新規入居者の寝顔と推測
「初動が遅い、それじゃ迎撃の前に切って落とされるぞ、律希」
「はい師匠!」
「つないでからの、攻撃の流れはいい。だが目がおざなりだ、一ヶ所を注視するな」
「はい師匠!」
繰り出される律希の左掌底、右水平手刀、左背足蹴りをいなし、かわし、受けながら紅林は教えを口にし、律希もそれを動きに反映させようと努力する。
紅林たちの住まう洋館はぱっと一見すると雑木林にしか見えない広い庭を持っており、その一角の土を均した場所が律希にとっての道場となっていた。早朝の涼しく湿り気を帯びた空気の中、シャツにショートパンツ、スニーカーを身に付けた律希は、汗を散らして絶えず紅林に攻撃を連ねる。響く音から察せられる一撃一撃の重みは、十六歳女子のものとは思えない。
「攻撃の時は注視することで、フェイントになる時もあるが。防御の時は敵の全体を見て動きの起点を探せ。相手の視線、踏み込み、姿勢、仕草、重心。鏡で自分を見て、そういうのを研究するのもいい」
「はい!」
相対する紅林はというと、寝巻のパジャマにサンダル履きで律希の攻撃をさばいていた。服装だけ見るといかにもやる気なさげであるが、目は真剣そのものである。だが、律希は彼以上に真剣だった。左ジャブと共に踏み込んだ左足に力を込めると、右足を振り抜いた。
「せあ!」
「読めてる」
ぴし、と落ち葉を砕いて鋭く伸びてきた右ハイキックを屈んでかわし、紅林は軽く掌で律希の胸を押し込んだ。咳こんで動きを止めた彼女の背をとんとんと叩いて息を正しながら、紅林はのんびりと訊ねる。
「あと、さっきの五点に加えて大事な点がもうひとつあるが、なんだかわかるか?」
「けほ、えほ。え? さっきの、えー、と、視線、力点、作用点……」
「お前なにを聞いてたんだ。視線踏み込み姿勢仕草重心だ。メモっとけ」
「ははあ。メモメモ。それで、最後の重要ポイントはなんです?」
「最後の俺の攻撃がヒントだ」
息を整えた律希は身体を起こすと、身なりを見なおすように自分の身体を見下ろした。最後に受けた攻撃の位置、剣状突起の上の辺りをぽんぽんと叩くと、ひしと己の身体を抱きしめてほんのりと恨みがましい目で紅林を見た。
「……すけべですねー」
「よしこれでお前は破門だ永久にさよなら」
「まっ、まってください師匠! 冗談です! 冗談ですから!」
洋館に帰ろうとする背中に追いすがる律希に、紅林はものすごく嫌そうな顔をしながら振り向き、人差し指をつきつけて彼女の眉間を弾いた。
「ジョーク、禁止だ。嫌がる俺に稽古つけろってテメエがせがんだ時、ちゃんと言っただろが。少なくとも稽古中は性別忘れろ、でないと俺も本気で教えられねぇ、って」
「ははは、セクハラ目的のエセ武道家も同じこと言いそうですよねー」
「年齢のわりにちょっと発育良いからって調子乗ってんじゃねぇぞクソガキ。そもそも俺が教えてんのは武道じゃない」
「でもでも、思ったんですけど、それだと稽古のあとは師匠と弟子じゃないんですよね」
「そうだよ。だからいつも師匠って呼ぶのをやめろと言ってるんだ」
「はっ。ひょっとしてそれって師弟関係ではなく男女関係を求めて……みたいな」
「安心しろ俺お前のこと外では〝知人〟って呼んでるから」
「ひどい」
「で、六番目の重要点はわかったのか」
無駄話を強制的に切りあげた紅林に問われて、律希は目を泳がせて考えるフリをはじめる。そう、残念ながら素振りだけであり、そもそも先に言われた五点もロクに覚えていないようだった。毎度のことであったが、紅林も我慢して答を待つ。
「あー、えー、か、構えですか?」
「構えは姿勢の内に入れとけ。六番目に大事なのはな、呼吸だ」
呼吸、と言われて先ほどの息苦しさを思い出したらしき律希は胸を押えてああ、と納得した声をあげた。
「お前こうやって身体に教え込まないとすぐ忘れるからな。呼吸の間を見極める、それが六番目の重要点だ。試しにまた構えて、俺に一撃打ってみろ」
言われた通りにオーソドックスな構えを取った律希は、なんとか紅林の隙を見つけて打とうとしていた。しかし結局その一打は初動を見切られて、左のジャブは外に流れ、流した勢いで律希の前腕内側を滑ってきた紅林の掌が肉薄し、鼻の十センチ手前で止まった。
「まあ、俺の呼吸を読もうとしたのはいい。が、自分の呼吸を読まれるのも考えとけ」
「えええ? ちゃ、ちゃんと考えて、一定のリズムにしましたよー」
「それがダメなんだ。打つ瞬間って、息を止めるだろ?」
指摘されて、律希はまた構えを取り、試しに打ちこんでみる。確かに、口が閉じ、息が止まり、拳が出て――と、ここまできてようやく律希は気付いた。
