雑用研究員の諦念と嘆息
たん、とエンターキーを打ちこみ、報告書は完成した。一瞬の間をおいてあー、とうめきながら背伸びした紅林吾朗は危うく椅子ごとひっくり返りそうになって、下半身に重心を移す。
「うおっと」
残業を持ち帰らずに済んだ安堵から、気が抜けたらしい。着地の衝撃で机の上で横倒しになりかけたコーヒーの缶を慌ててつかんだ紅林は、部屋の時計を見つつ中身の残りを呑み下す。
時刻は六時半。定時で帰宅した上司は既にテレビでも見ながら一杯やっているんだろうと思うとやるせないが、この解放感を味わう時は何にも勝る至福の一瞬である。上司のことはかぶりを振って忘れることにし、紅林はノートパソコンの電源を落とすと鞄を片手にその場をあとにした。
町外れの斜面を削って建てられた灰色の四角い建物は、振り返ると薄闇に飲み込まれていく途中でなんだか薄気味悪い。守衛から聞くところによると、近所の子供からは「あくのほんきょち」などと設定付けをなされてしまったという。大層な話だろ、と紅林から鍵を受け取った守衛は嘆息する。お疲れ様です、と紅林は会釈した。
門の横の通用口から出て、悪の本拠地、もとい、自らの職場の名〝東海地方大竜地脈第三組成研究所〟と記されたプレートを撫でる紅林はワークコートの襟を正すと歩き出した。十月に入りちらほらと落ち葉が舞う頃合いになってきて、研究局のある斜面の木々も色づきはじめている。寒くなる前にと購入したコートは、今はまだ少し暑いようにも感じられていた。
「帰ったら夕飯食って、買った本読んで、明日は休みだから研究の方を……」
独りごとを言いつつ広い道に出ると、周りにあまり高い建物が無いために遠くまで見渡せる景色を眺めることとなる。ここに紅林が移り住んで早数年、今では慣れた光景だが、じっくりと見つめるとやはりどこか異質だ。
「ふーむ……」
普段は単なる田舎にすぎないこの町はこの時間帯、一本の境界線によって二つに切り分けられる。その境界線を作り出しているのは、この町の地形だ。東西は二キロ、南北は三キロ弱という長方形に近い町は、ぐるりと崖に囲まれていた。
崖といっても五メートル、一〇メートルのものではない。日本地図の中へ巨人が足跡を残したかのように、ぽっかりと。平均五〇メートル、場所によっては七〇メートルにもなる崖がそびえたち、その高低差によりこの時間は崖の縁で西日が遮られ、町を分割する光と影の境界線が生まれるのだ。
いま現在、八尾というこの町だけでなく全世界の至るところにこのような穴があいている。
六十年前の大戦の折に沈んだこれらの土地は地脈断層大地と呼ばれ、研究所が建てられていることが多い。そして日本の地脈断層大地は全部で三十七ヶ所あり、紅林の勤め先の名称に冠せられた〝第三〟とは三十七ヶ所中、東海地方には九ヶ所を数えるうちの三番目ということを示している。
境界線はずずずと少しずつ移動していき、町を影の中へ飲みこんでいく。己を閉じ込める柵のごとくそびえる崖から逃れるように、紅林は帰路を急いだ。
さびれてシャッターが下りているばかりの商店街と、断層の上から降り注いだ滝が源流である幅の狭い川を越えて。田舎らしいあぜ道をすたすた歩き、舗装された道へ出る。その通りから両側を林に挟まれた道へ方向を定め歩くと、隠れ家のように佇む洋館が現れた。
「ただいま、っと」
つぶやいて紅林が鍵を握る。
レンガを積んで形作られた白亜の壁面は、ひび割れとツタが這いまわる。表面はすすけて黒ずんだ色合いで古さを晒してはいるものの、決してそれだけに留まらない、年代を経てこその風格らしきものが窺えた。ドアの上部ではランプに灯りが点っており、紅林はほうと一息つく。
薄青に透けて見えるガラスをはめ込まれた両開きのドアを抜けると、ホールがある。天井からは小さめだが輝きを振りまくシャンデリア、それと高さを同じくして二階の回廊が見えた。玄関先で靴を脱ぎ、磨き抜かれた大理石の床を斜めに横切る紅林は、そのまま一階左奥に位置する己の部屋へ引っ込んだ。
コートを脱ぎ捨て襟元のネクタイを緩め肩にかかったサスペンダーを下ろし、ベッドの縁に腰かけて鞄を放り投げる。机の上に滑り込んだ鞄は、窮屈そうに本を押しのけて動きを止める。本の山を崩しかけたことに気付いた紅林は、あっと声をあげてまずいことをしたと気付き、今後は乱雑に物を投げないことを心中で誓う。
ホテルの一室に似るこじゃれた内装の部屋は、しかし床にも机にも棚にも本や書類が溢れており、部屋の主たる紅林以外はまともに歩くこともできないほどだった。とはいえ汚いわけではなく、ほこりやゴミが溜まっているわけでもない。単に本の置き場がなく、また彼にとって手を伸ばしやすく把握しやすい位置を模索した結果がこの有様なのだ。
「吾朗、帰ってきたのかい」
ぐったりとベッドに伏していた紅林に、ドアの外から声がかかる。身体を起こした紅林は、脇においたコートをつかむとドア近くのフックに引っかけ、ノブを回して来客を出迎えた。
ドア横の壁に肘をついていた彼女、如月三月は腰に届くほどの長さを誇る緑の黒髪をたなびかせ、鋭いまなじりから飛ばす視線で紅林を見下ろす。身長差があるために見下ろされてしまうのはいつものことだったが、ネクタイを外して胸元のボタンを外し、タイトスカートに包まれた足を交差させている彼女の様は少々扇情的とも映った。
