「俺の妹が記憶喪失で俺のことが分からなくなった。誰か至急理由を教えてくれ」
◇
……数時間後。
「……ただいま」
「おかえりなさい……」
魔緒が帰宅し、それを七海が出迎える。だが、彼らの表情は暗い。理由が理由なので、仕方ないのだろうが。
「……アンネたちは?」
「出て行ったわ。もうここにはいられない、って」
「……そうか」
姉の返答を受けて、魔緒は俯き加減に、家の中に入っていく。
「あ、パパ」
「おかえりなさい~」
すると、家の奥から魔緒の娘たちが―――仁海と奈緒が姿を見せた。父親の帰宅に、彼の元へと駆け寄ってくる。
「……パパ?」
「どうかしたの?」
「……いや、なんでもないさ」
出迎えてくれた娘たちに、魔緒は力なく微笑むと、二人をそっと抱き寄せる。
「わわっ……」
「パ、パパ……?」
「……大丈夫だ。お前たちがいてくれるから、俺は大丈夫だ」
突然の行動に、娘たちも戸惑いを隠せていない。だが、魔緒の様子がおかしいことを察したのだろう、ずっとされるがままだった。
「……悪いな。あれが今の限界だ。子供たちの前では、気丈に振舞いたいのだがな」
「無理しないで。……それで、一体どうしたのよ?」
魔緒の部屋にて。魔緒と七海は、ベッドに腰掛けて話していた。弟の隣で、七海は心配そうに尋ねている。
「……仁奈のこと」
「……!?」
魔緒が出したその名前に、七海の表情が強張る。
「ヴィクターの奴にばれた。その場にいた奴全員にも聞かれた。……ずっと、隠してきたんだがな」
「……そう」
その名前は、二人にとって特別なようだ。……もしかすると、魔緒が殺めた妹の名なのか?
「でも、それだけなら―――」
「ついでに、人も殺した」
「……え?」
二つ目の告白に、七海は体が硬直した。呼吸すら忘れ、ただ魔緒のことを見つめている。
「前に話した、黒憑って奴だよ。……あいつ、自分の体を燃やしやがった。もう、助けられなかった。でも、だからって―――俺は、あいつに止めを刺したんだんだよ」
「……また、殺しちゃったのね」
「……ああ」
魔緒の返答を聞いて、七海はそっと……先程魔緒が娘たちにしたように優しく、彼を抱き締めた。
「……貴方が人を殺すのは、それ以外に解決策がないから。そうじゃないと、不可抗力じゃないと、貴方はそんなことしない。実際、今回だってそうなんでしょ? だったら、気にしないで。あの子だって、そんなこと、気にしないわよ」
諭すような姉の言葉に、魔緒はただ、彼女に身を委ねるだけだった。
◇
「……落ち着いた?」
「ああ……すまん、世話掛けて」
「いいわよ、別に」
数十分後。魔緒はゆっくりと、七海の抱擁から抜け出した。気持ちを落ち着けることが出来たのだろう。
「辛いときくらい、頼って欲しいわ。これでも一応、貴方の姉ってことになってるんだから」
「ああ……そうだな」
魔緒はこう見えて、結構精神が脆い。特に、自分の過去についての耐性は低いのだ。それは、大切な肉親を殺めたから……というのもあるが、彼が殺人そのものに触れていた時期でもあるからだ。要するに、魔緒は人を殺すのに躊躇いを覚えてしまう。必要があっても、さくっと殺すことは出来ない。そこまであっさりとした性格ではないのだ。それ故に、今まで黒憑には逃げられ続けていたのである。
「……私は魔術師のことはよく知らないけど。多分、今後もこういうことがあるんでしょ?」
それを把握している七海は、魔緒にこんな言葉を掛ける。
「でも、貴方は間違えない。間違って人を殺めたりしない。だから、大丈夫よ。あの子も、誰も、貴方を責めたりしない。例えしたとしても、私がそれを許さない。だから……安心して」
「……ああ」
姉の、包容力のある台詞に、魔緒はただ癒されるしかないのだった。
……その頃、琢矢は。
「……」
「お兄さん、元気出して。優香も、自分の気持ちを整理できてないだけよ」
リビングにて。俺は光子に慰められていた。花野が淹れてくれた紅茶を味わうことすら出来ない俺を、見かねた光子がそうやって言葉を掛けてくれる。……確かに、優香だって戸惑っているのだろう。けれども、そうさせたのは俺だ。それだけは、変わらない。俺は兄貴失格だ。
「……あ、優香」
「え……」
しかし突然、光子が声を上げる。彼女の声に釣られて顔を上げると、リビングに優香が来ていた。よ、良かった……顔を見せてくれて。
「ゆ、優香―――」
「光子……そいつ、誰?」
「へ……?」
「え……?」
優香に声を掛けようとしたら、彼女の口から、意味不明な言葉が零れだした。……今、何て言った? 最近、聴力が落ちてるのか?
「誰よその害虫? 光子の知り合い?」
「な、何言ってるのよ優香……? お兄さんでしょ?」
「ふーん。光子って、兄弟いたんだ」
「え……?」
何か、変だ。何かがおかしい。優香が、俺の知ってる優香じゃなくなっている。
「ちょっと、冗談きついわよ? 優香のお兄さんでしょ?」
「は? 私、兄弟なんていないんだけど?」
「ゆ、優、香……?」
ど、どうなっているんだ……? 優香、そんなに怒ってるのか? 俺のことを兄と認めたくないほど、ご立腹だと言うのか?
「ゆ、優香、何を言って―――」
「喋んな不審者。警察呼ぶわよ」
……おかしい。絶対におかしい。優香の目は本気だ。冗談や意趣返しで、こんなことを言ってるわけではない。本当に―――「兄なんて、そもそも存在していなかった」という前提で話している。つまり……俺に関する記憶が、ない?
「ど、どういうことだよ優香……? 俺が分からないのか……?」
「花野、この不審者摘み出して。お父さんがいないんだから、この家で唯一の男はあんただけでしょ?」
「え、えっと……お嬢様、これは一体?」
「私にも分からないわ……」
あまりの出来事に、俺も、光子も、花野も、困惑するしかなかった。―――優香が、俺のことを分からないだなんて。
「どうしたの? ……まさかとは思うけど、光子の彼氏とかじゃないわよね? 止めてよ、こんなウスバカゲロウ。光子の恋愛なら応援したいけど、さすがにこれはないわ」
「……優香、本当に正気? 悪ふざけだったら今すぐ止めて頂戴。いくらなんでも、こんなの、不謹慎すぎるわ」
「……光子こそ、大丈夫? 最近寝不足なの?」
これはもう、確信的だ。未だに信じられないが、現実として起こっている。……優香が、俺のことを分からない。俺に関する、一切の記憶が消えているようだ。
「優香……」
この状況をライトノベルにするなら、こんな感じだろう。―――「俺の妹が記憶喪失で俺のことが分からなくなった。誰か至急理由を教えてくれ」、だ。