32話 喫茶にて
秋の冷たい風が肌に辺り、ぶるっと来てしまう。駅からノソノソと歩いているが、もう少しシャキっと歩いたほうが良いのだろうか、雄一はそう思いながら歩を進める。
昨日の晩、綾香からメールが入っていた。
綾香のおじさんが経営している喫茶店アリスで、模様替えがあるので手伝ってほしいということだった。
綾香は、この前も学校へわざわざ掃除に出向いていったはずだ。それなのに、また掃除とは気が止むのかもしれない。
雄一は、あまり掃除というものが得意ではない。掃除と聞くと、物を元の場所に戻して、いらないものを廃棄するという認識しかない。たまに、書店で『掃除のコツ』なんて題名の本を見かけて、読んでみるもののそこまで興味を引かれる内容ではなかったりする。
部屋は汚くは無いが、綺麗に整頓されてるとも言いがたい。
「模様替えって、何か張替えでもするのかな」
ボソリと呟くが、どこまで本格的にやるのか不安になってくる。壁紙とかという話になったら、完全にお手上げだ。
「不安だなぁ」
少しだけ、こちらも気が滅入ってしまいそうだ。しかし、綾香の頼みなら断れるわけもなく、やっぱり頑張るしかないようだ。
店の前まで来ると、『本日は臨時休業』の張り紙をつけた木製のドアが開けっ放しになっていた。中では、カランカランと鈴が鳴っている。
「こんにちは」
少しだけ身をかがめながら店内に入ると、依然来たときとは少しだけ雰囲気が変わっていた。
壁際に机とイスが追いやられており、店の中央が大きく開けている。更に、大量のダンボールが置かれており、引越しという雰囲気が漂っている。
「あっ、こんにちは。今日はすまないね、急に呼んだりして」
「いえそんなことは無いですよ。綾香さんの頼みなら断れないですから」
そういいながらも、店の中に進んでいく。
窓が全て空いてるせいか、日光がよく入ってくるせいか、とても明るく依然とはやはり雰囲気が違っていた。お店のこういうところを見るのは、実は貴重な経験だったりするのだろう。
「あっ、服は私が預かっておくよ」
「すいません、色々ご厄介になってしまって」
「いいんだよ。今日はいっぱい働いてもらうことになるかもだからね」
そういうとおじさんはニコリと笑う。
「そういえば、奥さんはどうされたんですか?」
雄一は着ている服を脱ぎながら言う。
「あぁ、丁度風邪で寝込んでいてね。代わりに綾香ちゃんに助けを呼んだんだよ。ほんと、雄一君まで来てくれてありがたいよ。男手があるとないとでは、作業の進み具合が違うからね」
雄一のパーカーを預かったおじさんはカウンターの奥へと消えていった。
「雄一さん、来てくれたんですね」
綾香がカウンターの置くから、重たそうにダンボールを抱えながら出てくる。
「まぁ、頼まれたから……な……」
綾香の服装に驚いてしまった……。
白色の長袖のTシャツを着ており、作業用のつなぎとは違う上半身まで覆わない、肩にサスペンダーがあるだけのつなぎを着ている。
そして、何よりも驚いたのは、いつもは長い黒髪をストレートに下ろしていたのを、頭の高い位置でゴムでまとめてポニーテールにしていた。更に、なぜか眼鏡までつけていた。
「あれ? 綾香って眼鏡をつけていたっけ?」
綾香はカウンターに重たそうに、ダンボールをカウンターに置く。そして、少しだけ照れながら、黒いフレームのシンプルな眼鏡をくいっと上げながら答える。
「普段はコンタクトなのですが……。なんだか朝から目がごろごろしてつけづらくて……」
「そ、そうなんだ……」
不覚にも、似合っていると思ってしまった。こういう綾香の一面も、アリなのかも知れない。
「へ、変じゃないでしょうか?」
「普通に似合ってると思うよ」
「そうですか?」
「うん」
なんだろう、ココまで来て照れてしまっている自分がいる。普段通り、普段通り。
