遭遇した誘拐犯の弁明と韜晦
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夜道。てくてくと歩く紅林はあくびを噛み殺して、ワークコートのポケットに手を入れた。林の横を通ると街灯に照らし出された白い看板の表に『まむし注意!』という看板があり、今買いに行こうとしているもののことを思い出した紅林は「まむし酒ってうまいのか」などと独り言をつぶやく。ポケットの中で、財布を転がした。
玖珂がまた作業場に引きこもった後、紅林は冷蔵庫を開けてジンジャーエールを飲もうとしたのだが、いつの間にか律希が飲み干してしまっていたために在庫を切らしていた。仕方なく買いに行こうと玄関へ向かわんとすると、ついでだからと三月に焼酎を、律希には食後のアイスを、気配を察してドアから顔だけ出した玖珂にはルートビアを買ってきてほしいと頼まれたのだった。すでに怒りは薄れていたものの、教授の注文はさすがの紅林も無視することとした。
それにしてもやはり、盆地のように窪みの内に内包された地形であるがゆえか、八尾の町は夜になってもまだ暑い。じとじとと袖口から入り込む湿気に紅林は辟易していた。
コートを羽織ってきてしまったことを疎ましく思いながら、緩めたシャツの襟元をぱたぱたと煽いで涼を得ようとする。むなしい努力を数分にわたって続けながら歩き、高い建物に遮られることがないために広く遠く見渡せる夜空を見る。澄んだ秋の空気が、崖の上、空の向こうにはもう漂い始めているように感じた。
蒼い月の光に照らし出される崖のシルエットは不気味な怪物のように、八尾の町を取り囲んでいる。一部崩落の危険があったところや、流通などのために切り崩された部分を除くとほとんどが六十年前のままに残された崖は、晒した岩肌をネットやコンクリート壁で覆われながらも、依然として人を見下ろし立ち尽くしている。
人の愚かさが生んだ地脈断層大地を、見下ろしている。
「考え過ぎか」
またあくびを噛み殺して、紅林は歩く。田舎であるがゆえか、商店街唯一のコンビニエンスストアも九時には閉店するため、急がなくてはならなかった。
そして急いで、速足で動いたために、紅林は出会った。
研究所へ向かう際にも毎度通る石橋に差し掛かり、あぜ道に入る紅林が田畑の脇道をなんとはなしに見やる。すると、育ち盛りの野菜が蔓を巻きつける支柱やネットの向こう側、闇の中に、ぼんやりと大きな輪郭が見えた。
「ん?」
見慣れないもののような気がして、畑を回りこんでのぞく。
そこにあったのは黒いワゴン車で、スモークガラス越しに点る車内灯で、中でうごめく数人の陰が映し出されていた。……すわ泥棒か、不法投棄か。紅林が成り行きを静観していると、道の奥からスーツに身を固め闇にまぎれた男が二人、現れる。ワゴン車に近付く二人に反応してか、スライド式のドアが開いた。
よくよく見れば男たち二人の間には少女が一人、手足を雁字搦めにされて猿ぐつわをかけられた状態で運ばれている。つまり泥棒でも、不法投棄でもなさそうだった。
「……未成年者略取の現行犯」
さてどうしたものかと頭をひねり、ポケットに手を入れるが携帯電話は家に忘れてきていた。ちょっとの外出だと思って油断した自分の不手際を嘆き、手持ちの道具を確かめる。
折り畳み式の財布。家の鍵束。いつか行った時の病院の領収証。あとは着ている服くらい。役に立ちそうなものはあまりない。
助けを呼びに行こうかと来た道を振り返るが、ばんばんと車のボディを蹴飛ばして車に押し込められないようにしている少女を見るに、そのような時間的余裕はまったくない。なんと言っても八尾町は田舎である、隣家は字面通りの意味を持たない。見回しても、自分以外の人はいない。いや、いても助けてくれるかどうか。
結局、この場で動くべき人間は紅林のようだった。逡巡すること一秒未満、彼はポケットに手を入れ、はあと一息、仕方なく覚悟を決める。
鍵束を左手に納め、指の間から先端が出るように握りこむ。たったこれだけの工夫でも、殴った際の殺傷力は飛躍的に上昇する。ついでに手頃な石ころを右手でつかむ。準備ができたので、暴れて車に乗せられないようにしている少女から視線をずらすと、ワゴン車の後部ガラスに向かって振りかぶった。
間をおかず破砕音。蜘蛛の巣状にびしりとヒビが入ったガラスはそれなりに大きな音を立てて、車周りにいた人間に威嚇の効果を与えた。
その隙を見逃さず低い姿勢のまま詰め寄った紅林は、踏み切った左足を軸に繰り出した右の前蹴りで少女誘拐犯の一人の急所を蹴り潰した。続けて地面に落として踏み込んだ右足に重心が移動した途端に、殴ろうと振りかぶるもう一人の男の左肩を右掌で殴って初動を制し、鍵束を握る左拳を顔面に叩き込んだ。
