崩壊
「白、もうそろそろ起きないと遅刻するわよ」
そんな事を言いながら私の布団をめくるお母さん。
「………」
「……起きてるんなら、起きなさいよ」
「………」
「何か言ったらどうなの?」
「……学校、行きたくない」
無駄だと諦めつつも、一応そんな自分の意志を伝えてみる。
お母さんはしばらくの間無言で私を見下ろしていて、そして溜息。
(……この後怒られて、そして家から追い出されるのよね。いつもの事みたいに思われてさ……どうせ……)
「……分かったわ」
「……え?」
予想外の言葉についそんな声を上げてしまう。
「どうしたの?それともやっぱり学校行くの?」
怒る訳でもなく、普段のトーンでそう確認してくるお母さん。
「え、あ、の……いいの?」
「ええ。最近は勉強を頑張っているようだから一日ぐらい休んでも授業についていけなくなるなんて事は無いでしょうからね」
(……あ、でも本当に授業って、大丈夫……なのかな?)
「……やっぱ行く」
受験という事を考えてみると物凄く不安になってきてしまい、自ら布団から出て支度をする私だった。
(……ほんとに面倒臭い……私って……)
そうして私は今、お母さんではなく、社会の常識に背中を押されつつ学校へと向かっている。
プチは相変わらず不機嫌だし、気分が晴れないせいか体の調子も悪いような気がするし、おまけに今度は成績が上がって将来への光が見えたせいで、登校拒否というハードルも上がってしまっていて、
「……どう考えれば、この状況をプラスに捉える事が出来るのよ……」
大学に行ったって今の社会と比べ何か劇的な変化があるとは思えない。
だから多分、今のこのような気分をずっと抱えながら過ごしていかなければならなくて、そしてそれは頭痛についても、プチについてもそう。
(だってあれは私の成績が悪い時には別に荒れてなかったし、むしろ……)
「……何でこれが敵になるのよ。いい加減夢を見るのを諦めなさいよ……」
(私1人が声を上げた所で、私以外の殆どの人が創り出した常識をどうにかなんて出来る訳ないじゃない!)
なんていくら心の中でそう強く言い聞かせていても、どうしても消し去れないこの感情。
だってもし私に今この感情が無かったとしたら、それこそとうに私は自分を害する行動を起こしている筈だから。
夢や希望が完全に無かったとしたら、私は生きていく事が出来ない。
でもそれを持っているからこそ、失望や絶望という苦難にもぶち当たる。
(……私の夢って……本当は何なのかしら?)
『専業主婦』が完全に間違い、だとは思わないけど、でもだからといって相手が思いついてない現状「絶対にそうなりたい!」と断言出来る程ではないような気がする。
「『これ』になる為なら汚れてもいい。今の社会の歯車の1つになってもいい」と思えるような『何か』。多分それがあれば、目の前の罪悪感も、そして『何で?』という好奇心を捨てる事も後悔せず大人になれるんだと思う。
空には今日も雲が見え、それと共に飛んでいる鳥の姿も見える。
(……人は大地を得て、そして空を失った)
以前何処かで聞いた『可能性の話』が頭をよぎる。
確かこんな話だったと思う。
画用紙に人の絵が描かれていたとする。
そしてそこに他に何も書かれてない場合、絵の人はどのような場所に居る可能性も持たせる事が出来る。
例えば足元に星空を書いた場合、その絵の人は夜空を飛んでいる事になり、そして背景に深海を書いた場合、その人は海底を歩いている事になる。
だけど常識から考えると、人が空を飛ぶ事はあり得ないし、深い海の中を生身で居て無事な訳はないから、結果どちらの背景もあり得ない。
そうして常識的な背景、足元に地面を書いて大地に立っている人の絵にした場合、その絵は普通の絵にはなる。
だけどそれと同時に、その絵の人は空を飛ぶ可能性も、深海を歩ける可能性も失った事になる。
(……勿論、これが妄想なんだってのは理解はしてるのよ……でも……)
実際60歳より50歳の方が人生において選択肢は多く残されている筈で、余命の差から言ってもその可能性が高いのは間違いない。
だから大人より子供の方がより可能性が多く残されていて、多分ここまでだったらみんな心の中で少しは納得してくれると思う。
だけど今の言葉は絶対に口には出来ないし、それどころかそう考えていた事がばれた時点で絶対非難を受けてしまうような気がする。怖い大人やその人達に気を遣い過ぎている場の空気に聡い人に。
(「老人の可能性を馬鹿にするな」みたいな感じでさ。誰も馬鹿になんてしてなくて、ただ私達なりに色々経験してみたいだけだっていうのに敢えて曲解して。んでもって常識っていうよく分かんない枠を当てはめて……)
「……もしかしたら羽が生えて空が飛べるかもしれないじゃない。未来なんて誰にも分からないんだし……」
『過去の文献、痕跡』と『自分達の経験から生まれた常識』から今の大人が想像で創り出した歴史。
それを未来にも当てはめ、ある可能性に対する『警告』をするのは大事なのかもしれないけど、『強制』は止めて欲しい。
(……ってこんなの怖くて話すの絶対無理。辻さん、どうしてこんな事口に出来たの?)
