閑話 Love & Affection
カトーという人間は、人生における優先順位で『恋愛』を一番に持ってくるような生き方をした事が無い。彼がかつて生きていた世界は、ひたすら好きだの愛してるだのといったありがちな言葉を連ねた歌で溢れかえっていた。そんな歌を耳にする度にカトーは、偶には恋愛以外の曲を歌えないのかとウンザリとした顔をしていたのだ。それが恋愛と無縁な男の僻みから来ているのか、はたまた世間の風潮に迎合したくない天の邪鬼な気質故なのかは分からないが、とにかくカトーは恋愛とは無縁、女性に執着する事の無い人生を送った。そしてその姿勢は彼が一度命を落とすまで貫かれる事となる。
しかし彼は変わった、良くも悪くも。かつて誰もが恐怖した神経質で怒りに満ちたような表情は見る影も無く。カトーはその頭の形状も相俟って、ただ穏やかな地蔵様の如き笑顔を浮かべるまでになっていた。ホテルの一室、いつも寝ているベッドの上、自分の胸板の上で安らかな寝息を立てている恋人を見ながら、カトーは以前の彼を知る者なら目を疑うような緩みきった間抜け面をしていたのだ。
恋人であるセーラがムニャムニャと口を動かす。そしてボンヤリと目蓋を開けると、カトーの視線に気づいて「エヘヘへ……」と照れ笑いをしてみせた。その様子に逐一悶えながらカトーは言う。
「朝から『ムニャポ』『起きポ』『照れポ』の怒涛の三連ポ攻撃とは……セーラは俺を『ポ死』させるつもりなのか」
「ほえ?」
頭のネジも幾分緩んでいたらしい。カトーの意味不明な言葉に、寝ぼけたセーラは反応出来ないでいた。
カトー・シゲユキ、26歳。彼は今このフォーリードで幸せな第二の人生を歩んでいる。
◆◆◆カトーとセーラ◆◆◆◆
まだ眠い身体を無理矢理起こして、セーラはベッドを降りる。クエスト終了の翌日という事で今日は休みを貰っているのだが、規則正しい生活をモットーとするカトーに習ってセーラも一緒の時間に起きる事にしていたのだ。カトーは豪快なようでいて、割とこういう所はしっかりしている。そしてセーラはそんなカトーが好きだった。
朝起きたらオハヨウと言ってくれる。ご飯を食べた後は歯を磨こうと誘い、1日の終わりには一緒にお風呂に入ろうと言ってくれる。勿論普段からそんな事は言われなくてもやっていたが、声をかけてくれるのがセーラには嬉しくてたまらなかった。それは長く一人で生きていたセーラが心のどこかで求めていたものだったのだ。まだ家族が家族らしい形をしていた頃の、両親との思い出。特に父親がセーラの面倒をよく見ていた事もあって、セーラはついついカトーに父親の姿を重ねてしまう。以前その事を後ろめたく思いカトーに謝った事があったが、カトーは笑って「構わないよ」と言った。「それだけ大切な人と重ねて貰えるなら嬉しい。実は俺もセーラに母親の面影を重ねた事があるし。おあいこだな」と。それ以来、セーラは今まで以上にカトーに甘えるようになった。
「さーて、お次はシーツを洗ってしんぜよう。『ウォータージェイル!』」
「おぉ~……」
さすがにこんな事までは父親もしなかったが、カトーのこうした綺麗好きな所もセーラは好きだった。便利な魔法を使って、身の回りを清潔に保つ事を怠らない。だからホテルの従業員たちからも評判が良くなる。そんなカトーが、セーラは誇らしかった。
「そして水気を取って乾燥させます。『マッスルミスト』」
「マッス……!? あ、なんか出て来ました、なんか……こわっ!」
「間違えました」
時々こんな奇行に走るものの。それすらお茶目に思えるのだから、恋は盲目とは良く言ったものだ。端から見れば間違いなく二人はバカップルであった。というか、普通に『お馬鹿』だった。
さて朝食を取って部屋に戻り、仲良く歯磨きやら何やらをしてから、カトーは一人クランハウスへと向かう為に準備を始めた。一応Bチームのリーダーであるカトーは、毎朝クランハウスに顔を出すようにしている。緊急で指名の依頼が舞い込む可能性があるし、ローランドが休みを取る時はカトーが薬草の水やりをする事になっているからだ。また、この日はそれとは別に用事があった。
「リリーの相談って何だろうな。俺に不満があるとかだったらショックなんだが」
「大丈夫ですよ。一応私やルシアさんたちは知ってますけど、ちゃんと前向きな相談ですから安心して下さい」
