「あの誘拐事件は、俺のせいで起こったんだから」
……その頃、優香は。
「うぅ……」
放課後。私は帰宅してから、自分の部屋で漫画を読んでいた。けれど、途中で気分が悪くなり、ベッドで横になっていたのだ。……急に頭が痛くなったけれど、少しの間だけ眠っていたら、すぐに良くなった。とはいえ、まだ万全とはいえなかったけど。
「どうしたんだろ……?」
主人公が白猫を拾うシーンを目にした途端、頭がズキズキと痛んだ。グロテスクなシーンならまだ分かるけど……そんな何気ない光景で、どうして頭痛がするのだろうか?
「ま、いっか」
考えても答えは出そうにないし、私は考えるのを放棄した。そして、起き上がり、部屋を出る。
「あ、優香。お客さんよ」
部屋を出ると、お母さんが私を呼びに来た。お客さんって、誰だろ?
「玄関で待ってもらってるから、早く行きなさい」
「はーい」
私は言われた通り、玄関へと向かった。
「やほー」
「絵美那さん……」
来客は絵美那さんだった。……何しに来たんだろうか? 正直、体調が優れないときには会いたくないんだけど。
「優香ちゃんに、ちょっと会って欲しい人がいるんだ」
何の前振りもなく、彼女はそんなことを言い出した。……会って欲しい人って、誰かな? 変な人じゃないといいけど。
「来て」
「はいにゃ~」
絵美那さんの呼び声に、そんな間延びした返事が返ってる。そして、姿を現したのは―――
「にゃ……久しぶりなのにゃ」
白い髪と、赤い瞳。長身に纏う黒のワンピースと、正反対に白い肌。頭の上には三角形の突起物が二つ。それはまるで―――白猫を擬人化したような少女だった。
「……っ!」
それを認識した途端、急に頭がズキズキと痛み始めた。―――この人、どこかで会ったような。そんなことを思った途端、意識が強烈に揺さぶられ始めた。頭が痛い痛い痛い痛い痛い痛い―――痛い、という単語で、脳内が埋め尽くされる。
「ゆ、優香ちゃんっ……!?」
絵美那さんの焦るような声が聞こえた気がした。けれど、それが気のせいなのか、それとも現実なのか、確かめることは出来なかった。それよりも前に、私の意識は、ぷつりと途絶えたのだから。
「ゆ、優香ちゃんっ……!?」
悲鳴にも似た絵美那の声に、隠れていた俺はすぐさま飛び出した。
「にゃ……貧血みたいだにゃ」
すると、力なく倒れた優香を、魔似耶が抱きかかえていた。……どうやら、優香は魔似耶と会った途端、意識を失ったようだ。……くそ、やっぱり止めておくべきだったか?
「優香っ……!」
「大丈夫、体に異常はないのにゃ」
慌てて駆け寄る俺を、魔似耶が制止する。不安ではあったが、そう言われれば従う他ない。
「でも、どうしたんだろ……?」
「ともかく、このままにはしておけないのにゃ」
そういうわけで、俺は優香を彼女の部屋に運んだ。普段なら、優香に合法的にボディタッチ出来ると喜ぶのだが、今はそんな気になれなかった。
◇
「……そうか」
あの後、俺は一連の出来事を魔緒に報告していた。優香の貧血は大したこともなく、ベッドに寝かせた直後に目を覚ました―――のだが、その後がまずかった。何せ、目が覚めたら眼前に俺がいたのだ。それも、優香の記憶は未だに戻っておらず、結果、俺は優香の暴行を甘んじて受ける羽目になった。……まあ、一緒についてきた幼馴染に気味の悪い表情を晒してしまっただけで、実害はなかったが。
「恐らく、意識が途絶えたのは精神的な負荷のせいだろう。……要するに、お前のことを意地でも思い出したくないんだろうな」
「確かに、そんな感じだったのにゃ」
魔緒・魔似耶両名から出た言葉を、俺は心の中で否定した。けれど、否定のための言葉は、俺の口からは出なかった。
「記憶喪失……という表現は正確ではない。人間は通常、記憶を失うことはないからな。脳細胞を破壊されたなら別だが。基本的に、一度見たもの、聞いたことはまず忘れない。忘れた、というのは、思い出せないだけだからな。例えるなら、ハードディスクを繋ぐケーブルが断線したような状態だな。ケーブルを直せば、記憶は元に戻る。―――何が言いたいのかというと、だ。お前の妹は、無意識の内に、お前のことを思い出さないようにしてるんだ。誘拐事件のことを忘れているのは、それが原因だ。そして、魔似耶を見て意識を失ったのは、誘拐事件を思い出すとお前のことも思い出してしまうから。そう考えるのが妥当だろう」
魔緒の推測は的を得ているように思えた。魔似耶を見て気絶するなんて、他に理由が考えられない。けれど……それはつまり、俺は優香から、相当嫌われていたことになる。それも、記憶喪失以前から。だからこそ、優香は記憶喪失になっても、俺のことを激しく嫌悪しているのだ。
「ただ、お前と誘拐事件の因果関係が分からん。他に理由は思い当たらないんだが……」
「……いや、関係は、ある」
優香が、俺のことを忘れたいのなら。あの事件のことを彼女が忘れていても不思議はない。何故なら―――
「あの誘拐事件は、俺のせいで起こったんだから」
……その頃、優香は。
「ふぅ……あのトリモロス男、一度抹殺しておかないと」
先程のやり取りを思い出して、私は忌々しいあの日本崩壊男に殺意を抱いた。……ベッドでうたた寝していた私に、あいつはあろうことか、顔を近づけて、キ、キス、しようとしたのだ。そんなの、到底許せるはずがない。絵美那さんが必死に宥めてきたからあの場は抑えたけど、本来なら動かなくなるまで殴った後、警察に通報するところだ。
「……あんなの、処刑されればいいのよ」
そんなことがあったせいか、今の私はすこぶる機嫌が悪い。努めてあの永久戦犯男のことを考えないようにしているのだけど、それは無駄な努力となる。要するに、あいつの憎たらしい顔が浮かんできて、平常心が保てないのだ。
「……金属バットでもないかしら?」
寝込みを襲われたのだから、部屋にも護身用の武器を用意するべきだろう。確か、倉庫にバットが仕舞ってあるはずだ。今から取ってこようか。
「……って、どうして家にバットがあるんだろ?」
男の子がいないはずなのに変だと思ったけど、別にどうでも良かった。多分、お父さんが若い頃に使っていたんだろう。そう疑問を結論付けて、私は倉庫へと向かった。