第三章その9
大使館の全ての金銭の流れを管理する経理部を訪ねたフィンシードを迎え入れたのは、使っていない数人分のデスクと、一人デスクに向かって書類の山と格闘している女性の姿だった。
「あら殿下、いらっしゃい」
にこやかに笑ってフィンシードを迎え入れるマリアベル。
「忙しいところすまないね。ちょっと相談したい事があって」
「お気になさらないで下さい。ちょうど一息入れようと思っていたところですから。ええと……」
そこでマリアベルはちょっと困った顔になる。
椅子はたくさん空いているが、どこに座ってもマリアベルの方が上座になる。
王子であるフィンシードと臣下であるマリアベルと、順序を違えるのは許されない事だ。
「いいよ、どこでも」
気楽な口調でそう言って、フィンシードはさっさと適当な席を選んで座ってしまう。
「そうですか……じゃあお茶を煎れますね」
マリアベルはにこやかに笑って部屋を出て行くと、食堂でお湯をもらって戻ってきた。
部屋の隅のティーセットでお茶を煎れる。
「どうぞ。お口に合うといいですけど」
そしてフィンシードの前にティーカップを置くと、自分は隣の席に腰を下ろす。
……お茶を煎れる事よりも、さりげなく席を替えたかったのかな?
慣れないハーブティーからは優しい香りが漂っていた。
「それで殿下、今日はどんなご用ですか?」
「ああ、そうだった。実は……」
そしてつい先程の、賑やかな姉妹の来客の事を話し始める。
話をしながら、フィンシードは熱心に耳を傾ける目の前の女性の一風変わった経歴に思いを巡らせていた。
マリアベルの実家は、小規模の農場を経営する下級貴族の家系だった。
しかし先の戦争で戦費がかさみ、経営が行き詰まると、多額の借金を抱えるようになった。
山積みの帳簿の前で頭を抱える父を見かね、手助けしたのがマリアベルだった。
最初は帳簿の整理を手伝う程度だったが、やがて経理のほとんどを一人で見るようになり、農場経営の効率化を推し進め、ついには黒字化を達成した。
農場経営は安定したが、借金はまだまだ残っている。
借金返済のため、また経理に関心を持ったマリアベルは、実家の両親の元を離れ、自らの才覚を頼りに生きていく事を決めた。
役人の採用試験を受け、並み居る男性の受験生を押しのけてトップの成績で合格すると、数少ない女性官吏としての道を歩き始めた。
そんな時、折良くルーンバウム帝国にアストリア大使館が設立される事になり、経理を担当する人材の募集が始まると、マリアベルは真っ先に名乗りを上げ、採用が決まった。
実際のところ、試験の成績も良ければ実家の農場を立て直した実績もある有能な官吏は、ただ女性というだけで周囲では扱いかねていたので、この話は渡りに船であった。
そして大使館で働く事が決まったマリアベルだったが、彼女には幼なじみで、しかも経営に行き詰まった実家に資金を貸してくれた、子供の頃からの婚約者がいる。
何を隠そう、同じ大使館の警備部のデュラムなのだが。
わざわざ故郷から離れたアストリア大使館を新たな職場として選んだ理由は、もちろん婚約者のそばにいるためではない。
以前、フィンシードがその理由を尋ねた時、彼女はにこやかに笑ってこう答えた。
「お給金がいいですから」
アストリアから遠く離れた大使館で働く者の給料は、その分、国内で働くより高めに設定されている。
しかも大使館で寝泊まりすれば家賃もかからないし、もれなく三食も付いてくるから食費もかからない。
その分、借金を抱えた実家に多くの仕送りができる。
優しく家庭的で、良妻賢母を絵に描いたようなこの女性が婚約者と一緒になる事もなく、故郷から離れたアストリア大使館で働いているのには、そんな事情があった。
説明を聞き終えて、マリアベルは表情を曇らせる。
「この大使館はできたばかりで、この先、どのような出費があるかわかりません。軽々しくお金を使うべきではないと思います」
「やっぱりそうだよなあ……」