セーラたちが到着してから、一度クランハウスに戻った時にリリーから二人きりで相談事があると言われたのだ。指定されたのは今日の午前10時。その為、カトーは午前中をクランハウスで過ごす事に決めていた。
「苦情とかじゃないならひとまず安心だな。さすがに最近自分でもはっちゃけ過ぎてるんじゃないかと心配だったんだが」
「カトーさんはそのままのカトーさんでいて下さい。私はそんなカトーさんが大好きですから」
「セーラ……」
抱き合う二人。愛に満ち溢れた光景である。実はこのセーラの甘やかす発言がカトーを有頂天にさせて彼の奇行をエスカレートさせているのだが、指摘する人間が居ないので誰も止められなかった。カトーとセーラ、もしかしたら最強だが最凶にもなりかねない、危険な組み合わせなのかもしれない。
◆◆◆フレイとルシア◆◆◆◆
グランドホテル・フォーリードの二階、階段近くのツインルームにはフレイとルシアが寝泊まりしている。カトーたちの部屋と比べたら小さいがそれなりに広い小綺麗な部屋で、このホテルの中ではまあまあ良いランクの部屋だったりする。宿泊場所にだけはお金をかけよう、というフレイの強い希望によって選ばれた部屋だが、それは長く冒険者をやってる人間だからこそのお金の掛け方だった。精神的な面でのゆとりが、安いホテルとは段違いなのだ。
しかし今日のフレイはそうしたゆとりとか言う以前にだらけ過ぎていた。のびのびであり、ごろごろであった。今もベッドに横になりながらルシアに膝枕をしてもらい、頭を撫でて貰っている。とろけきったフレイの様子に、ルシアも苦笑いを浮かべるしかない。
「フレイちゃんは本当に遠慮が無くなったよね」
「いーじゃん……今まで我慢してたんだから。アメリアさんも撫でるの上手だけど、ルシアも上手だね~……」
「うーん、まさかあの時見た光景を私が再現するとは」
甘えるフレイの頭を、ゆっくりと撫でるルシア。その黒髪はとても柔らかく、さわり心地は癖になるくらいに滑らかである。そしてピョコンと立った猫耳は指が触れる度にくすぐったそうにピクピク動き、お尻からにょきっと伸びた二本の尻尾はそれにつられるようにユラユラと揺れた。
そう。フレイは獣人である。
猫耳としっぽを持った猫人族であり、その中でも極めて珍しいネコマタだったのだ。いつもは幻術で必死に隠していたのだが、今回の旅の最中にカミングアウトしてからは猫人族の本能の赴くまま、仲間たちに遠慮無く甘えるようになっていた。
そこに至るまでの経緯を説明しよう。
彼女たちの請け負った仕事は、リーフダンスヒルという僻地にある学校で料理の指導とアイデアを提供する事だった。指名されたアメリアを中心としてその仕事に挑んだわけだが、初日にいきなり思わぬトラブルが発生する。
それはセーラの態度の変化に端を発した、メンバー間の摩擦だった。
セーラは普段人当たりが良いように見えるが、実は物凄い人見知りをするタイプだった。いつもであればカトーがそばにいたり、ボンゾやクレアたちといった家族とすぐに会えるから精神的に安定しているが、今回は完全に切り離されてしまった状態である。街から離れるにつれ表情が強張り、修道女学校についた時には圧倒的多数の知らない人たちに囲まれてかなり緊張していた。実際に仕事を始めた時に先ず各自で料理のアイデアを出し合う事になったのだが、セーラは何かを思いついても口に出せないでいた。そんなセーラの精神状態を理解出来ない他のメンバーは彼女の煮え切らない態度に戸惑い、日頃セーラに思う所のあったルシアなどはつい感情的な言葉を投げかけてしまう。
結果、セーラはパニックを起こしてその場から逃げ出してしまった。右も左も分からないような、見知らぬ土地で。
セーラが何かしら精神的なトラブルを抱えている事を察したアメリアはすぐさまメンバーを率いてセーラを捜索。近くの森に逃げ込み、風の防御魔法『エア・ガード』で檻を作って引きこもるセーラを発見する。森の中、入り組んだツタや背の高い草木をリリーとアメリアが斬り飛ばし、なんとか近づいて説得しようとするも声が届かない。そんな時に状況を打開したのがフレイだった。
