逃亡少女の毒舌と対話
……と思いきや再会の時は意外なほど早く訪れた。
八尾はかなりの田舎町であり、夜八時を過ぎるとほとんどの店が一斉に明かりを落とす。もちろん、スナックや呑み屋などはむしろこの時間帯からが営業時間と言えたが、いくら明かりが点っていてもそれらの店は少女が近付く場ではないはずだ。
「……よう」
となると必然、誘蛾灯の働きを見せたコンビニの前には、少女が膝を抱えて座り込んでいた。買いだしを済ませて入口から出てきた紅林が片手をあげて声をかけると、少女はびっくりした顔でのけぞる。また逃げられるかと思った紅林はその場で立ち止まり近付かないようにすると、用件だけを口早に伝えた。
「あのな、別にここに留まるのは勝手だがな、もうじき閉店時間だぞ」
「え。うそ、閉まっちゃうの?」
心底驚いた様子でぽかんと口を開けたまま固まった少女は、明るい光の下で改めて観察すると薄汚れた身なりで、服装の簡素さといい何も荷物を持っていないことといい、紅林の目にはどうにも怪しく映る。
じっと見ていると、その紅林の視線に気づいたのか、慌てて口を閉じてそっぽを向く。
「ひょっとして、家出か」
目線が逸らされたのをいいことに、紅林は率直に問いかけた。少女は特に目立った反応は見せず、通りの向こうを見据えたままにちがう、と弱弱しくつぶやいた。
「だが警察には頼れねぇんだろ」
「そうだけど」
「なんで頼れないんだ」
「追いかけられるから」
「なに。じゃあさっきの連中、まさか警察だったのか?」
「ちがうよ。あいつらは、また別の奴」
「なんなんだ」
「よくわかんない……」
肝心の情報については黙りこんでしまい、紅林はどうしようもないな、と思い始める。そこで店主が表に出てきてシャッターを下ろし始めた。少女の方を見た店主は見慣れない顔に首をかしげたようだったが、紅林が話しこんでいるので知り合いなのだろうと判じたのか、そのまま店の中に引っ込んだ。通りは街灯と民家から漏れる明かりのみの、薄暗い世界となる。
「というか、お前ここの住人じゃねぇんだよな」
「そうだよ」
問いかけに答が得られた瞬間、紅林は目を凝らして少女を見る。
その周囲の空間を調べるべく――魔力を瞳に集めた。
「……どうやってここに入ってきたんだ? 大竜事変からこっち、地脈断層大地の出入りに際しては……入場者の周囲空間にパスをつけるようになってるはずだ」
ところが正面に回り込み睨むように少女の身体の周りを見る紅林が〝把握〟に至っても、なにも感知することはできなかった。紅林がなにをしているのかわかっていない様子の少女は、不審な人物を見るような目つきになった。
「なに、大竜事変って」
「はあ? いやおい、冗談だろ。五年前、この大竜地脈周辺で起こったアレだぞ。知らないってのか」
「わかんない」
「ホントかよ。日本の裏側に居たって、ニュースは届いたはずだぜ……ここの下にもある大竜地脈、その魔力量が大幅に減少したせいで八時間にわたって、関東と東海の〝偽術〟と偽術を使ってる機械類が使えなくなった、ってな大事件だぞ。つい最近まで砂漠のど真ん中に居たとかでなけりゃ、絶対知ってるはず」
「わかんないよ」
不安そうに眉根をひそめた表情を見せて、少女は紅林の言葉に耳を塞ごうとする。反応を見るに少女は本当に何も知らないようで、嘘をついているようにも思えなかった。
だがあの時、首都圏における偽術運用のストップでもたらされた被害は甚大なもので、その後半年にわたって日本は産業と経済の至るところにダメージを引きずったものなのだ。国内に居たのなら知らないはずはない、と紅林は断ずることができる。
しかも不思議なことに、この少女はパスも無しにここまで乗りこんできている……と、再度〝把握〟により少女の周囲空間になにか術式がないか探るが、しかしひとつの痕跡も見つからない。それでも目を凝らしてその作業を続け、その傍ら少女に再び尋ねる。
