男子トイレには入らないで欲しい。
……さて、琢矢は。
「優香が攫われたのは、俺のせいなんだよ。……優香は俺のことを探してて、そこで攫われたんだ。俺に会わせてやるって言われて、知らない男について行ったんだからな」
俺は魔緒たちに、誘拐事件のことを話していた。このことを話さないと、知恵を貸してもらおうにも、助力を頼むにしても、何も出来ないだろうし。
「でも、それは私たち霧絵が―――」
「裏ではそうだったかもしれないけど、優香の中ではそうだったんだよ」
まるで俺を庇うように光子が言ってくるが、俺はそれを否定した。今重要なのは、優香にとっての真実。霧絵が誘拐犯を雇っていたって話は、関係ない。
「だから、俺がいなかったら、あの事件は起こらなかったんだ。少なくとも、優香の中では、そうなってる」
「だから、魔似耶を見て、脳がエラーを吐き出したんだろうな。あいつがお前の妹と会ったのは、お前が関係した状況だけだ」
そう。魔似耶が優香と会ったのは二回だけ。一回目は誘拐事件のときで、二回目は綾川さんの事件。二回目のときは、あのとき襲ってきた霧絵の退魔師から、魔似耶が俺たちを助けてくれた。あのときは俺が一緒だったから、俺関連の記憶となっているんだろう。そして、俺に関する記憶が消えているなら、魔似耶のことも忘れているはず。だが、魔似耶は俺じゃないから、忘れたことにしようとして上手くいかなかったんだろう。……俺に関する記憶だけ消すという条件を満たせないから。
「琢矢君のことを忘れたいのに、それだと知らないはずの人と会ってしまった。そして、琢矢君以外の人は忘れたくないし、私みたいに辻褄合わせが出来るほどの接点もない。だから、どうやって処理すればいいのか分からなくなって、頭がフリーズしたんだ……」
今まで話を総括して、絵美那がそう呟いた。会ったのが二回では、絵美那みたいに、別の関係を見出すのも難しい。出来たとしても、それには俺に関する記憶を引っ張り出さないといけない。それをしないと、大切な命の恩人のことを忘れてしまう。だから、答えが出ない問いに、強制終了を余儀なくされたんだ。
「結論、お前は妹に心底嫌われている。それも、記憶喪失になるくらい。……諦めたほうがいいと思うぞ、俺は」
魔緒の言葉に、俺は心が悲鳴を上げるのを、止められなかった。
◇
……その日の夜、光子は。
「二人とも、どうしたの?」
自宅である邸宅にて。光子は二人の客人―――アンネとヴィクターに、そんな言葉を掛けた。……この二人、魔緒と和解するという建前の元に帰国を拒んで、光子の家に滞在していた。しかし、魔緒との和解が予想以上にスムーズに終わり、そろそろ帰り支度をすると言っていたのだが。何やら、帰り支度以外のことをしているようで、どうも慌しいのだ。
「あら、ヒカルコ。実は、「西欧魔術師協会」のほうから新たな任務を命じられまして……」
「時間外労働なのでございます~」
彼女たちは日本に留まる際、職場には休暇を申請していた。それなら、時間外労働というのは適切だろう。
「それは大変ね……」
日本人は多忙だとよく言われるが、それは外国人も同じなのかと、光子は思った。まあ、彼女たちは特殊な職業だから、話は別だろうが。
「そういうわけで、明日からは戻る時間が不規則になりますわ。お食事の用意は結構です」
「日本のレストランを巡ってくるのでございます~」
「了解。頑張ってね」
二人の客人にエールを送り、光子は自分の部屋に戻った。
◇
……翌日。
「全く……折角マオとも和解して、残りの休暇で日本を満喫しようと思っていましたのに」
「休暇返上なのでございます~」
アンネとヴィクター。二人の魔術師は、突然の時間外労働を愚痴りながら、街中を歩いていた。……ただし、ヴィクターは漫画を読みながら、だが。
「……ヴィクター。休日返上と言いつつ、漫画を読みながら歩くのはどうなんですの?」