フレイは狩人である。元々風を読む技術に長けていた事と、風の魔法を得意とするアメリアと組んで長かった事で、風に対する親和性は高くなっていた。つまり風属性の耐性を獲得する下地は出来ていたのだ。そこにカトーの成長補正がかかり、フレイは耐性どころか風を無効化するレベルにまで成長を遂げていた。自分なら彼女のガードを突破出来ると考え、勇気を持って魔法の檻に突撃するフレイ。彼女の頭の中には『もしかしたら幻術が他の魔法に触れてキャンセルされてしまうかもしれない』という不安が一瞬よぎったが、セーラをこれ以上一人にしない為に覚悟を決める。結果的に彼女の試みは成功し、風の檻に大きな亀裂を作り、ルシアがその隙間に飛び込んでセーラと直接話し合える状況にまで持って行った。しかし懸念していた通り幻術は解け、フレイは自分の正体をメンバーに晒してしまう事となる。彼女自身は風を無効化出来ても、彼女の幻術は無理だったらしい。
その日は仕事にならず、結局皆は宿泊施設に移った後で話し合いをする事になった。セーラは自身の過去と直感スキルの事を、ルシアはカトーへの想いとセーラに抱いていた嫉妬心を。大人であるアメリアとリリーが見守る中、話し合いは深夜にまで及ぶ。フレイの素性と悩みもその時に明かされ、互いに分かり合えた三人は今までが嘘のように仲良くなったのだった。リリーなどは「やっぱり年の差を感じる。若いって良いよね」と言ったが、元々優しい性格をしていた三人だからこそ丸く収まったのだろう。
とにかく、そこでフレイは自身が猫人族である事を明かした。問題は何故隠していたかという点だが、それは彼女が猫人族の中でも忌み嫌われている『黒毛』である事。そして特別力の強いネコマタだった事に起因する。黒毛だというだけなら……もしくはネコマタというだけなら隠すことまでしなくとも良かったが、この二つがセットになると話は別なのだ。
かつてこの世界で引き起こされた大きな戦。その本質はマレビトを中心とした神々の代理戦争であったが、この世界の人々にとっては種族の存亡を賭けた戦いだった。実際獣人族の中にはこの戦いで絶滅してしまった種もあり、流れた血の量は大河に匹敵すると言われたほどである。そんな時代にあって、猫人族は種族内でも対立して争うという最も悲しい血の流し方をしている。
毛の色による差別。黒は不吉であり悪の色。そんな理不尽な差別のされ方をしていた黒猫人たちは魔族と手を組み、それ以外の猫人たちはエルフやその他獣人側についた。その時黒猫側を指揮していたのがネコマタの女であり、彼女の異常なまでに抜きん出た力によって多くの猫人が殺される事になる。黒いネコマタ、それは大戦が集結して長い年月が過ぎた今なお猫人族の中で忌み嫌われている存在なのだ。
フレイは貧しい黒猫の家に生まれた。差別と貧困、そして暴力の中で必死に生き延び、幻術で他者を欺いてやっと仕事にありつく日々。両親が自分を置いて失踪してからは、比較的差別の少ないフォーリードに流れついた。そして冒険者として日銭を稼いでいた時に、アメリアに才能を見いだされて今日に至る。その間誰にも甘えず、ただ必死に突っ走って来たフレイ。やっと本当の意味での仲間を得た今、彼女は今まで我慢してきた猫人族としての本能を解放して、こうしてルシアに甘えまくっているのだ。
「ごろごろごろごろ……」
「フレイちゃんは頑張ったもんね。これくらいは構わないよ、もっともっとみんなに甘えていいんだよ」
「もみもみもみもみ……」
「やめんかコルァ」
ビシッとチョップを食らって悶絶するフレイ。筋力がガンガン成長しているルシアのツッコミはなかなかにヘヴィだった。
「いたたた……。
でもさー、やっぱまだ不安なんだよね。セーにゃんはああ言ってくれたけどさ、幾らカトーさんが強くて心が広くて常識ハズレでも、私みたいな厄介者がいたら迷惑に思わないかな。私の事知ったら、嫌な気しないかな。甘えたら嫌がって怒らないかな……」
泣きそうな表情を浮かべるフレイ。彼女はルシアのように切実な恋心をカトーに抱いているわけではない。ただ、受け入れて欲しい、守って欲しいという欲求が強いのだ。カトーはこの世界の常識をまるで知らず、差別もしなければ偏見も持たない男だとセーラは言っていた。そんな彼なら色眼鏡で見るような真似はしないのではないか。ありのままの自分を見てくれるのではないかと思っていた。そしてそれはフレイが幼い頃から強く望んでいた事だったのだ。想いの種類は違っても、その強さだけはルシアにも負けないものを彼女は抱いていた。