二人の男はほぼ同時にワゴン車にもたれかかってずるずると地面に落ち、どちらもが血となにかその他の液体の混ざり物で、じわじわと土を湿らせた。
「おいなんだ」「邪魔が入ったか」
スモークガラス越しに外で起こった異変に気付いたワゴン車の乗員たち四人は、少女を脇に抱えて逃げようとしていた紅林の退路を断つべく道の両側を塞ぐ。畑側はネットやビニールハウスで通りにくくなっているため、一人ならばともかくも、身動きとれない少女を抱えて逃げるのは少々難しそうだった。
「なんだお前は」
低い声で脅しをかけるようにスーツの男の一人に問われ、逃げ切れそうにないと判じた紅林は少女を地面に寝かせると、またポケットから鍵束を取り出して半身になり、左右を塞ぐ男たちのどちらから襲われても良いように構えを取ってから答える。
「通りすがりの善良な一般市民ですが、なにか」
「……一般人か? 本当に? ならば少しばかり手荒なことをしていたように見えても、仕方がないな……だが我々は事情あってこの子を運んでいる最中だ」
紅林の身なりや発言から何かを読み取ったのか。男は臨戦体勢を少しだけ崩し、説得、あるいは懐柔に移ろうとしたようだった。どうやら眼鏡をかけたその男がこのグループのリーダー格であるらしく、話し合いに移行した途端に残り三人が殺気を消して、構えを解いている。
「事情ってなんだ」
「守秘義務に関わるので話せない。これで信じろというのは難しいかもしれないが、なんなら我々と同行してもらって警察へ向かおうか。身の潔白を証明することはできる」
「いや、拳銃携帯してる人にそう言われても……警察行ったら捕まるだろ、フツー」
見透かしたような指摘に、男が言葉に詰まった。紅林は先ほどの男の左肩を殴った際に掌に硬い感触を感じたためにカマをかける意味合いで言ったのだが、反応を見るところ今左右を塞ぐ四人も拳銃は持っているらしい。やはり、という確信と共に、紅林は内心冷や汗を流す。当たれば死ぬ武器を相手取るのは、ひさびさなのだ。
「あんたらが、拳銃の事情まで話せるなら警察行ってもいいが。どうするよ」
「……どうしても穏便にことを済ませることができないらしいな」
「誘拐犯に言われたくねぇよ」
「だから違うと――まあ、一般人からすれば、その言葉も当然か。先に謝罪しておこう、悪く思うな。今日この場で起こったことをきみが誰に話そうと公に信じられることはなく、今から負う怪我について責任を問われる者は誰もいない」
「じゃあんたら誰だよ」
答はなく、眼鏡の男が無造作に踏み出してくる。どうやらすぐさま拳銃で一斉射撃ということはないらしく、その点だけでも紅林はほっとしていた。少なくとも徒手格闘に限定すれば、勝機は十分にある。紅林も三歩の間を詰め、眼鏡の男と正対した。
間合いに身を投じるか否かの境目で、眼鏡の男が息を吐き鋭い左の拳を打ちこんでくる。頭を振ってかわした紅林は、お返しにと自分の左、鍵束を握って殺傷力をあげた拳を打ちこもうと構えを取るが、これは正面の眼鏡の男を引きつけるためのフェイントである。
足音、及びに先ほど目視で捉えた背後の敵との距離感を元にして拍子を刻んだ紅林は、ここと直感した位置で前の足に移した重心を後ろに入れ替え、軽く曲げていた右肘をそのままに後ろへ突き込む。迫っていた男の左手が、紅林の攻撃で弾かれた。
奇襲に驚いて攻めあぐねた背後の男に向けて続けざまに左ストレート、右フックと連続して叩き込み、特に右フックが肋骨に喰らいついた感触を得たところで紅林は勢いをつけて反転、変則の左後ろ回し蹴りで斜め上から相手の左膝の少し下を踏み砕き、勢いをつけてまたも背後へ跳躍した。
「ぅぐっ!」
今度こそと背後から迫っていた眼鏡の男の挙動を読んでいるかのように、空中から横蹴りで右足刀を下腹部に食い込ませ、バランスを崩して倒れたところで胸を左足で踏みつける。淀みない連撃の前に唾液と胃液を吐き散らして眼鏡の男は気絶し、早くも残りは二人となった。
「止まれ!」
と、ここでとうとう拳銃が抜かれようとしていた。前方と後方、どちらも射撃体勢に入ろうとしている。だが――――抜かれる前に紅林の計算が始まっている。
目測から把握に至った距離で彼我の間合いを捕捉。
認識加速により算出した結果をトレースし周囲の魔力を拡散。
虚空の中で焦点を合わせた四立方メートルの空間を掌握。
空間へ魔力を充填し計算で導き出された術式を展開――ぎちり。軋みをあげた空間は、紅林の前に道を開く。
たった一歩、眼鏡の男を踏みつけた時の身を屈めた姿勢のまま踏み出しただけに見えた紅林は――ゼロコンマ一秒の時間も要さず、四メートルの距離を文字通り滑るように、身体の動きを止めたままに地面だけ動いているように、拳銃を構えた男の真横へ移動していた。
