2話目 お食事にでも
秋休みに入ってもアルバイトは続いていた。高校一年の初めから初めて、三年間勤めているバイトで、従業員の方とも皆仲良しになっている。お酒は飲めないが、たまに宴会にも連れて行ってもらっている仲だ。
働いているバイトは、コンビニのアルバイトなのだが、三年も勤めていると正社員じゃないかと思うほどの手際で仕事をこなす。
そんなアルバイトも終わって、時間は夕方の五時を回っていた。カバンの中に入っている茶色い袋には、今月の汗水かいて働いた分の報酬として、給料と言うものが詰まっていた。
お世辞にも多いとは言い難いが、それでも拾った百万円よりも価値があると思う。
そして、昨日の夜から胸をひたすら叩くこの鼓動が止まなかった。彼女の声を欲しているのが分かる。
綺麗な歌声は、耳にしているイヤホンから流れる音よりもクリアに聞こえ、感情がより一層と伝わる。思い出すたびに、鳥肌でも立ってしまいそうな感覚を覚えていた。
「何時頃からだろう……」
昨日の時刻とは一時間開いている。もう、あの場所で歌っているのだろうか。そう思うだけで心が弾む。遠足に行く子供のような気持ちだ。
雄一は小さな期待を抱きながらも、駅に向って歩く。
高校と同じ町にあるコンビニのバイトなので、駅は目と鼻の先だった。
どうしていつも気づかなかったのだと後悔してしまう程だった。毎日、あの駅を通るのだが、気づかなかったのが神の悪戯にも思えてくる。
秋空の町を歩いて行くと、いつものように駅が見えてきた。皆、家路を急いで駅へと向っていく。電車まではまだ時間があるのにだ、彼女の歌声を聴かないなんて勿体無いと思う。
夕焼け空に照らされて、オレンジに色づいた大きな時計台が雄一を歓迎していた。
と、すぐにその歌声は雄一の耳に入ってきた。
「あっ!!」
昨日と同じ街灯の真下で、ギターを抱えて、ラジカセから低音質な音楽を鳴らし、それら全てを包んで見せるような綺麗な歌声で歌う彼女が居た。
それを見逃す雄一ではなかった。
しかし、足が動かなくなっていた。緊張しているのか、それとも合うのに怯えているのか、分からないが足が動かない。
心臓の鼓動は、太鼓より強く外に聞こえそうなほど、大きく脈打っていた。
それでも、遠巻きに聞こえる彼女の声が明らかに雄一を誘っていると錯覚させてしまう。近くで、もっと傍で聴きたいと思うたびに、動かない足を頑なに動かさない。
今まで、女子と話すなんて偉業もなせていない雄一が、そこまで行くのには多少の抵抗が残ってしまっていた。
が、頭の中で流れた彼女の曲の歌詞と、耳に入る彼女の歌詞が重なった。
何故だが、それだけの些細な事が、雄一の足を軽くして彼女の元へと歩みを進める。
一歩、一歩と進めるたび、頭のにより鮮明に聞こえてくる、その声が心臓の鼓動をより一層早く、強く打つ。
気がつくと、昨日と同じほど距離は縮まっていた。彼女の歌声が耳に入るたびに、体の芯から熱く火照ってくる。
そして、聴いていた曲は終盤に差し掛かり、サビを迎えた。
一層強く、吠えるようにガンガンと勢いを増し、静寂さを消し去り、世界に音の彩りを添えているように、強く鳴り響く。
彼女も気のせいか、額に汗を浮かべているようだった。
そして、最後に綺麗な音をかき鳴らすと、その歌は終わりを告げた。
「ありがとうございました」
昨日も聞いた、その声に雄一はビクリと驚いてしまうが、即座に手が動く。胸の前まで持ってくると、一人だけの盛大な拍手をする。
どこの合唱団でもこの声は出せないと思う。アメリカの有名は歌手にも劣らない、その美声は雄一の心に頭に焼き付いていた。
「今日も来てくれたんですね。雄一さん」
「はい、もちろんです」
名前を覚えてもらっていた。それだけで、顔から笑みがこぼれるのを感じる。先生にさえ、一と二を間違えられるのに、と思ってしまう。
「ありがとうございます。それじゃあ、雄一さんのために一曲」
そういうと、また彼女は古ぼけたギターを抱えると、歌いだす。
その歌声は、時間を忘れさせて彼女が終わると言っていた六時になるまでは早かった。
昨日と同じ、今日も澄み渡るような声が頭を包んで、一色に染め上げていた。
「ありがとうございました」
「い、いえ。今日も綺麗な歌声でした」
恥ずかしそうに照れて、頬を赤く染め上げる。そんな、表情もピンポイントで頭の中に残る。
「嬉しいです。この前、始めたばかりなんですけど、一人だとどうしても心細くて……」
そういうと、彼女は重たそうにギターを片付け始める。
「綾香さんは、何時頃からここで路上ライブを?」
出来たら、初めから最後までと思い聞いてみたが、無神経な質問じゃなかったかと不安になる。が、彼女は快く答えてくれた。
「四時から、六時までですよ。それ以外はバイトが忙しくて。秋休みだから良いんですけどね」
「丁度、僕も秋休みなんですよ」
「そうなんですか」