が、ころころ笑う彼女の片手にはバーボンの入ったグラスが握られており、ごくわずかに朱の差した頬が既にできあがっていることを示唆していた。シャツの襟元が緩いことも、酔って暑くなってきたがためだろう。三月に他意はなく、酔っ払いの介抱という面倒事の未来だけが紅林の眼前にぶら下がっていた。
三月はすわった目でじっと紅林を見下ろし、彼の疲れた様をつぶさに観察して、言った。
「おかえり。報告書はちゃんと片付けてきただろうね?」
「家で仕事したくねぇからな。先週の地脈魔力粒子反応実験の経過報告も合わせて作っといた」
「それは御苦労さま。ワイルドターキーあけたからあんたも呑むといいよ」
「俺はまだ未成年だ」
片手をあげて断ると、自分を見下ろす三月の横を通り過ぎて、キッチンスペースに入り冷蔵庫から残り物の食事を引っ張りだす。キッチン奥の八人掛けダイニングテーブルに自分の食事だけを並べ、向かいに座った三月がグラスにバーボンを注ぐのを横目で見ながら、手を合わせる。箸を手に取り、もくもくと食事をはじめた。
「教授は夕飯済ませたのか?」
「作業場へこもってるから、今日明日は食事要らないそうだよ」
「そうか」
「あんた、私には聞かないんだね」
「どうせまた減量中だろ。そのくせお前酒は呑んでるってんだから、かける言葉なんて見つからないんだよ」
白飯と、炙った薄切りの牛肉を口の中に放り込みながら、紅林は三月の呑むバーボンのボトルを指差した。反論できず言葉に詰まった三月は「それは置いておいて」などと話題を逸らし、ついでに視線もあさっての方へ逸らした。
「して、実験の経過はどのようなものだったかな?」
「山井が作業続けてるが、昨日と大して変わってねぇよ。魔力粒子の励起状態を維持させてる」
「ならいいのだけど」
「つうか経過が知りたきゃ自分で見とけばいいだろ……なあおい、首席研究所長殿」
自分に仕事を押し付けて先に帰宅し酒をあおっていた上司を睨めつけながら、紅林はもぐもぐとほおばった飯を咀嚼した。ぎぎぎと首を動かして、三月はさらに大仰に視線を逸らしていた。せっかく話題を変えようとしたのに、藪蛇であった。紅林は続ける。
「ただあれだな、六日前の朝に起こった魔力値変動が気がかりだ。この辺の地脈全体で、かなりがくっと下がってたろ」
「それ、あんたが何かしたわけではないだろうね」
「馬鹿言え、俺は忙しくてそんなイタズラ仕掛けてる暇なんざねぇよ……さあそろそろ仕事の話は終わりにしてもいいか? 家に居る時はなるだけ仕事から離れたいんだ」
「大して残業してるわけでもないだろうに。今日もたったの一時間半ぽっちじゃないのさ」
「じゃあお前がやれよ」
「いやだね、私よりあんたの方が効率よくやれる」
「じゃあせめて残業代出せよ」
「給金は私の一存で決められることではないんだよ」
「じゃあ個人的小遣いをお前から」
「却下」
つれない態度でグラスを傾けた三月に向けて下唇を突き出した紅林は、舌打ちして茶碗の白飯をがふがふとむさぼった。
「劣悪な労働環境を作るお前に所員率いて反旗を翻すぞ」
「あんたにそんな人望があったとは驚きだよ」
「いや、人望なんて無い。だが人間煽動するには結果さえ見えてればいいんだ、発端は脅しでやらされたんだとしても結果として労働環境が改善されりゃ誰も文句言わねぇだろ」
「ストなんて起こされても所員が取っ換え引っ換えされるだけだと思うなあ。そも、あそこは私のワンマンアカデミーだしね、上は頭の私さえ抜けなければどうでもいいのだと思うよ」
澄ました態度で笑う三月に、紅林は心底がっくりきた様子で箸を止めた。三月が黙ってもうひとつのグラスにバーボンを注いでそっと差し出してきたが、紅林は受け取ることなく椅子の背もたれに深く寄りかかり、頭を抱えた。
「少しくらい俺にやさしくすることを覚えろよ。大体だ、たしかにあの研究所はお前のワンマンアカデミーだがな、研究成果の七割弱は俺が出したものだろうが。対応をもう少し改善していただけないかと進言します」
「意見を却下します」
「なぜだ」
「なぜならその七割弱のうちの七割に山井と私が関与しているから。いわば実働部隊が私たち二人だから」
「おい、おい。実働がお前らっつってもそこに至るまでの主導と実験内容の提示とその他雑務と報告書と、ほとんど俺がやってんじゃねぇか」
「でも私たち抜きではまず実験自体ができないはずだね。あんたには〝資格〟がない」
返す言葉に詰まり、紅林は椅子にもたれて見上げていた天井から視線を落とす。目の色だけが奇妙に酒におぼれていない、不思議な表情をした三月が、じっと紅林の脇腹の辺りをみていた。
視線を振り払うように立ち上がった紅林は、冷蔵庫の方へ歩きながら流し目で三月を見やり、苦々しげにつぶやく。
「窮屈な国だなここは。某国にヘッドハンティングでもされねぇかな」
「昔ならいざ知らず、いまのあんたをわざわざ引きぬくモノ好きはいないね。私以外には」
恩着せがましく己を指差す三月に、紅林は何も言わず冷蔵庫の扉を開ける。ジンジャーエールのペットボトルを開けると中身を呑み下し、こみ上げる吐息を胃の腑に納めた。