トレット村のイカ騒動(4)
その薄く透き通ったイカの刺身を口に入れた時、俺は生きていて良かったと心の中で感動の涙を流した。噛み締めた途端に柔らかく溶け出すその身はひたすら甘く、仄かに鼻を擽る潮の香りが味覚だけでなく涙腺までをも刺激する。俺は思わず目蓋を閉じて、じっくりと咀嚼してイカの味を楽しんだ。
「カトー、そこまで感動するもんか?」
呆れたように問いかけるクロスに無言で頷く俺。耳にカチャカチャと響く箸の音の速さからして、他の連中は何の感動も無くこのイカを食べているらしい。ふざけるな。お前ら普段どんだけ美味い物を食ってると言うんだ。そう言ってやりたい所だが、この感動をそんなしょうもない憤りで薄めたくはない。俺は堪えてイカを黙々ともぐもぐした。
イカ定食。イカの刺身の盛り合わせと焼きイカに加え、イカの内蔵とエビを使った味噌汁、茎ワカメや他の海藻類も使った酢の物等、とにかく豪華なイカづくしメニューである。これで1000Yは安い。日本でこんなの食べようと思ったら、高級料亭にでも行かないと無理だろう。値段ももしかしたら4000円を超えるかもしれない。
うまい。これはうんまい。……しかし、そんな美味い飯を食べながらも俺は、視界の端で此方を注視する少女の姿を意識しないわけにはいかなかった。
じーっと見てる。
柱の陰から、じーっと。
俺たちは木製の大きなテーブルに、俺とクロス、ロニーとジョニーが向かい合わせで座っている。俺の隣にロニーが座ってる形なのだが、クロスの後方、柱の陰から見つめる少女の視線は俺とロニーを行き来していた。俺を見るときは、なんとも言えないシリアスな表情で。ロニーを見るときは、目を爛々と輝かせ欲望の塊のようなニヘラ顔になっている。
中年が好みなのだろうか。だとしたら親は育て方を間違ったと言わざるを得ない。いや、だからと言って俺の方に熱視線向けられても困るけどな。そっちも良い趣味とは言えない。
とにかく少女は熱心にこちらを見つめていた。気にしても仕方ないから途中から無視する事に決めたが、なんというか、居心地は悪い。
「カトーは酒を頼んでもいいんじゃないか? 強いし、時間も夜中3時からだろう」
クロスの言葉に気持ちを切り替える。いかんいかん、いつの間にかボーッとしていた。
「いや、酒はやめておこう。確かに俺は酒に強いけど、まるっきり酔わないわけじゃないんだ。仕事には真面目に挑みたい」
そんな話をしていると、もう食べ終わって一服していたロニーが話に入ってきた。
「さすが偉いねぇ。うちのクランの連中に聞かせてやりたいセリフだよ。なあジョニー」
「事ある毎に率先して飲みに誘うお前が言うな。今や酒のみしか居なくなって、クランハウスは酒瓶だらけじゃないか」
「わっはっは、痛いとこ突かれたなぁ」
ダメダメだった。これでDランク以上の冒険者だというのだからなぁ……
と、その時。
ロニーのすぐそばに、さっきまで柱の陰に隠れていた少女がいつの間にか近づいて来ていて、何やらキラキラした目でロニーを見上げていた。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」
さすがに気づいたロニーが、戸惑いながらも少女に尋ねる。狐っぽい三角耳を立てながら、その少女は口を開いた。
「……葉巻はうまいかね」
なんと少女らしくない質問。ちょっと待てと言いたくなる。
「いやぁ、オジサンにとっては何よりもご馳走なんだよ。勿論ここの御飯も美味しかったけどねえ」
「そうか……もし良かったら、一本いただいても?」
おい。マジでちょっと待て。俺が突っ込む前に、たまらずクロスが口を出し、ジョニーも静かに咎める。
「君はまだ子供じゃないか、駄目だぞ葉巻なんて」
「その通りだ。それに衣服に臭いがついたりして君の周りの人が嫌がるんじゃないか」