「話を戻すが、どうやってお前ここに入ってきたんだよ」
「……斜面を下りてきた」
「斜面ってお前、アレほとんどただの岩肌じゃねぇか」
「逃げてたから。険しい道の方が撤きやすいし」
「ありえねぇ……どっから逃げてきたんだよ」
「南の方。詳しくは、覚えてない」
語りたくないだけじゃないのか、と紅林は疑ったが、問いただしたところで真実を語るとも思えない。また「わかんない」と返ってくるだけのような気がした。
先ほどは明らかに誘拐事件としか思えない状況だった上に相手が拳銃まで所持していたためにとりあえず助けてしまったのだが、冷静に話を聞いてみると少女には不審な点が多かった。それに、そもそも紅林はこんなところで油を売っていないで、少女が無許可侵入者だとわかった時点で地脈断層大地への出入りを司る環境管理局に一報入れなくてはならない立場なのだ。
彼はこの地の研究所で働く〝地方偽術師〟なのだから。
「ねえ、じろじろ見るの、やめて」
「ん、ああ、悪い」
「〝空間把握〟したってどうせなにも見つかんないよ」
ぎくりとして、紅林は距離をとった。その対応の意図するところがわからなかったのか、少女はまた眉をひそめ、目を細めた。細められた鮮やかな茶の瞳に、魔力が集まるのを紅林の目が〝把握〟した。途端に紅林は臨戦態勢に入り、語気と警戒を強めて確認を取る。
「お前、偽術師か」
「そっちが先に空間把握してきたのに、なんでこっちがやり返しただけでそんな反応するの? わけわかんない」
少女は不思議そうに言うが、紅林の方は冷や汗が背筋を伝っている。警察に追われ、よくわからない連中に追われる少女の正体に、思い当たるところがあったからだ。
「……ここの偽術・地脈魔力研究の成果を盗みにきた、産業スパイかなんかだな」
「は、え?」
「でなきゃ追われたりしねぇだろ。ってことはさっきの連中も環境管理局の奴か? 蹴り飛ばしたりして悪いことしたな」
半身になって構えながら、じりじりと間合いを測る紅林。いきなり態度を変えられ、状況の変化についていけない様子の少女は、目を白黒させて後ずさりした。
「ま、待ってよ。わたし、スパイなんかじゃ」
「じゃあここに来た目的なり理由なり話していけよ」
「それは」
「言い淀んだな。とりあえず捕まえて環境管理局に突き出す」
「いやっ、そのっ、ちょっと、待ってってば。だいたい、あなたほとんど魔力からっぽじゃない。捕まえるなんて、無理でしょ」
今度は紅林の方が言い淀む番だった。
そうなのだ。先ほどの戦闘の際に、紅林は魔力をほとんど使い切ってしまっていた。現在かろうじて使える術式は周囲の魔力と術式の動きを察知するこの〝空間把握〟のみで、まともに大捕り物を行えるほどの余分な魔力は存在していない。凄んではみたが、既に紅林は窮地に立たされている。
「まさか」
思い返してみれば、先ほど少女が「結局この程度のことしかできないの」と言ったのも魔力量から紅林の戦力を見切った上での発言と考えられる。驚き慌て、紅林はよくよく少女の周囲空間の魔力把握に努めてみて、さらに愕然とすることを強いられた。
出入り許可のパスである術式を探すことに執心していたせいもあるが、それ以上に――巨大にして圧倒的すぎる魔力の奔流に己が呑み込まれかけていて、それ故に魔力量を感知することができていなかったことを知ったのだ。
紅林が先ほどの戦闘で使い切ってしまった量など、プールの水のようになみなみと湛えられたこの魔力量に比べればせいぜい、バケツの一杯といったところだ。膨大で莫大な流れは、常人に扱いきれる量を遥かに凌駕していた。
「一体、お前」
「ちょっと。ちょっと! だから構えないでよ。別に戦う気なんてないし、もちろんスパイなんかでもないんだから!」
唖然としつつも臨戦態勢は解かなかった紅林へ、少女は両手を突き出して抵抗しないとの意志表示をした。これほどの力を持ちながらなにを下手に出る必要があるのか、と紅林は訝しむ目線を向けたが、少女はあくまで真剣に、嫌疑を否定しようとしているだけと見える。
