……ここまでくれば平気なはず
◆◆◆
……そう、あれは三年前だった。当時の私はまだ小学生で、兄貴のことを「お兄ちゃん」と呼び慕っていた。いっつも「お兄ちゃん」の背中を追いかけていて、「お兄ちゃん」には凄く疎まれていた。―――あの日も、私を避けて早々に外出した「お兄ちゃん」を、探し求めて歩き回っていたのだった。
「お兄ちゃーん。どこー?」
その日、家に鞄を置くなり、すぐ家を出て行ってしまった「お兄ちゃん」。お兄ちゃんっ子だった私は、そんな薄情な「お兄ちゃん」を求めて、近所をウロウロしていたのだった。
「君、浜荻優香ちゃんかい?」
そんなとき、見知らぬオジサンが声を掛けてきた。オジサンといっても三十代くらいで、身なりもきっちりとした、そこそこイケメンな男性だった。そんなオジサンが、私に向かってこう言ったのだ。
「君のお兄さん、うちにいるんだけど、来るかい?」
「行くー!」
今考えると怪しいことこの上ないのだけど、当時の私は純真だった上に、「お兄ちゃん」にどうしても会いたくて、更にはオジサンもそこそこ好感が持てるタイプだったので、無警戒についていってしまったのだ。
◇
「ふぅ……全く、手こずらせやがって」
「んーっ! んーっ!」
結局、私はそのオジサンに捕まった。オジサンの家に入ったところで押さえつけられ、縄で縛られて、猿轡をされてしまった。最初こそ暴れまくったが、こうなると小学生の私には抵抗すら出来ない。精々、ジタバタしたり、呻くくらいだ。
「へへっ、ちょろいもんだな。兄貴がいるって言ったらノコノコとついてきやがって……」
そう言って、オジサンは私の顎を指で持ち上げてきた。その動作に、私は身の危険を感じた。「兄ちゃん」っ……! 助けてっ……! そう、心の中で何度も願った。―――けど、こんなところに「お兄ちゃん」が来るはずもなく。
「お邪魔するのにゃ」
―――けれども、救世主はやって来てくれた。聞こえてきたのは、とても間延びした声。緊張感の欠片もなく、「あの人」は現れた。
「……!? だ、誰だ……!?」
「小さな子を監禁するような最低男に、名乗れる名前はないのにゃ」
その姿は、まるで白猫のようだった。「お兄ちゃん」よりも背が高く、灰色のワンピースを着た女の子。真っ赤な瞳は、お母さんの指輪に嵌るルビーみたいで、雪のように真っ白な髪には、三角の突起物―――猫耳がついていた。まるで、猫神様が人の姿で現れたかのようだった。
「というわけで、観念するのにゃ」
◇
「大丈夫かにゃ?」
「う、うん……」
数分後、私は白猫みたいな女の子に縄を解いてもらっていた。因みにあのオジサンは、この人にフルボッコにされていた。顔の造形が変わるくらいに殴られて、その上、手足を縄で縛られている。
「警察を呼んだから、お巡りさんが来るまで大人しくしているのにゃ」
そう言い残して、白猫の女の子はどこかへと去っていった。―――それが、私と「あの人」の出会いだったのだ。
◇◇◇
「琢矢君、ここは任せるのにゃ」
「あの人」がこちらを振り向いて、無邪気な笑顔を晒してくる。あどけないその表情にも、「あの人」との共通点である、ルビーのような瞳がしっかりと見て取れた。……これで確信できた。「あの人」が、また、私の前に現れたんだと。
「……助かる」
対して兄貴は、私が前に話した「あの人」だと気づいたからなのか、素直にそう頷いて、踵を返した。
「優香、こっちだ」
そして、また私の手を取って、「あの人」から離れようとする。
「……」
その途中、少しだけ後ろを振り返ってみると、「あの人」は私たちを笑顔で見送っていた。
「―――まさか、退魔師まで動いているとは思わなかったのにゃ」
優香たちが立ち去った後、彼女に「あの人」と呼ばれていた少女―――魔似耶は、ローブの人影と対峙していた。
「対象の逃走、新たな脅威の存在を確認。新たな脅威の排除を優先事項とする」
対するローブの人影は、魔似耶を敵として認識した模様。手にした銃を彼女に向けて戦意を示し、そのままトリガーを引いた。
「一盃口」
「反射ッ!」
人影と魔似耶が叫んだのは、ほぼ同時だった。人影の銃からは弾丸が放たれるが、魔似耶の前方に展開された紫の幾何学模様―――魔法陣がそれを阻み、弾く。彼女が発動した魔術―――反射は、防御目的に使われる魔術の中でも、特に高性能な系統だ。並みの銃撃なら、簡単に弾いてしまう。
「麻雀の役を技の名前にするなんて……魔緒が喜びそうなのにゃ」
なるほど、自摸、立直、一盃口はどれも麻雀の役だ。それを技(というか銃撃)の名前にしているらしい。それぞれ、どう違う技なのかは分からないが。
「さてと、さっさと捕まえて、魔緒に引き渡すのにゃ」
◇
「……ここまでくれば平気なはず」
俺は優香を連れて、自宅まで戻ってきていた。途中に邪魔が入ったけれど、ほのかさんと見知らぬ誰か―――優香の言う「あの人」かもしれない―――が逃がしてくれて、無事にここまで来れた。
「兄貴……」
すると優香は、繋いだ俺の手を、強く強く握ってきた。……突然あんなことになって、不安なのかもしれない。
「もう、大丈夫だぞ」
そう言って、俺はその手を握り返す。優香がこくりと頷いてから、俺たちは一緒に家へ入っていった。
「ただいまー」
家の中には人の気配がなかった。……いやまあ、母さんは大抵、この時間は寝ているから、いつも通りではあるんだが。
「ほら、優香」
俺はそのまま優香の手を引いて、彼女を部屋まで連れて行く。もう、今日は休んだほうがいいだろうからな。……そういえば、優香の部屋に入るのも久しぶりだな。恥ずかしいのか、最近は近づくだけで怒られるし。
「夕飯まで、休んでろ」
あんまり長居すると機嫌を損ねそうなので、俺は優香の手を離し、そう言い残して、部屋を出ようとする。
「……待って」
けれども、予想に反して、優香は俺を呼び止めた。離した手を掴み直して、擦り寄ってくる。
「もう少し……もう少しだけ、一緒にいて」
「優香……」
いつもはツンケンしているのに、今の優香はとても素直で、しおらしい。―――「あの人」と思わず再会したことで、トラウマが蘇ってしまったのかもしれない。誘拐されたという、消し去り難い記憶が、呼び起こされたのだろうか。
「分かった」
俺が傍にいる。それで優香の不安が、少しでも和らぐのなら、いくらでも一緒にいてやる。というわけで、俺は暫く優香の部屋にいることとなった。