……ジョニーの言葉は恐らく嫁さんたちの事を思い出しながら言ってるんじゃないかと思う。表情に微妙な影があった。
それはともかく、二人に注意された少女はそれでも何とか食い下がる。
「いや、私はこうみえて大人なのだよ。訳あって子供ななりはしているが、以前はかなりのヘビースモーカーでね。久しく吸ってなかったからどうにも魅力的で……」
うん? ヘビースモーカーって言葉はこの世界でも使うのか? それに大人って……
「いやいや、お嬢ちゃん。さすがにそんな嘘には騙されないぞ? 私は幻術破りを装備してるから、君が幻術を使ってないのはお見通しだ」
「店先にあった貼り紙は君の事だったんだな? お母さんに怒られるから、もう背伸びをするような真似はしない事だ。大人になんて、嫌でもそのうち成ってしまうんだから」
「いや……違うんだ、信じてくれ。私は純粋に久方振りの喫煙を……」
そんなやりとりを眺めていると、不意に近くから異様な怒気を感じた。ズカズカと大きな音を立ててやってくるソレは、俺の背後を通って少女の所までやってくるとその小さな身体をヒョイと担ぎ上げる。エプロンをつけ、腰まである茶色い長髪を靡かせた女性は、少女と同じ三角耳をしていた。
「シャルロットォ~~、あなたまぁだ懲りてないようねぇぇ~~!!」
「ぬおっ!? お、奥さん、いや違うこれには訳がっ!」
「黙りなさい! 女の子が葉巻なんて吸っちゃ駄目だって何度も言ってるでしょ!! ……それとお客さん、子供に葉巻を与えないで下さいねっ!」
「い、いや……私もちゃんと断ってたんだが……」
ロニーはとんだとばっちりである。とにかく美人だが非常におっかない女性に担がれ、少女は泣きそうな顔でジタバタと暴れた。しかし子供と大人の体力差は圧倒的であり、あわれ少女は荷物のように担がれたままテーブルから引き離されて行く。
「い、いや待ってくれないか奥さん! せめて副流煙、ふくりゅーえんだけでもぉ!! た、助けてくれ加藤く……」
「ええい観念しなさい、はやく大きくなりたいんでしょ!? だったら小さいうちから葉巻なんて吸っちゃ駄目よ!」
「だからもう私は充分おと……ぁああーーーっ!!」
………。
嵐は去って行った。
「一体なんだったんだ、あれは」
クロスのつぶやきに、俺も「さあ……」としか返せない。少女の発言内容や口調、そしてこちらを見る目。それらに言いようの無い違和感を覚えていた俺は、ふと思い至った答えに自分でも混乱していた。まさかな。いや、やっぱりそうなのか? 彼女は俺のようにこちらに飛ばされた日本人……だったりするのか?
その時、俺は手元の皿の下に紙切れが差し込まれているのに気づいた。あれ、いつの間に。不思議に思ってそれを手にしたが、もしかしたらあの少女からのメッセージかもしれない。俺は直感的にそう思い、それをズボンのポケットへと入れた。
そして、食事が終わり店を出る事となり。俺は警備の人間にあてがわれた宿舎へ入ると、誰にも見られないようにその紙切れをチェックする。薄暗がりの中、その白い紙切れには綺麗な文字でこう書かれていた。
『T字路と丁字路。このフレーズに覚えがあったら、明日夜明け前に第一作業小屋に一人で来て欲しい 豆知識オジサンより』
読み終えた時。
俺の頭の中は真っ白になった。
それは俺がまだ就職して間もない頃だった。新入社員は研修期間中に色々な部署で働くのだが、俺はその期間中に恩人とも言える人物と出会う。当時ロボットアームの製造課にいた、副島課長補佐である。俺の研修を担当した年に定年退職した後は、嘱託の社員として再雇用されただの「副島さん」と呼ばれるようになったが、俺の短い生涯の中で初めて家族とレスラー以外に尊敬出来る最高の上司だった人だ。