「……嫌な事は明日……」
(……失敗してるし、朝からこんな妄想して……すぐに頭の切り替えが出来ないっていうのは今までで嫌っていう程経験済みなのに……)
「白、大丈夫?今日も顔色良くないみたいなんだけど……」
「……多分大丈夫。いつものように勝手に自爆しただけだから」
そんな私だったけど、真由美の顔を見ると自然とそんな軽口が出るくらいにはなれるみたい。
「そうなの?」
「……うん……ありがと」
「え?……ええ」
そして授業が始まったんだけど、
「………」
(……完全に失敗してる……)
朝の妄想のせいで、今までの事象や大人の経験則について書かれているその『書物』という存在すら敵に見えてきてしまっていて、私の中の微かな希望が断固としてそれに影響を受ける事を拒否している。
(……つまり全く頭に入ってこないんだけど……これ、完全に精神病じゃない)
とりあえず手を動かせば内容が少しは入ってくるかと思いペンを走らせてみる。
(……何よこれ……)
ノートに書かれたものを見て、つい鼻で笑ってしまう。
(ファンタジーな生き物の名前。ペガサスだとかユニコーンだとかドラゴンだとか……完全に中二じゃない)
どうやら私の中の可能性という選択肢も、こんな定番の枠の中に完全に収まってしまうみたい。
(……ま、当たり前よね。だってそんな創造力があったら、とっくにその道を目指して頑張ってるだろうし……っていうかそもそもそっちの方向性じゃないわよ!)
考えた結果、何故か将来の夢がペガサスやユニコーンになっている私。
(見世物小屋でみんなに見られる事をショーとして仕事にでもするっていうのかしら?……馬鹿みたい)
いくら常識に縛られるのが嫌だからといって、さすがに人間という枠まで棄てようとは思わない。
(……だって、まだ恋愛すら未経験だし)
常識という既存の枠をはみ出しても許され、そしてそれが先人と決定的に衝突する原因にはならず、後、出来れば私の『何で?』という好奇心を殺す必要も無いそんな職業。
(……あるわけないわよね。そんな魔法みたいな素敵な職業なんて……)
「……ん?……魔法……って……」
ある。
そんな魔法のような職業。
それは現代の魔法使い、科学者、研究者。
未だ誰も知らない新しい可能性を常に探っていて、業種としては私の好奇心を殺す必要も一切無い。
さすがに先人の理論との対立とかそういう危険性は排除出来ないけど、それは人間関係での軽い摩擦程度だと思うし、もしそれが禁忌だとしたら、また別の研究テーマを探せばいいだけの話。だって世界には、未だ解明されてない謎が数多くあるんだし。
(ただ、だとしたら学力はしっかり蓄えておかないと。だってそれを仕事にする為には多分、『今まで先人が研究して来た成果をある程度把握している』という前提が無いと駄目よね、きっと)
仮にもしそれがない存在がその場に立つと、とうに調べつくした調べる必要の無いそれこそ『当たり前』の事を調べるような事になり、結果他の人の邪魔になってしまうだろうから。
(……という訳よ。さ、分かったならちゃんと授業に集中しないと。頑張れ、私!)