「あ」
「ようやくわかったか。間抜けに開きっぱなしのお前の口、攻撃の少し前に息を止めるために閉じるんだよ。そこを見切ればあとは拳にビビらなきゃ、誰でもこれくらいできる」
「なんとまあ。でもそんなら、先に口閉じて打つように心がければ師匠に一泡吹かせることも」
「無理だな、お前つなぎは上手いけど単調で馬鹿正直な連携しかできないから」
今日はおしまいだとつぶやいて洋館の方へ今度こそ去ろうとする紅林は、小腹が空いてきたこともあり脇腹をさすっていた。
「えー、せっかくポイント教えてもらえましたのにー」
「一度にいくつも覚えられないだろ。反復練習して呼吸消すの覚えてこい」
むうむむ、と納得しかねる様子のうめきで紅林に稽古続行を要請する律希だが、取り合うことなく紅林はきびすを返して去る。その背中に追いすがって――無理やりにでも稽古に引き込みたい律希は、不意打ちで横蹴りを放った。
途端に左半身になって向き直り、紅林はいなさず肘で律希の足刀を受け止め、体勢を崩したところへ下段突きを落とした。もちろん寸止めである。
「足音で気付くわ、アホ」
「だはー、隙はどこにあるんですかー」
「今現在お前に突ける隙は無い。もうあと一年修行してようやくってとこだろ」
大の字になって寝転ぶ律希はじたばたと手足を震わせて、どうにも超えられない壁を見るように紅林の方を見上げる。律希が教えを請い始めた当初、紅林は「それほど高い目標とも呼べないからもっとまともなところで学べ」と突き放した。ところが彼女は聞く耳を持たずにつきまとい、ついにはひとつ屋根の下で暮らすようにまでなってしまった。
なんで俺なんだよ、と律希本人に訊ねたこともあったが、明確な返答は得られず今に至る。厄介な同居人であるが、幾分運動不足になりがちな研究員という職種に就いている身として、健康維持にちょうどいいか、などと紅林はしぶしぶ納得することにしていた。
「ほら、そろそろ朝食だ」
「ですか。あたしは汗かいたんでシャワー浴びてからにします」
「そうか。ほれ」
呼びかけると寝転がった律希に手を差し出し、身体を屈める。うれしそうに手を伸ばしてきた律希はがしっと指をからめるように手を握るが、紅林は顔をしかめると素早くそれを振り払った。律希はまた背中を地面にくっつけた。
「へ」
「握手じゃねぇ。さっさと出すもん出せ。おらおら」
投げだされた律希の両足首をつかんだ紅林が、足から腰までの下半身をがっくがくと上下に揺さぶる。ぎゃあああ、と朝の雑木林に甲高い悲鳴が響き渡った。次いで、小銭が落ちる軽い音。足首から手を離すと、素早い動きで紅林がそれを拾う。
「ひのふのみの、二枚足りないぞ。あと二百円」
「う、うう……すいません師匠、あとで支払います」
紅林にとっては、健康維持と共にビジネスでもある師弟関係だった。
館の中に戻ると三月が朝食の用意を済ませており、靴を脱いでホールにあがった紅林は匂いにつられるようにダイニングへ、シャワーを浴びる律希は共用の風呂場へ、それぞれ分かれて行った。
「おはよう、いつものことながらご苦労様だね吾朗」
「労うくらいならお前が代わりにやれよ」
「私はもうだいぶ忘れてしまったんだよ、そういうのは」
「ウソつけ。もの覚えのいいお前がそう簡単に忘れるわけねぇよ」
スキニージーンズに胸元からしぼってある紺色のカットソーを着て、長い黒髪をひとつに束ねた三月はエプロン姿でせわしなくキッチンの中をうろついていた。紅林は席に着くとトーストにバターと小倉餡をたっぷり塗りつけて皿に置く。その内サラダ、スクランブルドエッグ、ヨーグルトなどが運ばれてきて、やにわにテーブルの上は食卓の様相を呈していった。
「渡良瀬は?」
「まだ寝ているんじゃないかな。あの部屋は布団もベッドも一番質の良いものだしね」
「来客用だったか。だが寝具に金かけるってのは俺にはわからない感覚だよ。にしても、まあ、きっちりもてなしたおかげか、少なくとも寝込みを襲われることはなかったようだな」
屈み、テーブルの脚と小窓の間に渡していたテグスと鈴をパジャマのポケットにしまった紅林を見て、三月が目を丸くする。
「いつそんなもの仕込んでたんだい?」
「昨晩お前らが寝静まってからだよ。各部屋の前にもテグス張って引っかけといたんだ、音がしたらすぐ駆けつけるつもりでな。しかしお前、昨日渡良瀬の受け入れに難色示したわりには、ずいぶんとぐーすか寝てやがったもんだな」
「それは、あんたが手は考えとくと言うから安心させてもらったんだよ」
「四地の俺にそこまで頼りきるなよ」
