とうとう実の息子に死ねって言い出したぞ、この人。ほんとに母親か?
「……ふむ。それは面倒なことになったな」
魔緒と無事に和解したところで、俺は優香のことを相談した。優香が俺のことを分からなくなった、つまり限定的な記憶喪失になったことを話すと、魔緒は溜息混じりでそう呟く。
「前の記憶障害も結局、原因は有耶無耶のままだったしな」
「……もしかして、「災厄」の奴らが何かしてるのか?」
俺が真っ先に疑ったのは、「災厄」の関与。俺たちが黒憑と戦った直後に異変が起こり、しかも黒憑戦の間に「災厄」の刺客がうちを襲おうとしていたらしいので、何らかの工作がされたのではないかと疑ってしまう。
「いや、それはないだろう。記憶を奪う魔術がないわけじゃないが、はっきり言って面倒だし、リスクも高い。そんなことが出来るなら、護衛を気絶させて、その隙に本命を攫うだろうさ。そっちのほうがずっと簡単でスマートだ」
しかし、魔緒はその説を否定した。そりゃあ、限定的に記憶を奪うよりは、無差別に眠らせて攫うほうが楽だろうけどさ。
「多分、記憶喪失自体は原因がないんじゃないのか?」
「原因がない?」
「というか、個人的な問題、ってところか」
ただ、彼が代わりに示した仮説を、俺は理解出来なかった。
「要するに、お前の妹自身に問題があるんじゃないか? 病気とか、そういう外因ではなく。体質と言い換えてもいいが」
そう思ったのか、魔緒も補足説明を加えてきた。……それはつまり、優香が、何かの弾みで記憶喪失になる体質だってことか?
「女って生き物は、強かだが脆弱なところがある。強いときは最強だが、弱いときは飴細工のように脆い。ま、男も同じかも知れんがな」
魔緒の台詞に、女性陣は何か言いたそうだったが、思い当たる節があるのか、結局は無言だった。
「ただ、そうなると、解決策はないんだよな……病院に行って治るものでもないだろうし」
よって、話は全く進まなかった。結論は相変わらず、当面は静観、のままだったのだ。
◇
……それから数日。俺は訓練の時間を削り、出来るだけ優香に話しかけてみた。とはいえ、優香もすぐに自室へ引き篭もるので、中々機会は掴めないのだが。話しかけてもほぼ無反応だし。
「ゆ、優香……」
「いい加減にしてっ!」
そんな中、ある日の夕食にて。とうとう優香から反応が得られた。……尤も、単純に堪忍袋の緒が切れただけみたいだが。
「何なのよっ!? いっつもベタベタ話しかけてきてっ! うざいのよっ! 通報するわよこの放射性廃棄物っ!」
今まで相当我慢していたのか、俺は遂に地中深くに埋められるゴミに格上げ(格下げ?)されるに至った。
「優香、ご飯のときくらい静かにして頂戴」
しかし、そんな娘を見ても、母さんは平然としていた。花野が家を出たせいで、家事をサボれなくなり、最近は割と主婦としての仕事をしてくれている。……質はともかく。というわけで、夕食も一緒のことが、前より多くなった。
「だってっ!」
「だっても明後日も明々後日もない。この変態がハザードマーク必須の危険人物なのは昔からなんだから、今更ガタガタ言わないの」
そして、何故うちの母親は、息子をフォローしつつ貶すなどという高等テクだけは持ち合わせているのか。……最近思うんだが、母さんがこういうこと言うのって、男相手だけなのか? つまり、父さんは根っからのドMということに……。
「優香も優香よ。話しかけられるのが嫌なら、最初からそう言いなさい。この脳味噌糠床野朗は末期症状の鳥頭なんだから、毎回はっきり言わないと気づかないの。こんな風に纏めて怒鳴っても無駄」
……すんません、泣いてもいいですか? 優香だけならまだしも、自分を産んだ母親にまでこれほどの暴言を吐かれたら、生きる気力を失くします。
「というか、もういい加減観念して、認めなさいよ。この体細胞が汚物で出来たゴミ屑男はあなたの兄だって。このう○こだって、あなたがちゃんと現実を受け入れれば、ここまでしつこくしないわよ」
母さんナイスッ! 辛辣な罵詈雑言は死にたくなるどころか生きてきたことを後悔したくなるほど酷いが、ちゃんと優香を説得している。そうしてくれなかったら、危うく自殺を検討するところだったぜ。
「……嫌」
しかし、息子を自害に追い込むほどの罵倒を交えた母さんの説得でも、優香の心を動かすことは出来なかった。それほどまでに、優香の心は頑なで―――何故、彼女はここまで意固地になっているのだろうか?