だからこそ、ここまで怖がっている。不安になっている。すぐ会いに行ける距離にいるのに、いざ打ち明けようと思うと怖じ気づいて会いに行けないのだ。そんなフレイの頭を撫でながら、ルシアは優しい口調で声をかけた。
「フレイちゃん、カトーさんなら大丈夫。きっと受け入れてくれるし、守ってくれるよ」
「うん……そうだといいなぁ」
「よく思い出してみて。ネイさんを受け入れて、生活まで面倒見ようとした人なんだよ? いきなり猫耳や尻尾が生えたってびっくりしないよ、ほらカトーさんだって羽生やしたりキツネになったりしてたんでしょ?」
「アレと一緒にすんじゃねえ!?」
想いを募らせていた男をアレ呼ばわりである。さすがにフレイにも譲れない物があったらしい。
その後もベッドの上でだらけながら、二人はのんびりと部屋で寛いでいた。思い出話や恋の話に花を咲かせながら、まったりとした休日を過ごすのだった。
◆◆◆カトーとリリー◆◆◆◆
クランハウスについたカトーは早速ローランドとクロスに仕事の有無を尋ねたが、指名の依頼は無いという事なので予定通り今日を休日とする事に決めた。幸い今月はかなりの収入を得ており、いっそこのまましばらく休んでも良いくらいなのだとクロスは言う。以前カトーであれば仕事があれば目一杯詰め込む所だが、リーダーを任され責任ある立場となった今ではそんな真似をするはずもなく。言われるままに今後も緩やかなペースで仕事を入れていこうと今後の方針をローランドに告げた。
そして約束の時間。会議に使う部屋にて、カトーとリリーは向かいかってソファーに腰をかけていた。
「さ、さささあリリー、言いたい事があるなら何でもいいいい言ってくれ」
「なんで私よりもカトさんが緊張してるのよ……」
呆れて肩の力が抜けるリリー。少しでも緊張していたのが馬鹿らしく思えていた。しかし大事な話なので改めて真面目な顔をして続けた。
「あのね、カトさん」
「う……うむ」
「すぐに、というワケじゃないんだけど……というかウチのお母さんのお店が上手く軌道に乗って借金を返してからだからだいぶ後の話なんだけどね。私、学校に通いたいの」
「……学校?」
リリーの言葉を聞いて、すぐにカトーは気づいた。思えばこの仕事を受けると決めた際に彼女は学校に強い興味を示していたのだ。今回初めて学校生活に触れて、思う所があったのだろう。このまま冒険者を続けて行けば学校に通うお金も溜まるだろうし、そうしたらやはり夢を叶えたいと思うに違いない。カトーはリリーの気持ちを理解して、納得の顔になった。
「今回の仕事、リリーにとって良い体験になったみたいだな」
「……うん。色んな人がいて、私よりも全然年上の人もいて、そんな人たちの姿を見てたら私も一緒に勉強したくなって……」
「リリー、大丈夫だよ。君が言い出しにくかったのは、このクランを抜ける事になるのが後ろめたかったからだろう?」
カトーの問いにリリーは申し訳なさそうに頷く。そんな彼女に、カトーは優しく続けた。
「確かにリリーって沢山スキルを持ってて戦力として優秀すぎるくらい優秀だ。正直に言えば抜けたら残念だよ。けど仲間なんだから、やりたい事が出来てそれに向かって頑張りたいと思ったのなら応援するのが当たり前だろう。こうしてちゃんと相談してくれるリリーなら、尚更応援したくなるよ」
「カトさん……」
思わず目を潤ませるリリー。この話をするまでは、もしかしたら怒られるかもしれないとすら思っていたのだ。『お金が溜まったら辞めるよ』と言っているようなものであり、普通であればなんて虫の良い話をする奴だと非難されてもおかしくない。前もってルシアたちにもぼんやりとぼかしながら伝えてはいたのだが、彼女たちは受け入れられてもリーダーであるカトーには受け入れ辛い話じゃないかと思っていたのだ。しかし実際は受け入れないどころか、逆に暖かい言葉をくれた。ホッとした反面、余りに優しい反応に感動して言葉が出ない。しばらく鼻をすすったり、少しハンカチで目元を押さえたりしてから、リリーは笑顔で言った。
「ありがと。カトさんは大きいな、私と同い年とは思えない」
「ん? すくすく成長し過ぎたか? いや背の高さは年と関係ないだろう」
意味が分からないのか首を傾げるカトー。そんなカトーにリリーも苦笑いを浮かべる。
「カトさんは私なんかよりずっと大人だなって事。でも相談出来て良かったわ、向こうにいた時からずっと悩んでたから。ダンスパーティーの間も悩んでて、危うく相手の子の足を踏んづけちゃいそうになったもんね」