「白、顔色大分マシになってきたようね」
「うん。やっと具体的な目標が見つかったから」
「具体的な目標って?」
「研究者。何かをずっと調べる人」
「何か?そこは決まってないの?」
「ううん。決まってないんじゃなくて、決める必要がないから」
(だって、そこは何でもいいんだもん)
女性らしく香水や化粧品とかに使うと人気の出る新しい香りを探すなんてのや、果敢に秘境とかを探検する凛々しい考古学者とか。
(……正直、今の2つはどっちも適さないような気がするけど。でも世界には私に適した研究テーマがきっとある筈)
「……そう。まあとにかく元気が出たようなら良かったわ。じゃ、また後で」
「うん」
これが休み時間の中での真由美との会話。
放課後、
「白、じゃあ行くわよ」
「うん」
優秀なブリーダーに一声あげ後をついていく忠犬シロ。
なんていうのは勿論冗談だけど、そんな簡単なやり取りで教室を出て私の家に向かう私達。
「……ちょっと待ってくれるかしら?」
だけどそんな私達を呼び止める声。
前方からそう声をかけてきたその人は、顔は知らないけど何だか友好的な雰囲気じゃないみたい。
「私達に何の用?」
「あなたには用は無いわ。用があるのは大澄さん、あなた」
真由美の言葉に敵役のようなそんな言い方で私を指名するその人。
「用って、何ですか?」
「大澄さん。それとも敬意を払って、前会長と言った方がいいかしら?」
「何でもいいです。それより用件を……」
「あ、因みに私も今年受験が控えていて忙しいのよ」
「……そうですか」
こんな感じで、全然敬意なんて見えない話し方をするその先輩。
(んなのネクタイ見ればすぐに分かるわよ。真由美の直感通り確実に敵ね)
「それで付いて来て欲しい所があるんだけど」
声をかけて来たのは自称先輩のこの人1人。対してこっちは私と真由美2人だから、それこそ強行突破は不可能ではないけど、
(つまり暴力で強引にって事になるから。んな下品な事するのは最後の最後にしておかないと)
「……分かりました。どこに行けばいいんですか?」
「良かったわ、物分りが良くて。じゃあこっちよ」
そう言って先を歩き出すその人。
「……言う通りにするの?」
「仕方無いでしょ。だって明日も学校はあるんだし……今日は中止ね」
私は真由美にそう答え、敵の後をついていく。
(……にしても、何で今更呼びつけられないといけないのかしら?もう私は完全に『+1』にしかならない存在なのに)
敵の後頭部を見ながらそんな事を考えている私。
そのまま後をついていき、敵の足が止まったのに少し遅れ、私の足も止まる。
そこは体育館裏、という日陰の場所ではなくて、
ピー、バシッ、キュッキュッ、バシッ……
「ほら!そこカバーが遅い!もっと素早く動く!」
「……はいっ」
「声が小さい!」
「は、はいっ!」
体育館の中で、そこでは今もバレー部の声がよく響いている。
その様子を見て、大きな違和感を感じる私。
(……あれ?バスケ部は?)
確か今までは、放課後基本バスケ部とバレー部が体育館を半分ずつ使っていて、だけど今バスケ部の所には、人数が集まらないせいで多少冷遇されていた卓球部の人が使っている。
(一応卓球台だけは足りていたのね。今まではロフトで交替でやっていたみたいだし)
それに確かにバスケ部のコートの端とかでもやろうと思えば出来ない事は無いとは思うけど、もし万一バスケ部の人が勢い余って卓球台に激突、なんて危険性も考えると以前会長の時にはその配置しか考えられなかった。
(……って事はこの人はバスケ部の人?卓球部が占領した場所を何とかしてくれって用件かしら?)
以前にここでしでかしたいくつかのやり取りのせいで、放課後ここに居る人には『どんな難題でもあっさり解決出来る人』みたいなとんでもないイメージで見られているような気がする。だけど改めてその人の顔を見てもやっぱり『敵』で、そしてバスケ部って事は少なくとも一度は顔を見た筈なのにその記憶もない。
(……どういう事かしら?)
「何の用なんですか?」
手っ取り早く直接聞いてみる。
「今日、バスケ部はここに居ないわよね」
「はい」
どうやら長ったらしく話をするのが好きな人みたい。
(時間が貴重じゃないのかしら?それとも枕詞を増やせば自分を偉く見せられるとでも思っているのかしら?……意味ないのに)
それこそ偉い人との対峙で自分を奮い立たせる為にそうするのは分かるけど、彼女の相手は『私』な訳で、少なくとも私にはその意味は見出せない。
(だって、前会長という過去の栄光だって、今や殆どの人が忘れてるでしょうし……ま、この人は忘れてなかったみたいだけど)
人の内面なんて基本見ただけでは分かんないと思うし、むしろそれが見ただけで分かるんだとしたら、私からしたら『その人の方がよっぽど凄い』と思う。
だからどんな人でも『本心から凄い人』と思って見ていれば『凄く見える』し、反対に『私以下かもしれないわね』と思って見ていればそう見える。
(つまり基本自分補正だと思うのよね。それに他者からの印象操作が加わってその人の格を自分の中でランク付けして見ているんじゃないかと……まあこれは、人の内面を視認出来ない平凡な私の意見ですけど)
「どうしてだと思う?」
「さあ?知りません」
「……辻香代子さん」
そして今度は第一のヒント、とばかりに私の友達でバスケ部所属のその名前を口にする。
(……って事は……)
「辻さんのあの行動が原因でバスケ部が体育館から追い出された。だからバスケ部が元通り体育館で活動出来る様にして欲しい……そういう事ですか?」
「……やっぱり……そうなのね」
私の言葉に何がやっぱりなのかほくそえむその人。
(ってそれ、完全にドロドロを画策している人のリアクションなんですけど!?)