「優香……分かったわ。そこまで言うなら、もう無理強いしないわ」
すると、母さんが不意にそんなことを言い出した。……もう、諦めるのか? ということは、母さんからのサポートはなくなるということに―――
「琢矢、あんた今すぐ死になさい」
「……は?」
と思ったら、今度は意味不明なことを言い出す母さん。……俺、そろそろ耳鼻科に行くべきかも。或いは精神科か。
「そもそも、優香があんたのことだけ忘れるなんて、普通じゃないわ。あんた、優香に何かしたんでしょ? だから今すぐ死んで詫びなさい」
「……え、ちょっと、正気か?」
どうやら、聞き間違いとかではない様子。……ってか、とうとう実の息子に死ねって言い出したぞ、この人。ほんとに母親か? というか、ほんとに人間か? 鬼か悪魔の化身じゃないのか?
「ほら、ちゃんと麻縄も用意したから。今すぐこれで首吊りなさい」
いつの間に調達したのか、ご丁寧に麻縄を用意していた母君。……やばい、目が本気だ。
「これをそこの天井に吊るして……って、ちょっと! どこ行くのよ!?」
命の危険を感じた俺は、即座に食事を中断して逃げ出した。……うちの母親、ちょっと頭がおかしいんじゃないか。そう思うには、十分すぎた。
「……ふぅ。逃げられちゃったわね」
夕食の時間。お母さんは、手にしていた麻縄を仕舞い、扉を―――環境汚染物質男が出て行った扉を眺めていた。
「全く。シスコンなんだから、妹のために自殺くらいしろっての」
お母さんの主張は無茶苦茶な気もしたけど……あのゴミ虫が死んでくれるのは大歓迎だ。寧ろ、今すぐにでも死んで欲しい。
「……言っておくけど、冗談よ?」
「えぇっ!?」
しかし、それはジョークだったらしい。……折角、お母さんが味方してくれたと思ったのに。
「当たり前じゃない。どこの世界に、自分の子供に自殺を勧める親がいるのよ?」
それは正論だけど、お母さんが言うと説得力皆無だ。お母さんは男嫌いで、お父さん以外の男は毛嫌いしているから、例え息子でも容赦しなさそう。
「あれは、あなたが折れてくれれば、って思って言っただけで。本気で自殺させる気はなかったし、琢矢も絶対にそんなことしないって分かってたからよ」
その言葉は疑わしかったけど……それが本当なら、お母さんはそこまで私を、あの放射性廃棄物男の妹にしたいということなの? どうして、そこまでするのよ?
「っていうか、どうしてそこまで嫌うのよ? いくら記憶がないとしても、初対面の相手にそこまで嫌悪感を抱くなんて、どうかしてるわよ」
けれど、言われてみればその通りだ。いくら実は兄だっていう突拍子もないことを言われたからって、初対面相手にここまで不快感を持つのはおかしい。それは、前にも考えていたことだ。でも、結局答えは出ないままで。
「記憶喪失を考慮したとしても、客観的に見て非があるのは優香のほうよ。向こうだって、せめて普通の関係を築きたいだけなんだから、適当にあしらうくらいでもいいのに……」
だから、お母さんの言葉には、素直に頷けなかった。