副島さんは元々部長まで行った人らしい。何があったのか、俺が出会った頃には周囲の人から余り良く思われていなかったようだが、仕事自体はキッチリしていたので俺は雑音など気にせずに接していた。実際、本当に知識が豊富だったし勉強になる事も多かったのだ。尊敬するきっかけとなったのはそんな研修期間中に起きた出来事で、各部署で働いた際に提出する研修レポート、そこに書く現場改善案を巡る一件だった。
現場改善案。工場で働く人間ならよく聞くヒヤリ・ハット関係のレポートだ。月に一度提出するもので、これを真剣に考えて案を出す人間なんて当時殆ど居なかった。新人だろうと、ベテラン社員だろうと。その理由は多々あるが、現場の作業環境は基本的に上の人間の鶴の一声で決まる物で、どれだけ下の人間が改善案を出した所で何も変わらない。詳しい説明は省くが、端的に言ってそんな状況だったのだ。だが、当時研修中だった俺には見過ごせない改善点が製造工程で見つかった。複数の太いケーブルを繋いで行く工程での単純な配線ミス、それによって起こる取り付けパーツの付け間違え、部品の破損、試運転段階での通電障害。ミス発生率があまりに多くて誰がどう見ても改善しなければならない所だったのに、誰も改善案を出さない。少し考えれば簡単に防げるであろうミスを放置したままだったのだ。
多分、俺の知らない所で何かしらあったのだろう。だが俺はお構いなしに改善案を提出した。馬鹿でも思いつく案だ。アルファベットの識別シールを貼り付けたパイプを設置して、ケーブルをそこに通す。そして工程が進む毎にそのパイプを入れ替えたりして、他のケーブルとごっちゃにならないようにする仕組みを作り上げる。ただそれだけの事だったのだが、そんな単純な案すら上は渋って試そうとしない。そんな中で俺の後押しをしたのが、副島さんだった。
後に副島さんが語った所によれば、それは単なる上への意趣返しであって俺を利用したに過ぎないのだという。しかし実際に作業工程に俺の案を採用した製造ラインを作り、データをとったりしてくれたのは間違いなく副島さんと彼の指示で動いた人たちであり、ただ主張する事しか出来なかった俺に上を納得させるやり方を教えてくれたのも、また副島さんだった。結果は俺の案を採用した製造ラインでミスの発生率が劇的に下がり、また途中で俺が試作した作業治具も効果を上げ、作業時間の大幅短縮と年間の損害額を200万近く減らす事に成功した。そして俺は、同期の中でもかなり注目される存在となった。……まぁ、その後色々あって悪い意味でも注目される事になったけど。今にして思えば調子に乗っていたんだろう。
とにかく、俺は副島さんのおかげで自信を持った。その後俺は別の部署に配属され、副島さんも嘱託社員となって接点は薄れたものの、休憩時間になるとよく喫煙ルームで雑談する仲となった。喫煙ルームに入る為に煙草を覚えたくらいだから、我ながら懐きすぎだとは思う。
で、件の「T字路と丁字路」というのはそんな副島さんから教えて貰った豆知識の一つ。確か会社の帰りに偶々出会い、ちょっと飲みに行こうと誘われた時の話だ。タクシーに乗り店まで行く途中、副島さんが運転手に向かって道を指示したのだが、その時に副島さんはこう言った。
「突き当たりの丁字路を左に行って下さい」
あれ、てい字路? ティー字路じゃなくて?
そんな疑問を抱いた俺が尋ねると、元々丁字路が正しいのだという。T字路は誤用がそのまま一般化した物で、道路交通法でその名が使用されてから誤用ではなくなったのだという。
そんなちょっとした豆知識。しかし俺のような物を知らない若造にはかなり面白い話に思えた。他にも副島さんは妙な知識を沢山持っていて、話術に長けたタクシーの運転手をも楽しませていたから元々話上手だったんだろう。それからも会社で会った時は豆知識を色々と伝授して貰った。「豆知識オジサン」は女性事務員の人たちがつけた副島さんの渾名であり、多分良い意味じゃないと思うんだが、副島さん本人は気に入っていたようで自分でよく名乗っていた。
もう一度、俺は紙切れを読み返す。
副島さんなのか?