「貯金する事は、お金を使わない事ではありません。いずれ本当にお金が必要になった時に使えるように備える事です」
と、人差し指を立てて有能な女性官吏らしい事を言ってみせる。
「それに彼女らのような人に資金を貸し付ける制度がない以上、本国にお金を都合してもらうわけにもいきませんし、彼女らだけに貸し付けて他の人達に貸し付けないのなら、公平性という点でも疑問です」
「う~ん……」
フィンシードも腕を組んで考え込む。
「……それで殿下はどうなんですか?」
「僕?」
「殿下自身はどうお考えですか? お金を出してあげたいんですか? あげたくないんですか?」
「……………」
「小さな料理屋を出すくらいのお金、国を出てきたばかりの女の子二人には大変な額ですが、大使館の予算からならどうとでもなる額です。それにいくら小国の王子といっても、殿下のポケットマネーからなら軽く出せるはずです」
「……………」
はあっとため息をつくフィンシード。
「もちろん出してあげたいとは思っているさ」
「私もです。アリシアさんの料理に不満はありませんが、それでもたまには故郷の味が恋しくなります」
そう言うマリアベルは、たまに厨房に立っては故郷の料理を作ってはみんなを喜ばせている。
もっとも、普段の仕事が忙しいので、いつもいつもというわけにはいかないのだが。
「でも、そう簡単にお金を貸して、それが当人のためになるのかなと思って」
「お店を出して、経営が上手くいくとは限らないという事ですか?」
借金して店を出しても、利益を上げられなければ、貸した金が返ってこなくなるし、借りた側も膨らんだ借金を抱えて路頭に迷う事になる。
そんな事になれば、お互いにとって良い事であるはずがない。
「いや、それについてはそれほど心配していないんだ。猪突猛進の姉だけならともかく、しっかり者の妹がいるから」
まあ、料理の味を見てみない事には何とも言えないけど、と付け加える。
「では何が気になるんですか?」
「アストリアの人達が集まって故郷の料理を囲む店、と姉は言っていた。そういうお店が欲しいと思うアストリアの人は少なくないだろう。でもそれがこのルーンバウムに生きる僕達が本当に必要としている物なのかな? って」
「……まだ迷っていらっしゃるのですか?」
「ああ」
「では、お心が決まりましたら、その時はまた声をかけて下さい。力になりますから」
「その時は頼むよ」
「はい、お任せ下さい」
にっこりと笑うマリアベル。
と思ったら、あっという間に優しい眉を吊り上げる。
「そ・れ・よ・り・もっ」
ずいっと身を乗り出し、フィンシードに顔を近付ける。
「いつになったら経理部に人が増えるのですか?」
「……………」
アストリア大使館では、できるだけ多くの人材を現地で雇う方針を執っている。
政務部、領事部、警務部は専門的な職務だからアストリア人だけで構成されているが、アリシアら四人のメイドが現地採用なのはそのためである。
経理部も本来ならトップのマリアベルだけがアストリア人で、あとは現地採用になる……はずだった。
「……募集はしているんだよ」
苦い表情で答えるフィンシード。
アリシアら四人はルーンバウム政府からの紹介だから、すんなりと決まった。
しかし自分達で募集をかけた経理部のスタッフは、経理のできる人間は決して多くないし、どこに行っても引っ張りだこである。
それなのにわざわざかつての敵国の出先機関を職場に選びたがる人間はなかなかいない。
結局は机が並んだ経理部の部屋を、マリアベルが一人寂しく占領しているのが現状なのだ。
それでも数人分の仕事をマリアベルが一人で難なくこなしてくれるから、この大使館はやっていけてるのである。
はあっとひとつため息をついて、マリアベルは顔を離す。
「まあいいですけど。殿下が努力して下さっているのはわかっているつもりです」
「すまないね。できるだけ早く何とかするから」
「あてにしてますよ、殿下」
にこやかに笑うマリアベルに見送られて、フィンシードは逃げるように経理部を後にした。




