第5章 困惑 No.1
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜 」の続編です。
◇◇◇ 第五章 困惑 ◇◇◇ No.1
あまり懐かしくはない記憶を、その時、ボクは思い出していた。
リオと共に養父であるラウ先生の元で生活するようになって半年ほどが過ぎた頃。
二人とも魔法遣い養成学校への入学が決まり、入学準備に追われていた時期のことだ。
朝、眼が覚めたらリオが居なかった。
ボクは彼を捜しまわった。
まだ、彼以外の誰かを信じることが出来なかった時だから、必死で探した。
探し回って、やっと、森の奥へ独り歩いていくリオの背中を見つけたボクは、嬉しさの余り勢いよく飛びついたっけ。
「リぃオぉ、どこ行くのぉ?」
リオは最初、少し驚いていたけれど、唇を窄めて息を吐くと、優しくボクの髪を撫でてくれた。
「お家へお帰り、ルー。僕はちょっと、ご挨拶をしておかなきゃならない場所があるんだよ」
「なら、ボクも行く」
「でも……」
「ボクも行くぅ!」
リオは少し困ったような顔をした。
でも、言いだしたらきかないボクの性格を知っているから、やんわりと手を引いてくれた。
暫く歩いて脚が疲れた頃、やっと到着したのは、その一角だけ森が光の進入を拒否しているかのように、妙に薄暗い場所だった。
更にその奥、分け入って進んだ先には、密集する灌木で隠されるように、小さな洞窟が口を開けていたんだ。
「ねぇ、ルー。何を見ても大声を出したりしないって、約束できる?」
確認するように問われ、ボクはコクリと頷いた。
なぜリオがこんなことを訊くのかわからなかったけれど、その時のボクは、宝箱を覗く直前みたいに、少しの怖さと沢山の興奮でドキドキしていたんだ。
灯りといえば数カ所に置かれた蝋燭だけ。
洞窟の中は酷く薄暗かった。
リオのシャツの裾を掴んで恐る恐る着いて行くと、突然止まった背中に、おでこと鼻を思い切りぶつけてしまった。
「こんにちわ、マリアさん」
洞窟の最奥に向かってリオが言った。
その視線を辿って、ボクも同じ方を見つめる。
最初のうちはよくわからなかったけれど、暗がりに眼がなれ始めた頃、ボクはやっと、薄暗い灯にゆらりと浮かび上がる人影を捕らえることができた。
それは、子供だったボクの眼には、なぜか酷く恐ろしいものに見えて、ボクはリオの腕をぎゅっと握ってしまった。
すると、ボクの耳許で、リオが囁くように言った。
「彼女は人間なんだよ」
「ニン、ゲン?」
「そう」
コクリと頷くと、金の髪がさらりと揺れた。
「この世界に迷い込んでしまった、人間」
驚いた。
異世界の生き物を見るのは、それが生まれて初めてだったから。
だがらきっと、ボクは無意識に、無遠慮にジロジロと見てしまっていたのだろう。
『マリア』という名の人間は、微かに眼球を動かしてボクを見ると、酷くぎこちなく、それでも微かに微笑んだ、……ような気がした。
その瞳に、生気はなかった。
怖い!
