40話 助けて欲しいから
「痛っ!!」
タイルの壁に思いっきり背中から叩きつけられる。背中に走る鈍い痛みは、妙に意識を持っていかれてその痛みの主張を感じられる。
「さて、綾香……」
雅人は綾香の体を舐めるように見てくる。気持ちの悪い視線を感じながら、何とか逃げられないかと壁に手をつけるばかりだ。ただ手にあるのは、冷たいタイル感触だけであった。
「さっきの男はだれかな?」
「!?」
驚きのあまり雅人の顔に視線が行く。その表情は、まるで蛇が完全に蛙を捕食できる状態で、蛙がどう出るのかを物色しているようにも見える。とても気持ちの良いものではなかった。
「だ、誰のこと……」
視線が泳ぐ。額から生ぬるく感じてしまうような汗が一筋たれる。心臓が、少しずつ鼓動を早め、息が自然と速くなる。
「さっきレジにいたじゃないか? あんな距離にいた人間も見えないくらい、お前の目は腐っていたか?」
侮辱の言葉を発した瞬間、後ろの人間達からどっと笑いが起きた。そして、次々に侮蔑の言葉が投げかけられる。それは、どこか聞きなれていたしどれも結局は、侮蔑の意味としては全て同じに聞こえた。ニュアンスが違うだけで結局は遠まわしに“死ね”の意味しか聞こえない。
綾香は思いっきり歯を食いしばった。それと同時に手に拳を作り強く握った。自分でも腕が震えるほど強く握っているのを感じる。
「……そんな人知らない」
なんとしてでもここで折れるわけにはいかないのだ。
「そうか。レジの前で店員とニヤニヤして、気持ち悪い笑顔を浮かべていた奴だぞ? あんな気持ち悪い奴も分からなかったか。気持ちが悪すぎて目立ちまくってたけどな」
「マジ分かる!! すごい気持ち悪い笑いかしてたよねぇ」
気持ちが悪い。何度聞きなれた言葉だろうか。自分に聞かされる分にはいい加減に慣れてしまって気分が晴れないだけで済んだかもしれない。だが、今の状況はどうだろうか。
雄一が貶されている。何もしておらず、ただ無害な雄一が私と一緒にいただけで貶されているのだ。
私と一緒にいただけで、優しくしてくれただけで雄一は貶されているのだ。そう考えると、頭の中が怒りで一杯になる。
「ば、馬鹿にするなっ!!」
綾香は気づくと思いっきり拳を握り締め、雅人に向けて振りかぶっていた。自分でもその瞬間だけは、意識が無かった。気づけば立ち上がっており、雅人の顔めがけて殴りかかっていたのだ。
雅人は一瞬驚いたような顔をしたが、一瞬だった。ニヤリと笑ったかと思うと、綾香の拳を左手で掴んだかと思うと、右手ですぐさま綾香の頭を掴んだかと思うと、そのまま勢いに乗せ再び壁に叩きつける。
「かはっ!!」
再度壁に叩きつけられ、再び背中に痛みが走る。
「なにすんだよ綾香。今日はずいぶん反抗的なんだな・いつもみたいに嫌そうな顔しとけよ。どうせ、お前一人じゃなにもできないんだから」
そういうと、雅人は綾香をさげすむように見ながら鼻で笑った。
綾香はそのことについ下を向いて目を逸らしてしまった。
自分にはもう何もできないのだと、自分はどうしてこうも無力なのだと考えた。
どうにかするとは考えていたが、実際どうすればいいのか分からない。この大人数を倒すなんて馬鹿な考えは最初から無かったつもりだ。もちろん武力なんかじゃ勝てるわけが無い。
それじゃあどうするか。話し合いで解決するようにも思えない。
元々こいつらは話し合いをする気さえ持たないだろう。何ヶ月となく自分を下に見てきた奴らだ。そんな奴らが今更親切心を出して、応じるとも思えない。
それじゃあどうすればいい。
どうもできない。