「……なんとも楽しそうな話だな。具体的にどんな事をしてたんだ? そもそも何故仕事が延長したりしたんだろう」
カトーはずっと気になっていた事を尋ねた。本来なら学園祭とかには参加せずもっと早く帰ってこれたハズ。セーラには聞きそびれていたので、忘れないうちにリリーに聞いておこうと思ったのだ。
「えーと、あれは……」
少し言いにくそうにするリリー。
「簡単に言うと、料理の手伝いをしようとして私がエプロンをダメにしちゃったんだけどね」
「……やっぱりやらかしたか」
「で、それをセーラがパッパッと直したわけよ。すっごい手際良く。そしたらそれを見ていた学生の子たちが大興奮して、お願いだから学園祭で使う衣装作りを手伝ってー、もう全然間に合わないんですー、とか言ってきて……」
「ほほう」
カトーの目がギラリと光った。
「つまりリリーがエプロンをダメにしなかったらセーラは早く帰ってこれたわけだ」
「えっ、あ、あれ? あー……そうなるの、かな? ちょっ、カトさんちょっと怖いよ、何!?」
ゆらりと立ち上がるカトー。慌ててリリーも立ち上がって逃走体勢に入る。
「毎日寂しい思いで枕を濡らしていたにも関わらずリリーたちは飲めや歌えの大騒ぎだったわけだ」
「いやカトさんが枕濡らすとか気持ち悪……いや嘘嘘、嘘だから、飲めや歌えって確かに果物ジュースは美味しかっ……うきゃあっ!?」
捕まえようとするカトーの腕をひらりとかわして駆け出すリリー、カトーはもう追撃態勢に入っていた。
「ぅおのれリリィィ、野郎まみれで荒みきった俺の苦しみを知りやがれゥリリリリィィィyyyyyyyyyy!!」
「ぎゃーーー、カトさんが狂ったぁああああああ!!」
クランハウスの中で壮絶な追いかけっこが始まった。逃げるリリー、追うカトー。騒ぎに駆けつけたローランドは呆然として、マゼンタは頭を抱える。ギルドに顔を出していたクロスとアメリアが帰って来て二人に雷を落とすまで、追いかけっこは延々と続くのだった。
◆◆◆その頃のセーラ◆◆◆◆
ベッドメイクが終わり従業員が部屋から出て行ってから、セーラはまたベッドに腰をかけると一冊のノートを開いて読み始めた。そのノートとはカトーが毎日色々と書き込みをしているメモ帳であり、セーラは時々このノートを借りて読み耽っているのだ。半ば日記帳と化している為読んでいいものか始めは迷ったが、カトーの「見られて困るような事は何も無いし、そんな後ろめたい生き方もしてないからな。好きなだけ読んでくれ」という言葉に甘えて読ませてもらっていた。
このノートは面白い。普段突飛な事をやっているように見えるカトーだが、そこに至るまでの考え方がそのままノートに記されていたりする。好きな人の事を理解するには最適なアイテムだったのだ。加えて自分の居ない時に何があったのか、それが気になっていたセーラは一週間前からの記録からじっくりと読み続けていた。トレット村の食堂のメニューの値段、屋台の料理の値段。些末に思える記述でも、セーラの想像力をかきたてるには充分だった。どんな料理なんだろう、美味しいのかな。そんな事を考えながら、ページをめくる。しかし時折記されている不可解な文章に、セーラは次第に眉をひそめ始めた。
『俺はサメの中を泳いでいたらしい』
………。
セーラは首を傾げる。
夢でも見ていたのだろうか、と思い読み飛ばすと、隣のページの冒頭にはデカデカとこんな文字が。
『俺はイカじゃない。見て分からんのか』
セーラの目は点になった。
イカと間違えられるカトー。全く分からない。セーラの想像力は限界を迎え始める。そして次の記述が彼女を更に混乱させる事となった。
『結局また裸になった』
『救助活動をするなら替えの服は沢山用意した方が良い』
「カ、カトーさん?」
服を脱いだ。服を沢山用意するのは沢山脱ぐ為? えっ、なんで人助けで着たり脱いだりする必要があるの、わけが分からない。セーラは必死に考えるものの、次第に知恵熱で頭から煙を立ち上らせ始める。
『子供用の服は教会に頼もうか』
ぷしゅーーーーーっ!
「きゅうぅぅぅぅぅぅぅ……」
セーラは撃沈した。
コンコン、とドアをノックする音が響く。ルシアたちが遊びに来たのだ。しかし彼女たちが部屋で目にしたのは、何者かによって昏倒させられたセーラの痛ましい姿だった……。