あの少女は、本当に。
そうか……
副島さん。
そんな趣味を持っていたのか……。
元来切り替えの早い俺は、考え事もそこそこに夜勤に向けてしっかりと睡眠をとった。そして時刻は深夜2:45。そろそろ交代の時刻という時にパッチリと目を覚ました俺は、ウォーターキュアで顔を洗ってからクロスの待つ第一作業小屋へと向かった。イカの生け簀を網で作ってある、あの一画である。
闇に染まった海岸線、幾つかの焚き火が点々と揺らめいている。その一番右端に見える焚き火に、黒騎士は一人佇んでいた。俺は労いにウォーターヒールで作った麦茶を持って、クロスのもとに歩いて行く。
「御苦労さん。どうだ、敵は出たか?」
「……ん? ああ、カトーか。いや、出てない」
寝てたな。
まぁ索敵しっぱなしにしてたし、敵が出てたら俺も強制起床してしまうから何もなかったのは知ってるんだ。敵が出なかったからクロスも気持ちが緩んで寝ちゃったのだろう。……いけないなぁ。
「飲め。疲れが取れるから」
「おお、ありがとう。ふわぁあ~、おえおあう」
不可解な声をあげてから、クロスは俺から受け取った水筒に口をつけた。
「ガボッ!?」
麦茶に炭酸って、ビールに似てるよね。
「目が覚めたか?」
「カ、カトー、これは何だ! 口の中が痛……ゲホッ」
「フレイやリリーが大好きな刺激的な飲み物だ」
「すまない、俺は平穏無事な飲み物の方が好きだ」
それは俺も同感だ。
むせて目が覚めたクロスは、それでも頑張って少し飲んでから俺に水筒を返す。いい人だ。可哀想なくらいに。気を取り直したクロスは、一度思いっきり伸びをしてから俺の方へと向き直した。
「じゃあ3時から8時まではカトーの番だからしっかりな。次の日中警備は第2作業小屋のジョニーたちと交代だ、ここへはロニーが来る」
「了解。じゃあゆっくり寝てくれ、クロス」
「おう、じゃあな」
そう言って手を振り、去って行くクロス。あいつの事だから大して寝なくても体力は全快するだろう。しかし……普通はこんなサイクルで5日間働いたらキツいんだろうな。俺やクロスは耐えられるし、この状況でモンスターとバトルになっても大丈夫だが、ジョニーたちはどうなのだろうか。寝不足気味でダークダゴンと戦う可能性の高い仕事、応募者が少ないのも仕方ないのかもしれない。これで基本日当20000Y。やっぱり安いと思う。
俺は誰も居ない浜辺で、のんびりと波の音を聞いていた。潮風は強く、焚き火の炎が激しく踊る。チャプチャプと跳ねる音はイカだろうか、魚だろうか。暗い海は境界線が曖昧で、何だか見る者に不気味な印象を与えていた。
索敵のレーダーをチェックする。浜辺は勿論、海中にすらモンスターは居ない。至って平和である。俺は戯れに作業小屋の中を観察したり、吊されたイカを見に行ったりとウロウロし始める。何だかんだで興味があったのだ。ああ、初めてこの村に来た時もルシアと一緒にこの付近を歩いたっけ。その時に見た光景も確かこんな感じだった。
そんな事を考えていると。
レーダーに青い丸印があらわれる。味方と言えば社長かロニーたちか、それとも村長か。不思議に思って近くまで来たターゲットに目を向けると……
あの少女がいた。
予定より大幅にはやく、この浜辺にやってきたのだ。しかし俺がいた事は向こうにとっても想定外だったらしく、彼女も俺の姿を見て目を丸くする。店で見た格好とは違い、茶色いマントに身を包んでいた。そしてバケツのような物を手にしており、その中には木で作られたカツオブシのような形の棒が幾つか突っ込まれている。……なんだろうな。
「加藤君か。まさかこんなに早く来るとは」
「いや、元々夜警でここに居なきゃならなかったんで……」
言ってから、気持ちを切り替える。少し真面目な口調になって、尋ねた。
「副島さん……ですか。俺の知ってる副島さんで間違いないですか?」
ビュウビュウと風が吹き荒ぶ。風に銀色の髪を暴れさせる少女は、そんな事を気にする素振りも見せずに、ニコッと笑ってみせた。
「ああ。君が私の知る加藤君で間違いないなら、ね」
間違いない。それは俺の脳裏に強く焼き付いた副島さんの笑顔。
朝礼の時に突風でカツラを飛ばされた副島さんの恥ずかしそうな笑顔がフラッシュバックして……
俺は吹き出した。




