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資格――Qualification

――――――――――――――




 諸君、子供たちを教育するのになぜ我々教師が必要なのか、考えたことはあるか?


 そして、我々教師が子供たちに教える『教育』とは何か、深く考えたことはあるか?


 教育とは、かつての先人たちが残してきた英知・歴史・文化など、その他もろもろを我々現在を生きる者が、それらを解釈し、引用、時には発展させ次の世代へと受け継がせることを目的としている。


 だがそれは『教育』の、“数ある目的の一つ”にしか過ぎない。


 そもそも『教育』とは、我々人間が持つ可能性を育てることが究極の目的だと、かつての教育論者【メイビア】(注1)はこう述べた。


 『可能性に、限界は存在しない』



 ……しかし今日(コンニチ)の教育現場を見てみると、自分の能力にすぐ見切りをつけ、あきらめてしまう子供が増えてきたように私は感じる。


 特に酷いのは、まだやりもしてないのに、自分には無理だと自分に見切りをつけ、あきらめる子供がいるのだ。そんな根性なしは誰かが発破をかけない限り前に進むことができないだろう。



 発破をかける者、それは親や、我々教師だ。



 だが、大変嘆かわしいことに、発破をかけるべき者が子供のやる気をそぐことを言うのだ。



 ……各々の学校にもいるのではないか?一度胸に手をおいて思い出してくれたまえ。


 教師が、何よりも子供を支え、道を示すべき大人が生徒にあきらめろと言う愚か者を。


 して、それは教師だけでは止まらない。


 一番に自身の子を想うべき親が、己の子を苦しめているというのも現状なのだ。



 昨今の『家族』というものは、時としてとてつもなく息苦しい場所になっている。


 貴族の家に生まれたものは家名が持つ重圧に押しつぶされそうになり、特に期待されている者にとってその重圧は考えれないほど重くなっているのだ。これについては昔から議題に述べられているはずなのに一向にも改善されるようなそぶりがない。


 何故なのだ?何故子供たちが苦しまなければならないのだ。


 本来『家族』というものはその子において一番落ち着く、安らぐ居場所のはずだ。それが一部家庭において拷問場と化している現状に我々は黙って指をくわえろというのか?


 そんなのを、情緒不安の時期とされる十代の子供が耐えきれるだろうか。いや、耐えきれない。

 

 そんな子供たちを守るべきなのが我々教師ではないだろうか。



 学問や武術、礼儀作法などは、別に『学校』や『学園』などという“集団で勉学する所”に行かなくても専門の人を家に呼べは事足りるもの。親が教えるのもあるだろう。


 ……しかし、それでも『学校』に子供を行かせるのを義務(注2)にしているのは、『世界を知る』ためなのだ。

 


 さまざまな種族、性格、異なる価値観など等を教えるためには集団のほうが効率がいい。凝り固まった自論だけでもなく、他の者の考えを聞くことで新たな成長につながったりするからだ。



 そうやって子供たちは経験をし、大人になっていく。だが子供たちだけでは解決することが困難のことは必ずある。それに対しては子供たちだらけの集団の中に唯一大人である教師が手伝うのだ。


子供たちが多い学び舎の中で、唯一身近にいる大人として教師はその立場にいる。



 教師は家族ではない、ただの赤の他人だ。しかし、親よりも下手したら一番身近にいる大人が教師かもしれない。



 そしてその子を何よりもよく知る大人になるのも、親ではなく教師かもしれないのだ。



 子供は親の目がない時ほど自分らしさを出す子が多い。中にはむしろ消極的になる者もいるかもしれないが、やっぱり本当の自分らしさが出るのは学び舎にいる時のほうが多いだろう。


 それが教育を親元から隔離し、集団でやる大きな目的だろう。


 親からの期待という名の重圧から子供を守り、自分らしさを解き放つのが『学校』だと。



 ……しかし最近は『学校』が子供に重圧を与え苦しめてきていると、私は感じる。『彼(彼女)は優秀だから』『この程度はできて当たり前』『なぜできない、ふざけているのか』と。




 ……本来の、教師の存在意義を忘れ、学校の名誉や己の名誉などに固執し『教育』の真意を忘れた者に私はこう言いたい。



 ふざけるな!!と。



子供の成長を見守り支えるべき者がそんな腐った正念で『教師』を名乗るのは私は許さない。子供を苦しめ、その子が持つ『可能性』をも壊すものは教師を名乗るな!!




 私が欲する教師は『生徒を信じる』者だ。


 生徒が失敗して、やったことが報われなく、苦難に際悩んでも教師は最後までその生徒信じ続けろ。味方が一人でもいることはどれだけ嬉しいことだろうか、どれだけ心強いだろうか。

 

 信じてくれる、それだけで力強いものはないだろう。きっと、いや絶対にその生徒は苦難に必死に抗い続けるだろう。


 そしてその苦難に打ち勝ったときその生徒は大きく成長しているだろう。学や武を教えるだけが教師の役目ではない。子供たちの持つ可能性の扉を開くのが教師の役目なのだ。


 若き者たちの『可能性』は無限なのだから。



――――――――――――――



第326回 アイシス教育サミット

議題

 『教師に求める資格』


発言者

地上界(アース)

 聖エルモア学園学園長

マージス・ハレルヤ








(注1)

 【メイビア・アグヌクタス(魔人)】

リディアスの教育論者。子供の可能性を提唱し、現在の教育思想の先駆者とされている。



(注2)

 三界協議連盟……通称【DUV】

 Dreigemeinde(トライゲマインド)Uberlegungs(ユーバーレーゲン)Verbande(ヴァーバンド)が定めた憲法、通称【生命樹(セフィラ)(ロウ)】より


第三章 三界協議連盟加盟国国民の権利及び義務

・第26条 加盟国の国民全ての者は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。

・加盟国の国民全ての者は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。



―――月刊【七転び八起き】より抜粋





ここにおいての人間の定義はエルフやドワーフなども含めています。

私たちの世界では人間というのは【「人」を「言葉をもって協同して労働する生命体」としてとらえかえすとき「人間」という】とあります。

このフィクション世界においての人間は【「人」を「言葉をもって協同して労働する生命体」の総称】で例えるなら私たちは空を飛べる生き物(脊椎動物に限り)を【鳥】と総称するようだと考えてください。

生物分類で説明するなら

霊長類‐ヒト科‐○○属の○○属にあたる部分にエルフやヒトが入ると考えてください。


……文才がほしい

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