扱い酷すぎるわっ!
◇
「海水浴?」
その日の午後。俺は魔緒に、海水浴の話をしていた。優香たちと一緒に海水浴に行こうとしていたこと、それを母さんに反対されたこと、信頼できる大人が引率しなければならないこと。一通り話を聞いた魔緒は、小さく唸りながら、こう答える。
「夏休みは、俺も仕事や子供の世話があるからな……まあ、一日くらいは無理できるかもしれないが」
「そうか……」
魔緒の答えは、やや否定的だった。やっぱ、相手は一応社会人。学生は夏休みでも、大人は常に忙しいのだ。子持ちであれば、余計に。
「因みに、どこに行くつもりなんだ?」
「光子は、長波海岸って言ってた」
「……なるほど」
参考までに、といった感じで尋ねる魔緒に、俺はそう返した。場所が場所だけに、さすがに断られるかな……? 移動だけでもかなり時間が掛かるし。
「日程をこちらに任せてくれるのであれば、構わないぞ」
「ほ、本当か?」
しかし予想に反して、魔緒は快く引き受けてくれた。どうしたのだろうか? 急に態度が変わってないか?
「ああ。丁度俺も、家族で行こうと思っていたんだ」
俺の疑問に、魔緒はそう教えてくれた。つまり、家族サービスのついでだから、というわけか。
「ただし、こっちは泊り掛けのつもりだからな。一応お前らの分も取るから、用意はちゃんとしておけよ」
「泊まり、か……」
優香とお泊り。なんと魅力的なんだろうか。家族でも、お泊り旅行は滅多に行かなかったし。
「―――ただし」
すると突然、魔緒の声色が変化した。それはまるで、背筋を凍りつかせるような、冷酷で無感情な―――そう、殺気に満ち溢れた声。
「一つ、俺の娘に触れるな。触れたら指を切り落とす。二つ、俺の娘に話し掛けるな。喋ったら喉を潰す。三つ、俺の娘の声を聞くな。聞いたら耳を潰す。四つ、俺の娘を見るな。見たら目を潰す。五つ、俺の娘と同じ空気を吸うな。吸ったら窒息させる」
こ、怖い……! 魔緒が、過保護な父親と化している……!
「まあ、それは冗談だとしても、ほんとに変なことするなよ。小学生なんだから、場合によっては牢屋行きだぞ」
「しないってのっ!」
どんだけ心配してるんだよ? 俺が小学生にちょっかい出すわけないだろ。
「まあ、お前は病的なシスコンだから大丈夫だとは思うが……あ、触れたら指刎ねるってのは本気だからな」
「……分かった。肝に銘じておく」
俺だって、そんな理由で指を失いたくない。小学生に触れたからその父親に指を奪われるなんて、末代までの恥だ。
「ま、とりあえず訓練を始めるぞ」
それからは、いつもの訓練だった。
◇
……その日の夜。俺は母さんに、魔緒のことを話していた。無論、魔術師云々は伏せて、信頼できる大人だってことと、家族旅行のついでに保護者役をしてくれることを伝える。
「ふーん……じゃあいいわよ、行っても」
「え? いいのか?」
すると、意外にあっさりと許可が出た。信用できないから駄目だ、って言いそうなのに。
「だって、あんたが信頼してるんでしょ? あんたが優香を、危ない奴に近づけさせる訳ないし」
……この人、俺のことも少しは信用してるんだな。普段はゴミ扱いだから、優香以外はどうでもいいのかと思ってしまうが。
「あんたみたいな最底辺の屑でも、優香を守るための犠牲くらいにはなれるでしょ? もしも優香が危ない目に遭ったら、盾になって死になさい。そうすれば、遺灰を燃えるゴミに出してあげるから」
「扱い酷すぎるわっ!」
何その仕打ち。妹を命懸けで守っても、その後焼却処分かよ? いや、優香のために命懸けるのは構わないけど。
「何よ? 夫に「私が危ないときは、命懸けで守ってね。遺灰は生ゴミに混ぜて捨てておくから」って言ったら、「喜んで!」って返ってきたわよ?」
……父さん、あんたはこんな女のどこがいいんだ? あんたの人生、一番の間違いは、こいつと結婚したことだぞ? いやまあ、そうしないと俺も優香も生まれていないんだけど。
「大体ね、男は女のために死ぬのが本望なんだから、それ以上の何かを望むこと自体がおかしいのよ。大人しく焼却処分されて、大地に還りなさい」
もういい……この人が母親だったのが運の尽きだ。母さんの腹から生まれてきた時から、こうなることは決まっていたんだ。そう思って、俺は諦めることにした。