「さぁ、綾香ちゃんも、雄一君も働くよ」
カウンターの置くからおじさんが現れた。おじさんの手にも、大きなダンボールを抱えている。
「えっと、俺は何をすれば良いのでしょうか?」
「雄一君には最初、綾香ちゃんと手伝ってまずは清掃をしてほしいんだ」
「わかりました」
そう言って、今日一日の内容が始まった。
◆◇◇ ◇◇◆
「雄一さん、右側が少し傾いています」
「そうか」
雄一は、再び脚立にのぼり壁に掛けてある大きな絵画を持つと、右側に少し上げる。
「これでどうだ?」
「はい、問題ありません」
委託された仕事は、棚などに積もった埃を落とす事や、床拭きなどの清掃。それが終わり、今は絵画の取替えをしている。夏仕様の絵画を、冬仕様に変えるのだという。
油絵の具で書かれた絵画は、何度も厚塗りがされておりとても長い時間試行錯誤して書かれたことが近くで見て読み取れる。
先程取り外した絵画には、大きな湖が描かれており、その周辺には森が生い茂っており小さな家屋も見られた。背景に描かれるのは灰色の岸壁をむき出しにした山がそびえ立っており、威圧感を出しながらも、青色や緑色を強調とした明るい雰囲気から、夏独特の清清しさというものが伝わってきた。
現在つけている絵画には、全く場所は同じなのだが、一面銀世界と言わんばかりに雪が降り積もっている。屋根にも、大量の雪が積もり、灰色の岸壁も白色に化粧を施していた。
灰色の雲から差す光に反射して輝く雪は、とても美しかった。風景と同化する白銀の明るさ。夏の明るさとは別の、沈黙の中にさす光というものが伝わってくる。
やっぱりこういう絵が描ける人というのは、それだけの才能があるのだろうか。
「この絵なんだか好きだな」
「そうなんですか?」
俺は綾香から、鉛筆を貰い木製の壁に印を描いていく。
「でも、こういう絵ってすごい難しそうだよな」
「確かにそうですね。油絵は特に時間が掛かりますし。でも、やり直しが効きますから、精神的には楽なんですよね」
「そうなのか?」
「はい。水彩画だと濃い色を塗っちゃうとそれで最後なんですけど、油絵か乾くと上から再び色が塗れるんです」
「初めて知ったよ」
「油絵は難しそうなイメージがありますからね。私も最初はそうでしたし」
綾香は俺に小さなフックを渡してくる。これを木の壁に置き、針のようなもので固定するのだ。これで結構な重量をもてるというから不思議だ。
「綾香って絵を描くことはあるの?」
「いえ、むかし絵の教室に通っていたことがありまして。そのときに、色々学んだんですよ」
「綾香ってほんとに物知りだよな」
「そんなことはありませんよ。こんな知識は、今となっては何の役にも立ちませんから」
「大丈夫だろ。今、俺が始めて知れた事実だし。綾香が知らなかったから知れなかったし……」
俺は、最後声が弱くなりながら答える。そして、そちらへ意識を向けさせないように、先程書いた印をもとに木の壁へフックを置くと、針を深く刺していく。
「でも、綾香ってこういう絵上手そうだな」
「いえそんなことは無いですよ。その絵の作者には負けますよ」
「でも、見てみたいな。綾香の描いた絵」
「見て見ますか……」
どこか力弱く掛けた声にかぶせるように、置くからおじさんの声が聞こえた。
「それ書いたの、僕なんだ」
「えっ、そうなんですか!!」
雄一は驚き、危うくもう片方のフックを落としかけた。
「うん。十年前くらいに奥さんと夏休みにフィンランドに行ってね。そのときに描いた絵なんだよ」
「すごいですね!!」
「まぁ、冬の方はほとんど創造なんだけどね。冬のフィンランドも見てみたかったよ」
雄一はフックをつけ終わると、脚立を降り他の絵画の取替え作業に掛かる。おじさんは、木製の棚に並べられたコーヒー豆の瓶を取り出すと、一つ一つ丁寧に拭き始める。
