的な手段なのだ。
アリシアはその事をわかっているのだろうか?
きっとわかっている。
聡明で美しいメイドに、それくらいの事がわからないはずがない。
この打算に満ち、危ういバランスの上に辛うじて成り立つ、いびつに歪んだ関係を何と呼ぶのだろう?
例えその美しい響きから遠くかけ離れていたとしても、その呼び名は「信頼」の他にはあり得ないのだ。
実際の二人の距離は手を伸ばせば届くほどだが、その間には山よりも高い壁があった。
だから二人は握手をする事もなく、不確かな笑顔を浮かべたまま、ただ互いを見つめ合っていた。