「じゃあ、なんでここに無許可で侵入したんだ」
「……わかんない」
「気が付いたら居たってのか? さっき自分で崖を下りてきたって言ったろが」
「ちがう。なんでここに、とか、どこから来た、とか、五年前の、とか。全部、ぜんぜんわかんないの」
「ああ?」
「たぶん、記憶喪失なの、わたし」
自分で自分を指差して、言った。その動作にすら疑いの目を向ける紅林だが、彼女は紅林以上に己のことを疑うような目つきで、うつむいた。
「だからなんでさっきの奴らに追われてるのかもわかんない。警察は……頼ったら、さっきの奴らが来て、『お迎えだ』って言われたんだよ。警察もグル。だから警察はダメ」
しきりに首を横に振り、警察はダメだと繰り返す。記憶喪失と言われてしまうと、先ほど大竜事変のことを知らなかったのもまあ納得できるようにはなってくるのだが。もちろん、少女が演技をしているだけで、やはりスパイであるという可能性も無くは無い。
「記憶、全部ないのか?」
「小さい頃のことはわかる。でも、ここ数年分が、ぽっかり」
「……なら、五年前の大竜事変のあとに地脈断層大地への出入りに規制がかかったのも知らねぇわけか。というか、お前も空間把握できるってことは、偽術師なんだよな」
「うん。少なくとも残ってる記憶の中でも、使えてる」
「その背格好で五年以上も前っていうと、残ってる記憶は七、八歳の頃だろ……そんな歳であの理論を理解できるのか? お前、外見老けにくいだけじゃねぇのか」
「そっちだって結構若そうじゃない。お互い様だよ」
「俺は十八だ」
「うそ? 中学生くらいだと思った」
ぐ、と喉元に痰がからんだような息の詰まらせ方をした紅林だが、目の前の少女は見た目通りの年齢だとすれば外見的特徴で貶せる部分がほとんど存在しなかった。言われるがまま言い返すことのできない紅林は、続けて問うことで話題を逸らした。
「とにかく、少なくとも五年間の記憶がないんだろ。だったら四年前に知覚空間限界距離の証明を発表した宮下恭二と佐野潔史って偽術師も知らないのか」
「へ? ……ええっと、佐野潔史は知らないけど」
「そうか」
「けど」
「ん?」
「あー、んとね。宮下恭二って、空間把握における範囲内物体の魔力励起発生と終束の方程式とか研究してなかったっけ? それともこの数年で終了して、他の研究に移ったの?」
「……いや……それで、合ってる」
きょとんとした顔で紅林を見る少女に、ぎこちなくうなずきを返す。
空間把握を使える偽術師ならば知っているべきこと、五年以上の記憶が無くとも偽術師ならスルーしてはならないこと。その二つを調べるための問いかけであったが、少女の答は完璧だった。
宮下は空間把握研究により世間に名を知らしめた偽術師であり、また彼は少女の述べた研究を七年前から開始して「予想では終了まで数年かかる」との考えを表明していたため他の研究をする暇などないと予想できるからだ。紅林の言った研究は、佐野潔史個人の物である。
もちろん、これも研究について相当勉強を積んでいるのであれば答えられない問いでもないのだが……知ってるふりを見破るのは容易いが、知らないふりを見破るのは難しい。現段階ではこれ以上に打つ手がないため、疑いつつも突き出す以外の対処を採ろうかと考え始める。
「それでお前、空間把握以外の術式は使えないのか」
「少なくとも今は」
「ならその魔力量は、なんだよ」
「生まれつき……っていうのは無理あるよね、やっぱ。わたし〝バレッジ〟持ってるの」
自らの脇腹をさすって、少女は苦笑いを浮かべた。紅林はその単語と少女の所作に目を見開き、今日は驚いてばかりの自分に心中で呆れ笑いしか出て来ない。
「少なくとも五年以上前、ACOに居たのは、確実なのかな」
紅林にとって懐かしき場、その後輩との巡り合わせに、彼は心中で口が裂けるほど笑んだ。