彼女が高校生で、今は秋休み。こんな偶然はあるだろうか、いや、偶然では無くて運命の筈だとその時、雄一の馬鹿な心は思ってしまった。でも、彼女を忘れないのは嘘ではない。
「もし良かったら、これから食事にでも行かないですか?」
「えっ?」
「今日給料日だったんです」
そういうと、彼女は悩んだような表情をするが、こちらを向いて「よろしくお願いします」と言うと、二コッと笑った。
それが嬉しかったのか、そのまま舞い上がってしまっていた。
◆◇◇ ◆◇◇
近くにお奨めの店があるからと、彼女の連れられた先は小さな喫茶店だった。名前はアリスと言うらしい。
木造建築のような、その店はいかにも喫茶店という雰囲気をかもし出していた、例えて言うなら「マスターいつもの」で、食事が出て来る感じだ。
「入ってください。ここのサンドイッチが美味しいんですよ」
「でも、この時間帯ってやっているものなんですか?」
そう言って、玄関の前においてある小さな黒板のようなものを見ると、十時まで開店と書いてあった。
「この店、夜はバーみたいな感じの雰囲気で、面白いんですよ」
「へー」
雄一は、何気無く答えると不思議そうな目で見つめると、ドアが開いた。中から出てきたのは、中年男性と思えるほっそりとしたおじさんだった。
優しく笑う姿は、警戒心を簡単に解いてしまう。
「いらっしゃい、綾香ちゃん」
「こんばんわ、おじさん。今日は友達を連れてきたの」
そういうと、綾香がこちらに手を向けて名前を説明する。雄一はそれにペコペコする余り、何か悲しくなってきた。
なんて、リードの出来ない男だろうかと。
二人で中に入ると、中はオレンジ色のライトが薄っすらと店内を照らす程度で本当にバーの雰囲気をかもし出していた。
「この店ね、親戚のおじさんが経営してるから良く来るんだ」
「そうなんだ」
店内には観葉植物としてか、雄一の身長と然程変らないほどのヤシのような木が置いてあり、葉に白色で落書きがしてあった。先程のおじさんの趣味なのだろうか。
カウンターにも、小さな人形が四つほど置いてあり、こちらを向いて微笑みかけていた。
少し雰囲気に慣れない気がするが、どことなく落ち着く。
「昼間は昼間で、とっても面白いんだけどね」
「そうなんですか?」
「あのヤシの葉に書かれている文字、昼間になると変るんだよ」
そういうと、視線がヤシの葉に向く。再び良く見てみると、葉には『お疲れ様』と書かれているようだった。
「あの葉に、あのおじさんの一言が書かれているの毎日変るから面白いんだ」
そう言って、話しを進める彼女はどこと無く楽しそうだった。それを聞いているだけでこっちも楽しくなってしまう。
「あの――――――」
「何でしょうか?」
「綾香さんって、どうして路上ライブを?」
そう聞くと、彼女は小さくうつむくと何かを考えたかと思うと、直ぐに答えてくれた。
「簡単に言えば憧れ、ですかね」
「憧れ……」
「私が小さい頃に、友達と電車に乗って遊びにいったんですよ。そこで、路上ライブをしている人に出会って、あの人カッコ良いって思ったんですよね。だから、歌手になろうって思ったんですよ」
そう言う彼女の目は、煌めいていた。自分の人生をひたすらに見つめて、諦めを知らない彼女の視線は前だけを見ていた。
雄一は、その目を見た瞬間、自分がどれだけ小さな存在かを知ってしまった。
中学、高校と必死に続けていたバレーも、一度としてレギュラーには入れず、必ずベンチ。それで、勉強でさえ頑張っても必ず六十点台を取る。
どうしようもなく頑張る、未来を見つめるということを諦めかけていた雄一にとって、彼女の目はとても眩しく写った。
「良いですね、応援します」
「雄一さん……」
突然、彼女が話しを切り出した。それに、驚いてしまったが「はい」と答える。
「私、一週間後に上京するんです」
「えっ……」
突然の話しに、戸惑う。
「ここでも、活動は出来るんですけど、東京で活動したくて」
「そ、そうですか……」
突如として、胸に湧き上がってくる燃焼しきったような、虚しいものが心を裂く。
これから、これから距離を詰めようと考えていた矢先のこの言葉。雄一の、小さな心を裂くのには大きすぎる言葉だった。
「で、必ず歌手になってMステにでも出るくらい有名になるんです」
それでも、彼女の目は明るい未来を捉えていた。間違ってなんか無い、何一つとして曇りの無い晴天の未来。
そんな未来を抱えている彼女を、引き止めることはとてもじゃないが、雄一に出来たことでなかった。そんな事もできる自信も、勇気も無かった。
「頑張ってください……」
雄一は、ふと地面を向いてしまった。が、話しを逸らさなければと、脳内を過ぎった。
「そういえば、サンドイッチ頼んでませんでしたよね」
「あっ、そうだった」
「僕、頼みますよ……」
そう言うと、店員のおじさんにサンドイッチとアイスコーヒーを頼み、彼女との会話をしようとしたが、複雑に終わってしまうのが目に見えていた。