自分はやっぱりこれほどまでに無力なのだと感じた。自分が何をやっても成功することはなく、できたことが無い。自分で成し得たものなの何も無いのだ。
これからもずっとこうして、蔑まれるのだろう。環境が変わったとしても、性根からこいつらに腐らされた。もう戻らなくて、どうしようもないのだろう。
ふと、目から頬を通り抜け顎に達したかと思うと、自分の足に雫が垂れる。
何もできない自分に対して悔しい。そんな風に考えている自分が悔しい。だけど、自分じゃないもできないことを一番分かっているだけに、その悔しさが何倍にも膨らむ。
自分がなんとかすると考えていたのにいざとなればこのざまだ。
相手に竦み、相手を前にして涙するしかないのだ。
「うぅ……」
嗚咽が漏れる。悔しい。だけど何もできない。この思考だけが何度もめぐり回って、結局自分は何もできない弱虫なのだと、自分に刻み込むしかできない。
誰かに助けて欲しいと思ったことは何度もある。
自分が酷く苦しいときに誰かに頼れたらどれだけ気持ちが楽になるかと何度考えたか分からない。でも、自分でいつも一人でやるしかなかった。誰かに悲しい気持ちを晒したら負けなのだと考えた。
それは頼る相手がいないわけではない。自分が常に一人だったのだ。みんな優しいから、きっと話せば何か施しをしてくれたかも知れない。だけど、常に自分は一人で、一人で解決するしかないと考えるしかなかったのだ。
誰かに頼って自分が弱いと思われたくなかった。
そんな気もある。だけど、そんな傲慢は崩れてしまう。思われたくなかったが、今は思われている。
目の前の奴らは今の自分をどう見ているだろう。格下相手としか見ていないだろう。
だから、自分の弱い部分を曝け出して助けて欲しかった。誰かが自分の不服な状況を打開して助けて欲しかった。
でも、それは負けだと自身にストッパーが掛かる。だから、誰にも言えなかったし、伝えれなかった。
今自分が、これほどまでにこのループが早く回っている事は無かった。自分は弱い。それを伝えたら負けだ。だから悔しい。それじゃあ戦うのか。でも自分は弱い。
だけど、今の自分がこれほどまでに思ったことは無い。誰かに助けて欲しいと思ったことは無い。
雄一に助けて欲しいと思ったことは無い。
自分の弱みを曝け出してもいいという人間に、雄一に助けて欲しいと思ったことは無い。出会って一週間も知れない。雄一に助けて欲しいと思ったことは無い。
「助けてよ……」
綾香はぼそりと呟いた。
「あぁ、なんだって聞こえないぞ!!」
綾香はそれに促されるまま、自分でも驚くような大声で叫んでいた。
「助けてよ!! 雄一!!」
「あぁ? 誰だそ――――」
雅人がしゃべろうとした瞬間、気づいたら雅人が壁に向かって倒れていた。
「えっ……」
綾香は目を疑ったし、ほかにいた奴らも目を疑った。
「大丈夫か綾香? 怪我はない?」
目の前にいたのは雄一だった。走ってきたのか肩で息をして、すごく心配そうな目で綾香を見ていた。
驚きで、どうしてここに来たの、という言葉は出なかった。その変わりに、どっと涙が溢れた。その涙は安心感からなのか、自分が結局何もできなかった悔しさからなのかは分からないけど涙が溢れた。
「おい……痛ってぇな!!」
雄一は頬を思いっきり殴られていた。雄一は、トイレのドアに叩き付けられたが、すぐさま立ち上がり雅人を睨んだ。
「何だよテメェ!! 正義面かよ!! 気持ちわりぃな、おい!!」
雅人は、雄一を一瞥するとほかにいた同級生達に手を振るい命令を出すかのように、怒鳴りつけた。
相当怒っているのであろう。額には血管の青筋が浮かび上がっており、眼球をひん剥きながら雄一を睨んでいた。