あくび混じりに応じた紅林を見て三月はなにか言いたそうに口を開いたが、結局何も言うことなくキッチンの方へ戻っていく。言わないのなら必要のないことと判じた紅林は、朝食の準備ができたことを伝えに二階へ上がる。
ホールにある階段をあがり、吹き抜けの階下を見下ろすと早くも律希がほくほくした顔でキッチンへと歩いていくところだった。ぼやぼやしていると彼女に全てをたいらげられる可能性もあったため、紅林は急いだ。しかし二階奥にある玖珂の部屋には『精神統一中』と張り紙がしてあり、中からごりごり何かを削っている音が聞こえる。
「そっか、昨日飯はしばらく要らないとか言ってたな」
製作に入り集中しはじめると玖珂は毎度こうだった。といっても完全に断食しているわけではないらしく、一週間ほどこもってから出てきた時になぜか少し肥えていたこともあったので住人たちもさほど心配はしていない。よって呼びだすことはなく、回廊をぐるりと回った反対側にある空き部屋、まほらに与えた部屋の前へ行き、ノックする。
「渡良瀬起きてるか、朝食の時間だぜ」
とんとんと叩いても、返事は無い。不審に思い、ノックを強める。するとまたも返事がなかったので、不信に囚われ始めた紅林の頭の中には嫌な図しか浮かんでこなくなった。
夜中の間に館から抜け出し、偽術研究をスパイすべく研究所の方へ向かったのではないか?
「っ、渡良瀬、入るぞ」
焦りを覚えつつドアノブをひねって部屋に入る。すると、クローゼットと書斎机とベッドしかない部屋の中、力尽きたように布団にくるまっているまほらが、なぜかベッドの上では無く部屋の隅で眠っていた。
「……なんだ、本当にまだ寝てるのか」
身体を丸めて布団に埋もれるまほらは、耳をそばだてても聞こえないくらいに微かな寝息を立てながら、深く眠りこんでいた。朝食がなくなることを心配した紅林は近づいて起こそうとするが、そこでふと気付く。
まほらの目の下には、年齢に似合わないくまがうっすらとにじんでいた。昨夜は初体面が夜の屋外で、明かりのある館についてからは所在なさげにうつむいてばかりだったためか、まったく気付かなかった。――ずっと逃げていたんだっけな、とくまの理由に思い当たって、紅林は静かに立ち上がった。
今後の彼女の処遇については、正直なところ紅林も自身の計画への利用の後はなにも考えていない。様々な研究への転用が可能な、第一級国家偽術師さえ圧倒する魔力を保有する強力な〝バレッジ〟すなわち魔力貯蔵タンクを持つ少女。
魔力は、空間への影響力の他に魔力同士で引きあう性質を持っている。それゆえ偽術を行使するにはまず自身の魔力を触媒に術式で周囲の魔力を集めることから始まるのだが、生まれつきの魔力貯蔵量が多い者はそれだけで大規模な偽術を操る素養があることになる。
それは大竜事変以降、魔力がさらに薄くなった地脈断層大地外部でも、強力な術式、広範囲へ効力を及ぼす偽術を使えるということだ。たとえば空間を拡大する偽術と空間内の重量を軽減する偽術を併用すれば、狭いワンルームを数十人が収まるオフィスに変えることもできる。たとえば空間内の重力方向を操作する偽術を使えば、重機無しでも建材を運び低コストで仕事を成せる。
資格と階級が肩書きと技を示すものならば、魔力の多寡は偽術師にとっての実際の力である。それがかつて対災厄機構――〝Anti Catastrophe Organization〟に所属していた紅林が、四地に身を落として、ようやく実感に至った、真理である。
「……まあ、」
今は、休んでいればいい。同情からくる気持ちか、彼はそう思って扉を閉めた。
紅林はまほらの部屋をあとにすると一階に降りてから自室に戻って白のワイシャツと黒のボトムスに着替え、部屋を出る前に戸棚の上に置いていた紙袋を手に取る。片手に袋を携えてダイニングへ行くと、三月と律希の二人はもう食べ始めていた。
「まほらは降りてこないのかい?」
「まだ眠ってた。逃亡生活で疲れてるんだろ、そっとしといてやろうぜ」
「師匠が人のこと気遣うのなんてめずらしいですね」
「しばくぞ律希」
「しばくよりしごく方が得意じゃないですか、師匠は」
付き合っていられないと思って、律希から目を逸らすとトーストにかじりついた。ひとしきりもくもくと食べ進めて、テーブルに並んだその他のメニューも腹に納める。残りは冷蔵庫に入れておいて、まほらが目覚めたら食べさせることとした。
ほどなくして、食後の一杯に三月が紅茶を淹れる準備を始めるが、紅林は横から割り込んで白湯のみを貰い受ける。そこに水を注いで少し温度を下げ、ぬるくしたところで紙袋から取り出した錠剤を喉に流し込み、一息ついた。