「あら~。歩きながらの読書は日本文化でございます~」
それは文化ではなくマナー違反であり、アンネもそれを分かっていたのだが、指摘するつもりはなかった。……ヴィクターとは長い付き合いなので、そんなことを言っても聞き入れないことも、またこのまま読書を続けても誰かにぶつかったりしないことも分かっていた。
「……正直、マオに協力を仰ぎたいところですが、それは虫が良すぎですわね」
だから、呟くのは別のこと。彼女たちの仕事をこなすのに、魔緒に協力してもらいたい。けれど、先日魔緒の気持ちを害したばかりなのだ。いくら和解したとはいえ、すぐまた手伝ってもらうのは身勝手すぎる。そう、ぼやいているのだ。
「時代はヤンデレ幼馴染なのでございますね~」
「……ヴィクター。あなたは一体、どんな本を読んでますの?」
しかし、耳に入ってきた言葉に、アンネはうんざりしながらそう突っ込むのだった。
「「幼馴染と妹が病気みたいなんだけど文句ある?」なのでございます~」
「それは、また、なんというか……もう、どうでもよくなりましたわ」
何ともコメントしづらいタイトルに、アンネはヴィクターとの会話を放棄することにした。
……その頃、琢矢は。
「ふぅ……」
休み時間、学校のトイレにて。俺は個室に篭り、盛大に溜息を吐いていた。理由は当然、優香のこと。彼女の記憶を取り戻そうとしたが故に、今度は彼女の機嫌を損ねる結果となったのだから、絶賛落ち込んでいる最中なわけだ。
「あ、やっぱり凹んでる?」
「……うわっ! な、何やってんだよ!?」
しかし、突如頭上から聞こえてきた声に、俺は顔を上げた。するとそこには、何故か絵美那の頭が。……状況を確認しよう。まず、ここは男子トイレだ。俺はその個室にいる。つまり、絵美那は男子トイレに入り、個室トイレの壁をよじ登って顔を覗かせていることになる。
「こ、ここ、男子トイレだぞ……?」
「だから?」
それを俺が指摘するも、絵美那は平然とそう問い返してきた。だから、って……。
「他の男子に見つかったらどうするんだよ? 大体、そんなところに乗っかってたら、スカートの中が見えるだろ」
「大丈夫。他に誰もいないし。スカートの下はスパッツだから、見られても平気だし」
詳しく説明してやっても、彼女はしれっとそう言うだけだった。……まあ、絵美那は化粧のせいで不細工キャラが定着してるから、特に問題はないのだろうけど。それでも、男子トイレに女の子がいるのはどうなんだ?
「それより、琢矢君だよ。……やっぱり、優香ちゃんのこと?」
「……ああ」
俺の心配を「それより」で片付け、絵美那は俺の悩みを言い当てた。……さすがだな。俺が分かりやすい、っていうのもあるんだろうが。
「俺、そんなに優香から嫌われてたんかな、ってさ。そう思うと、どうしても落ち込んでしまうんだよ」
「そうかな? 優香ちゃん、琢矢君のことが大好きだったと思うよ?」
「そうか?」
「うん。正直ちょっと気持ち悪いくらいに」
絵美那の意見は、俺を励ますため、というよりは本心に近かったと思う。でなければ、彼女が優香のことを「気持ち悪い」などと言うはずがなかった。
「優香ちゃんが記憶喪失になった原因は、多分、取るに足らないことだと思う。切欠はきっと、些細な行き違いだよ。少なくとも、琢矢君が気にすることじゃない。だから、ね? そんなに落ち込まないで」
「……ああ。分かった」
落ち込むなと言われて、はいそうですかとはならないが、それでも気は楽になった。
「じゃ、私は戻るから。授業に遅れないようにね」
それで用事は済んだのか、絵美那は顔を引っ込めて、そのままトイレから出たようだ。
「……ありがとな、絵美那」
俺は、彼女に対する礼を、彼女が去ってから呟くのだった。……でも、くどいようだが、男子トイレには入らないで欲しい。