「あなた!やっぱりバスケ部とグルなのね!?」
そしてこんな意味不明な声を上げる。私はそのままぶつけ続けられているそれを聞き流しつつ、キレられた原因を少し考えてみる。
(えっと……まず、彼女は私がバスケ部がここに居ない事を確認してきた。それに辻さんがこの事に関係がある事を自ら話した。んで今のタイミングで『辻さん』というキーワードで最初に思いつくのは反旗を翻したあの一件。これらをまとめて考えると『学校統合の問題が現状に多大なる影響を与えた』という事実を私に知らせたかったのはまず間違い無い)
そこでもう一度彼女の顔を確認してみるけど、やっぱり『敵』みたいで、
(……で、バスケ部を擁護するような立ち位置になった私は彼女の敵で、そして彼女もそれを薄々は理解していた。その根拠はさっき彼女の発した『やっぱり』という言葉からみてこれも確定)
つまり彼女はバスケ部と敵対する存在で、そして彼女の中で私はバスケ部を裏から操っていた存在、みたいに考えられていそう。
(……なら多分バスケ部を追い出したついでにここで私をやっつけて自分の正しさを更に誇示したいんでしょうけど……やっぱり意味ないじゃない)
それに彼女のこのやり方、たとえ相手の意見が間違っていたとしてもそれを多数で強引に排除してなんて、そんな『他者に害を与える事が正しい』なんて風潮、絶対に間違ってる。
「……で、何の用なの?ここで『私が悪かったです、もうしません』とでも言えば満足?」
「ええそうね!ここで情けなく土下座でもして、この学校の伝統と誇りを傷つけた事をこの学校を愛する全ての人に謝罪でもしたら、考えてあげる!」
「……馬鹿じゃない!伝統って何よ!?誇りって何よ!?愛するって何よ!?自分1人のエゴで勝手に愛してないなんて決めつけて!だったらその伝統やらを傷つけた証拠や愛してない根拠を示してみなさいよ!!」
「何言ってるのよ!それは昨日の校内放送でみんな聞いていたじゃない!この学校は幼稚だって!」
「ほら!もうボロが出てる!辻さんは反対派の意見が幼稚って言っただけよ!誰も学校がなんて言ってないじゃない!それをあんた達が勝手に……そういう風に言葉を捻じ曲げるあんた達が!『そういうもん』を穢してるのよ!!あんたの世界はあんたが中心だけどね、そこは私の世界でもあって私が中心でもあるのよ!そんぐらいの常識、ちゃんとわきまえときなさい!!」
「な、何訳の分かんない事言ってんのよ!?」
「訳分かんない事言ってるのはあんた達じゃない!!『はんたいは』という5つの音を、どうして『がっこう』っていう4つの音に聞けるのかって聞いてんのよ!?」
「そんなあげ足取りをして何が楽しいのよ!あなた達は結局学校を愛してないだけじゃない!」
「だから!あんた達の愛し方が傲慢だって言ってるのよ!『私は愛しているから』って言葉を隠れ蓑に自分のエゴを垂れ流して!あんた達のやってる事はストーカーと同じじゃない!!」
私の言葉にハッとしたような表情を浮かべ、後ずさって行くその人。
(ふん!別に私の事をどう思おうと構わないけど、そんなあなたの姿なんて絶対に格好悪いんだから!それこそ普段の私なんかよりもね!)
「………」
(……にしても明日から大変なのは分かってるけど……すっきりしたー。今まで言えない事だなんて我慢せず、もっと早めに口にしとけば良かった)
「………」
(……けど、私ってそこまで他の人に威圧感与えられるのね。これからはいざという時の選択肢の1つに上から目線っていうのを加えてみようかしら?)
「………」
(……って何だか私じゃない所を見ているような……)
それこそ上から目線ならぬ、目線が上、つまり何かを見上げている様子の彼女。
(……もしかして話している途中に幻覚でも見えたのかしら?)
そんな失礼な事を考えつつ振り返ってみる私。
そこには、確かに、幻覚が居た。
「………」
(な……何?……これ?)