「おじさんって美大とか行っていたんですか?」
「いいや、書店においてあった本の知識だけだよ。ほんと、辛かったのを覚えているな」
「おじさんは多趣味ですから、仕方が無いですよね」
「それは綾香ちゃんもじゃないのかい?」
「そうなのか?」
「いえ……私は多趣味というわけでは……」
「音楽やったり、絵を描いたり、工芸をやってみたり、ほんとにいろんな事をしていたよ」
「なんか羨ましいな」
「そんなこと……決して無いですよ……」
十分羨ましいと、雄一は思った。
中学でも勉強と部活に数少ない友達との交友。高校でも、それの延長線で特にこれといった特徴も無い日々を過ごしていた。
もちろん、他人に誇れることもしていない。
どこか、他人と違う趣味を持ってそれに取り組んでいるということが、羨ましく思える。同じレーンを走らないという事は、ここまで輝くものなのか。
「いや、十分羨ましいけどな」
「ほんとに……止めてくださいよ……」
「そんなことを言っても綾香ちゃん。ものづくりをしてるとき、すごい活き活きしていたんだけどな。あの目の輝きようには若さを感じたね」
「お、おじさんまで……」
そこまで言うと、綾香はシュンと小さくなってしまった。雄一は、何か声をかけようとも思ったが、言葉が思いつかなかった。それでも、何かを切り出さなければと、思考が巡る。このままだと、空気が重たくなってしまうような気がしたのだ。
「でも、いいことだと思うけどなぁ~。必死になれる趣味があるって」
「そうだよ、綾香ちゃんは誇っていいと思うよ」
「……」
綾香は顔を伏せる。だが、すぐに顔を上げると「そうですね……」と小さく呟き、微笑む。
「綾香、これで良いか?」
「大丈夫です。問題ありません」
そういうと、俺は先程同様に鉛筆で壁に印をうち、フックをつける。
「それじゃあ、雄一君と綾香ちゃん。この作業が終わったら一休みしようか。コーヒーの一杯でもご馳走するよ」
「ありがとうございます」
「分かりました」
「それじゃあ、僕は道具を持ってくるからカウンターに座ってくれれば良いよ」
そういうと、おじさんはカウンターの奥へと消えていった。
それを見送った雄一は、フックをつけ終わるとそこに今度は青色の花を飾っていく。
茶色の鉢植えに咲く青色の花に加え、背景が暗めなのが効いて、少し落ち着きのある一枚となっていた。とても、雰囲気溢れる絵だ。
これも、おじさんが描いたのかと思うと、あの人の器用さには驚く。
「なぁ綾香。これってなんていう花なんだ?」
「それはアネモネっていう花です。二月ごろから咲く花なんですよ」
「へぇ~」
「ちなみに、その花びらに見えるのは実はがくなんですよ」
「そうなんだ……。ってことは、真ん中のこの小さなのが花なのか?」
「正解です」
不思議な花だなぁ、と感心しつつもこれで、とりあえず仕事は一段落した。あとは、机やイスを整えたら終わりだろう。
「それじゃあ、行こうか綾香」
そう言って雄一が進もうとしたとき、綾香が雄一の袖をギュッとつかむ。
「雄一さん……」
「どうした、綾香」
綾香は俯きながらも、袖をしっかりつかんで、何かを言おうとしていた。
少しだけ恥ずかしいので、雄一も顔を背けてしまった。
「私の絵が見たいって言っていましたよね……」
「あ、あぁ……」
「仕事が終わったら、私のアパートに来てください。ちゃんとご案内します」
「えっ、それは……どういう……」
雄一があたふたしている間に、綾香はつかんでいた袖を離すとカウンター中央のイスに座ってしまう。
綾香ならこちらが押せは引いてくれるような気がしたが、それは綾香の決断を踏みにじるような気がして、どこか気が引けてしまった。
席に座った綾香は、自分がとても緊張していたことに気がついた。そして、小さく呟いた。
「アネモネ。花言葉は……はなかい恋――――」