それが、その時のボクの正直な気持ちだった。
「リオぉ、変だよ、この人。生きてないみたいだ」
リオの腕を更に強く握ると、彼は静かに頷いた。
「そうだよ。彼女の精神は、もうじき消えてなくなってしまう。そして、彼女の魂は、この世界を彷徨い続け、苦しみ続けるんだ」
「魂?」
「うん。人間だけが持っている精神の結合体。天上界に戻って、次の命をもらうための種のことだよ」
そういえば以前、ラウ先生からそんな話を聴いたことがあったっけ。
ボクはなんとなくわかったような気がして小さく頷いた。
「そう、なんだ」
でも、言えたのはそれだけだった。
どうしてマリアがルリアに来てしまったのか、どうして人間の世界に帰らなかったのか、今となっては不思議でならないけれど、その時のボクには、そんなことを疑問に思う余裕さえなかった。
「じゃあ、この人間の魂は、どうしてルリアを彷徨わなくちゃならないの? 人間の魂は消えずに天上界へ行くんでしょう? この人は天上界に行くんだね?」
ラウ先生の受け売りだったけれど、ボクは自慢げにそう言った。
途端、リオの表情が曇った。
「ううん。ちがうよ」
辛そうに、少しだけ唇を噛む。
「ルリアと人間界は違う。ルリアに天使はやってこない。だから、マリアさんの魂は天上界にはいけないんだ」
「死なないってこと?」
「人間として、という意味ではね」
「でも、この人は人間でしょう? どうなっちゃうの?」
人間とルリアの民の違いがよくわからなくて、ボクはすっかり混乱していた。
ルリアにおいて人が死ぬということは、精神の消滅を意味する。
消滅。
……つまりは、消えてしまうこと。
そして、精神を失った肉体は、地中に埋葬されて土となり、自然に返る。
だから、死は決して哀しいことじゃない。
ルリアから生まれた命が、ルリアに帰り、新たな命の糧になることだ。
誰に教えられたわけではないけれど、ボクは無意識にそう思っていた。
けれど、リオから教えられた人間の最期は、ボクが予想していたものとは全く違っていたんだもの。
リオは少し考え込んでいたが、やがてボクを振り返ってゆっくりと言った。
「この世界で生きるには、人間の精神力は弱すぎるから、ここにいるだけで人間の精神は消耗し、消滅してしまうんだ。けれど、精神が消滅した後も魂は残ったままだから、人間の躰は、人間界の定義の上では生きていることになる。でもそれは、単なる魂の入れ物。何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。それでも躰は生き続けるから、自然が肉体を風化させてしまうまで苦しみだけが残る。そして、いつか肉体が滅んだ後、解放された魂は行き場を失って、この世界を永遠に彷徨い続けるんだ」
冷たい何かが背筋を這い上がっていくような気がした。
それが怖くて、気持ち悪くて、ボクはリオの腕にぎゅっとしがみついたんだ。
リオはボクの髪をそっと撫でてくれた。
怖がらなくてもいいんだよ。
そう囁きながら。
「どんなに頑張っても、どうにもできないことが、この世界にはたくさんある。でも、魔法遣いになれば、少なくもと、今よりはきっと、沢山のことが出来るようになるはずなんだ。マリアさんは救えなかったけれど、これから先、同じように哀しい出来事を繰り返さないようにすることが、もしかしたら、僕にもできるかもしれない」
その時リオは、確かにそう言った。
恐る恐る顔を上げたボクは、リオの瞳を見つめた。
いつもと同じ優しい碧。
けれど、その奥に宝石のように硬くて強い意志の力があることに、その時ボクは初めて気付いた。
ボクなんかとは違う。
ボクみたいに『なんとなく、リオの背中を追い掛けて』なんて単純な理由じゃなくて、リオは、この世界の哀しみを少しでも減らしたくて、そのために魔法遣いになる道を選んだんだ。
マリアの姿をじっと見つめ、リオは小さく言った。
「もう、僕はここには来ない。だから今日は、お別れを言いにきたんだ」
その口調は、目の前の女性に言っているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
何もかもを忘れ、ボンヤリと宙を見つめるリオを見て、ボクは、その時の光景を思い出していた。
『魂』とは別の何かが、精神を奪われたリオの躰には残っている。
ならば、自然が肉体を風化させてしまうまで、リオは苦しみ続けなければならないのだろうか?
それはボクにとって、世界の終わりと同じくらい、底の見えない暗闇を伴う、とてつもない恐怖だったんだ。
次回予告:リオを取り戻すため、アルフが、ルーが森を駆ける!
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は1月12日(金)!
宜しくお願いします!!