人は自分の理解の範疇を超えた物を見た時、常識的な判断が出来ないみたい。
そして私も当然人で、それが仮にこちらに危害を加えようとした場合、というかそれこそその傍に居るだけでただでは済まない事ぐらい容易に理解していたのにも関わらず、口を空けてそれを見上げているだけだった。
(……龍……ドラゴン……)
フィクションの中でしか目にする事は無く、そして気の遠くなるような過去、それに近い恐竜という存在が居たものの、未だ実在していたという証拠も聞いた事がない空想上の存在。
(おまけに私の想像通りのその姿。って事はやっぱり幻覚よね、これ……だって私の想像した龍の姿なんて、私以外に細かい色とかまでは正確にはイメージ出来ないもの)
そんな余計な考えが頭に浮かび、ようやく落ち着いてきた事を理解する私。
(……じゃあ、誰かが何処からか催眠ガスか音波みたいなものを使って、体育館に居る私達に幻影を見せたのよね、きっと)
そう考え私がその発生源を探そうと、辺りを見回し始めると、
「き、キャーーー!!!」
敵さんがそんな金切り声を上げたのをきっかけに、体育館に居た全員が移動を開始する。
「ちょ、ちょっと押さないでよ!」
「んな事言ってる場合じゃ無いでしょ!」
「そうよ!とにかく急いで逃げないと!」
(……あーあ、みんなあんなに取り乱しちゃって。って、私もまずは正気に戻る為にここから避難した方がいいわよね)
相変わらず目の前の幻想は掻き消える事無く私の目に映っていて、一応念の為ハンカチで鼻と口を覆い、移動を開始する。
(……廊下は避けた方がいいわね。人が沢山居て混雑してるから)
という訳で内履きが汚れるのを覚悟でグラウンドへ。
「ねえ?何慌てて体育館から出てきたの?」
「何落ち着いてるのよ!急いで逃げないと!」
「……どうして?」
「どうしてって、龍よ龍!ドラゴン!急いで逃げないと食べられちゃうわよ!」
「……頭大丈夫?龍なんて居る訳ないじゃない。脱水症状で幻覚でも見たんでしょ?」
「で、でも!」
「はいはい、分かったから。まずは少し落ち着きなさい」
そんな感じの周囲の声を聞きつつグラウンドを見回すと、体育館の人達はグラウンドの人達に宥められつつも、まだ体育館に何かが居たとでも思っているのか私の後方を見ていた。
そしてグラウンドの人達も、体育館の人達と同様に注目をしているみたいで動きが止まっていた。
(……とりあえずグラウンドの人が私達の様子に驚いたって事はグラウンドから体育館内に向けて工作をした不審者が居た可能性は低いって事よね。犯人は……精神科のお医者さんかしら?)
これを仕掛ける事によって多分最も良い影響を受けるのが、軽微な症状の患者が増えるであろう近くの精神科のお医者さん。
(みんな受験とか考えているから、念の為という意味でも受診するだろうし……んで次が3年生が受験で失敗する事により利益を得る何処かの誰か。これはもう候補がありすぎて絞りきれないわね)
そしてそんな可能性の話の延長線上で考えを進めていけば、結果として誰でも容疑者にはする事は出来る。
(それこそ動機が「ムシャクシャしてたから」というたまたまこの学校の近くを通りがかっただけの人が犯人だった、なんて可能性だってあるしね)
それはともかく、鞄を体育館に置きっ放しだった私。
だから念の為、体育館からの影響を受けないよう少し離れた位置に移動し、そこでみんなと同じように様子を伺う。
(……にしてもどういう原理でああいう幻影見せたのかしら?龍という所には誰も言葉を挟まなかったようだからみんな龍の幻影が見えていたようだけど、でもどうやってその暗示を……)
そう考えていると、体育館の方から聞こえる何かがぶつかる音。
見てみると、開かれたままのグラウンドへの出口の所で、それが翼を広げたまま通ろうとして、引っかかっているみたい。
(……ってあれ?……それじゃ、幻影じゃなくて……)
「実体!!?」「「キャアアアアアアア!!!」」
私がそんな声を上げたと同時に、周囲から再び恐怖の悲鳴。
そしてみんなその龍から脱兎の如く逃げ出していくんだけど、でも私は、
(……あの猪突猛進で滑稽な姿……もしかして……)
手を握り、開いてみても、変化無し。
「……常識が……壊れちゃった……」
その私の呟きと同時に、体育館の壁が大きく壊された。