移動を終える時、男が構えていた拳銃のスライド部分をつかみ、押し込んでもぎ取る。分解された拳銃を成す術もなく握り、祈るように構えていた男が最後に見たのは、鳩尾に突き込まれる自分の拳銃のパーツだった。
「あ、ああああああ!!」「うわ」
背後の一人に話しかけようとした紅林だが、恐怖のあまりか、最後の一人たる男は話を聞くことも無く叫んで引き金を引いた。火を吹く銃口から放たれ唸りをあげて飛ぶ二発の弾丸は、目を丸くした紅林の眼前の空間に吸いこまれていく。
「……っぶねーな、突然に撃つなよ仲間に当たるぞ」
ところが狙い定めたはずの銃弾が、紅林に当たることはなかった。男は己の目を疑っているようで、動きが止まっている。撃たれた紅林としてもかなり素早く、精密な動作だったと称賛できる射撃だったので、撃った本人が自分の手ごたえと現実の差に驚いているのも仕方ないだろうと思った。
「っ!」
そこで今度こそとばかりに、男は再度指先をトリガーガードから移動させる。焦りと困惑が浮かぶ表情をちらつかせたが、引き金に指をかけた途端にそれら負の感情はなりをひそめる。相当な練習に裏打ちされたと見える、一秒とかからない心構えの変化が垣間見えた。
もっとも、その時には。構えようとした右手に、真横に高速移動してきた紅林の右手刀が振り下ろされ、続けざまに喉に貫手がめりこんでいたわけなのだが。
「遅ぇよ。……で、これで、ちょうど、だな」
ぼそりとささやき、紅林は手を打ち払う。
全て片付いたと、倒れ伏した六人の男を見やって、その間に倒れていた少女に近寄る。両手両足を縛るロープと口を塞ぐ猿ぐつわを見て、解くのは厄介そうだと思い眼鏡の男の懐などを漁る。案の定、ポケットナイフが出てきたのでそれを使って緊縛を断ち切り、改めて正面から少女を見つめた。
背丈からして年の頃は十二、三歳だろうか。前髪が長いのであまり窺えない表情は、まだあどけなさが残る印象を与える。やや低めのツーサイドアップに結った髪型も似合ってはいるのだが、これまたかわいらしいというか、幼く見えるというか。
「大丈夫か?」
「あ……」
警戒したのか、地面にお尻をつけたまま後ずさりして紅林からも距離を取る少女。少し傷ついたが、紅林としても六人がかりで誘拐する必要があったほどの少女がなにも危険なものを持っていないと断定できるわけではなかったので、距離を取られたことに警戒を強める。
だが古ぼけたデザインのTシャツとショートパンツ、あとは素足にサイズの合っていない大きなスニーカーを履いているだけの少女は、またなにか危害を加えられるとでも思っているのか、そわそわと前髪を撫でつけたり靴の具合を確かめながら、いつでも逃げられる体勢をとろうとしているだけとも思われた。拍子抜けして、紅林は告げる。
「安心しろ、なにもしねぇよ。帰れるならさっさと家に帰って、もう誘拐されないように気をつけて生活するんだな」
先に立ちあがって腕時計で時間を確かめた紅林は、九時で閉まるコンビニエンスストアに向けて小走りで行くべきだろうか、と思案する。すると砂利を踏みしめて立ち上がる音がして、少女がこちらを向いていた。
「なんだ? まだなにか……ん? そういや」
じっと見据えていると、少女が慌てた様子で後ろ手を組んで退き、やはり逃げ出そうとしているなあと紅林はしみじみ実感し、きっとひどい目に遭ったのだろうと同情する。
「そういや、この辺で見ない顔だな。ここは狭い町で小中学校しかねぇし、俺も大体の顔ぶれは覚えてるんだが……遠くから連れて来られたとかか? なんなら交番までは案内するが」
どうだ、と提案すると少女は動きを止め、警察、と反芻するかのようにつぶやくと、首を横に振って、紅林が進もうとしていたのとは反対の方向に向かってじりじりと移動する。
「警察、ダメだから」
「ダメって。んなこと言われたらどうしようも、」
「ねえ」
言葉を遮って、少女はつぶやく。
紅林が顔をあげると、なんらかの意を決した面持ちで、真っ向から紅林を睨みつけていた。
その表情は歳に似合わず、どこか色づき始めた強い力を伴っていて、紅林は気圧される。
「――結局、この程度のことしかできないの?」
弾劾する語調で静かに言いきった少女は、呆気にとられてその場に縫いつけられる紅林を尻目に、くるっと身体を反転させると駆けだした。
あとに取り残された紅林が追いかけよう、という意志を肉体に反映させることができるようになった時には少女の姿は闇に掻き消えたあとで……戸惑いを隠しきれない紅林は。とりあえず、当初の目的だったコンビニエンスストアへの買いだしを済ませようと、走り出す。
この程度、が何を指しているのか、それ知ることだけに思いを囚われそうになったが。
そうも固執する理由がないと己を納得させて、諦めた。