「分かった? 優香のことはあんたが守るのよ?」
「分かった。言われるまでもないけどな」
優香は俺の命といっても過言ではない。魔術師になったのも、優香を守るためだし。
◇
……夏休みに入る少し前。俺は学校の物理実験準備室まで来ていた。理由は勿論、絵美那に会うためだ。最近は彼女との付き合いもすっかり減って、学校の外で会う機会も殆どない。学校ですら、「取引」以外では滅多に顔を合わせない。でも、折角海水浴に行くのだから、絵美那も誘ってみようと思うのだ。あいつ、海とか好きだし、きっと喜ぶだろう。
「おーい、絵美那」
「あ、琢矢君。いらっしゃい」
制服姿の絵美那が、俺を準備室に招き入れる。今日は着替えていないのか。あんなことはあまり起こらないほうがいいので、別に構わないのだが。
「今日はどうしたの? また壊された?」
「いいや、今日は「取引」じゃない」
「?」
相変わらず不細工メイクの絵美那が、俺の言葉に首を傾げている。そんな彼女に、俺はこう切り出した。
「実はさ、優香たちと海水浴に行くことになったんだが……お前も、良ければ来るか?」
「え……?」
俺の誘いを聞いて、絵美那は硬直している。無理もない。最近になって、絵美那を何かに誘うなんてことは全然なかったんだから。
「ほら、お前って海とか好きだし。いいだろ?」
それに、プライベイトでなら、化粧をしなくても済む。要するに、学校とは違って、思いっきり泳げるんだ。楽しいに決まってる。
「……ありがと、琢矢君」
すると絵美那は、はにかむように俺を見上げた。……微笑ましい場面なのに、不細工面がどうしても一々気になる。
「でも、いいや。今年の夏休みは叔母さんのところで過ごすって決めてるし」
「そっか……」
けれども、絵美那は残念そうに、俺の申し出を断った。
「ごめんね、折角誘ってくれたのに」
「いや、こっちこそ悪い。予定があったのに誘ってしまって」
謝る絵美那に、俺はそう言葉を返した。けど、久しぶりに優香と会わせられると思っていたので、その意味ではがっかりだ。とはいえ、予定があるのなら仕方がない。
「気にしないで。それに、琢矢君は優香ちゃんのナイトをやってればいいの。私がいたら、琢矢君の負担が増えちゃうよ」
そうだった。絵美那がスッピンだったら、彼女のことも気に掛けねばならなくなる。それが原因で優香が危険な目に遭ったら……考えただけでも恐ろしい。勿論、その逆もだ。
「……悪い。軽率だったな」
「ううん。そういう、琢矢君の優しいところ、私は好きだよ」
謝る俺に、絵美那は微笑みながらそう言った。……素顔でそういうことを言われれば少しはドキリとしただろうが、今の状態では何も感じないな。
「ほんと、いつも琢矢君は優しくて……だから、こんな駄目シスコンになっちゃったんだよね」
「駄目シスコンって……」
「あ、ごめん。変態シスコン屑野朗の間違いだったね」
「その謝罪は要らん!」
シスコンなのは否定しないが、駄目とか変態とかは心外だ。俺はただ、優香のことを愛しているだけなのに。兄として。
「……でも、そんな変態駄目駄目シスコン糞野朗の琢矢君が、優香ちゃん第一で行動する琢矢君が、私を誘ってくれたのは、本当に嬉しかったよ」
「……そうか」
なんか、不名誉度合いが急激に増した気もするが、どうでもよくなった。一緒に海水浴は無理でも、絵美那が喜んでくれたのだから。
「……それで? 海水浴の件だけ? 何なら、予備の発信機とか買ってく?」
「いや、止めとく。前ので、もう殆ど金がないんだ」
いい雰囲気を壊すように、絵美那は「取引」を持ちかけてきた。けれど生憎、俺の財布はスッカラカン。この前買った盗聴器のせいで、あまり金銭的な余裕がないのだ。因みに、あの盗聴器は自分の部屋に仕掛けた。自室なら誰にも文句は言われないし、また優香が俺の部屋で何かをしてたら、その様子が分かるはずだからだ。
「そう? だったら、さっさと出てって欲しいな。用事もなくて、「取引」もしないなら、はっきり言って邪魔だもん」
「……分かった。もう帰るよ」
そこまで邪魔者扱いされたら、出て行く他ないだろう。そもそも、ずっと居座るつもりなどないし。
「じゃあ、今度は夏休み明けだな」
「うん。じゃあね」
というわけで、俺は物理実験準備室を後にした。