そして雄一を踏む靴の数。女子は少し遠巻きで笑うかのように眺め、同級生達は半笑いで雄一を踏みつけていた。
「雄一……さん……」
綾香の目から涙がとめどなく流れる。
この光景は自分が生み出したのだ。自分がいけないのだ。
「綾香を……泣かせるなよ!!」
綾香は涙で霞む視界で雄一を見た。
雄一は一人の足を掴んだかと思うと、思いっきり引っ張り張り倒す。他二人はそれに驚き、足が止まったかと思うと雄一は、そこに思いっきり拳をいれ殴る。
二人は一瞬よろめくが、雅人同様に怒りの形相で雄一を睨むと殴りに掛かる。雄一は、よけることなくその拳をわき腹にもらい、苦悶の表情を浮かべるが、それでも拳を作ると思いっきり殴る。
そんな殴り合いの光景を綾香は見ていることしかできなかった。
「雄一さん……」
ただ、雄一が本当に怒っているのだけは分かった。何に怒っているのかはそのときの頭では処理しきれなくて分からなかったけど、すごく怒っているのだけは感じた。
こんな雄一は見た事が無かった。いつもみたいに少し乾いたような笑顔を浮かべたかと思うと、楽しそうに話し出すのだ。そして、ばつが悪そうに言い訳を始めるのだ。
それで自分の失態に気づいて、恥ずかしそうに照れるのだ。
そんな優しい雄一じゃない。雄一は本当に怒っている。
「綾香を泣かせんなよっ!!」
雄一の拳が、一人の頬に思いっきり当たり、吹っ飛ばされる。そして、壁に思いっきり顔面から衝突する。そして、そのまま蹲ってしまった。
「こいつ……よくもやってくれたな!!」
もう一人が思いっきり殴りかかってくるのを雄一は避けずに思いっきり頬に食らう。そのまま体が揺らめくが、雄一の視界の焦点はハッキリしていた。そのまま、もう一人を殴ったかと思うと、もう一人も地面にうずくまってしまう。
「おい……お前なんなんだよ……」
雅人が雄一を恐怖の対象として捕らえたのか、小動物のようになって雄一を睨む。
雄一は、それでも雅人を怒りの形相で睨むと、思いっきり胸倉を掴んだ。
「良いか!! 二度と綾香を泣かせんな!!」
雅人は急に手が震えだし、雄一を睨むのではなく諦めたかのように、急にぐったりとする。
「綾香はなぁ、今まで苦労してんだよ!! 辛いんだよ!! それの原因がお前らかは知らないがな、もしそうだったら二度と関わるな!!」
綾香はその光景をどこか遠巻きに見ていた。まるで、夢を見ているかのように少しだけもやの掛かった状態で見ていた。
「もし次綾香を泣かしてみろ!! 絶対に俺が許さないからな!! 良いか!!」
雄一は思いっきり胸倉を握り、雅人を思いっきり睨みつける。
「あぁ……分かったよ……」
雅人は雄一から視線を背け、ぐったりとする。
雄一はそれを見て、胸倉を話してやると、どこかふらついた足取りで綾香のもとへと向かった。
「大丈夫……綾香?」
「は、はい……」
震える体で何とか答えた。その答えを聞くと、雄一は満足そうな表情を浮かべ立ち上がる。
綾香はその光景を眺めていたが、ふと雄一から手を差し伸べられたのに気がづいた。
「立てる?」
「はい」
綾香は雄一の手を取った。そして、そのままトイレを抜けた。後ろをみると、初老の警備員がトイレに走っていくのが見えた。そのあと、そのおじさんの慌てふためく声が聞こえてくる。
「なぁ綾香……」
「なんでしょう……」
「ギターどうしようか」
雄一はそういうと、綾香のほうに視線は向けなかった。逆にそっぽを向いてしまった。
「……はい。いざとなれば宅配でもしてもらいます」
「そうか」
そういうと、二人はそのままの足取りでデパートを出た。




