第4章 ひび割れ No.2
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜」の続編です。
◇◇◇ 第四章 ひび割れ ◇◇◇ No.2
アルフは、独りで外出先から戻る時は何時も、カナンの大木の雄大な姿が見えてくるとホッとした。
もうすぐ家に着く。
リオやルーが迎えてくれる。そんな安心感に胸が満たされる瞬間だからだ。
だが、今日は何かが違っていた。
ポラリスの森を南に向かって進めば進むほど、次第に不可思議な想いに駆られていく。
それは、胸を締めつけるような深い哀しみ。
誰かの想いに森が共鳴している、そんな嫌な感じだった。
何かあったのだろうか?
不安に急かされるように、アルフは杖の速度を速め、木々の枝の間を疾走した。
玄関のぶ厚い木の扉に体当たりするように肩で押し開ける。すると。
「お帰りぃ、アル」
迎えてくれたのは、拍子抜けするほどに明るいルーの声だった。
「ご飯、もう少しだからね。座って待っててぇ」
いつも通りだ。
ルーに変わったところはない。
ホッと安堵し、次いで、もう独りの友の姿を探して視線を巡らす。
「リオは? まだ戻ってないのか?」
「あれ? アルと一緒じゃなかったの?」
「え?」
「サフなら、もう随分前に家に帰ってったよ。帰りに此処に寄ってくれたんだ。リオの忘れ物届けに」
「なんだと?」
背筋を悪寒が這い上がってくる。
そんなアルフの不安を感じ取ってか、ルーの表情が強張った。
「ボク、リオの帰りが遅いのは、アルフを手伝いに学校に戻ったからだと思ってたんだけど」
「いや、俺のところには来てない」
見合わせたお互いの顔が、次第に色を失っていく。
「……どういう、こと?」
「まさか、リオに何か……?」
何かあったのか?
いいや、奴のことだ。
帰り道で別の友人に逢って、長話に付き合わされているだけかもしれない。
でも、それなら何らかの連絡を寄越すはずだ。
それじゃ、いったい……?
それだけのことが一瞬で頭の中を駆け巡った。
アルフの不安はルーにも伝播したらしい。
次の瞬間には計ったわけでもないのに、二人揃って外へと駆け出していた。
当たって欲しくない嫌な予感が当たってしまったのか?
どうか、取り越し苦労であってくれ。
胸の中で一心にそう願いながら、二人は森の奥へと駆け込んでいった。
※
気付けば、リオは暗闇を彷徨っていた。
汗は頬を伝い、絹のような金の髪を伝って滴り落ちる。
何かに追われている。追い立てられている。
その恐怖から逃れたくて、リオは重い脚を引き摺るように一歩一歩と歩を進めた。
手に触れる木の幹と、素脚に感じる濡れた草の感触から、ここが森の中であることは間違いなかった。
だが、こんな暗い森の姿を、リオはかつて見たことがなかった。
恐怖は背後から、徐々に、しかし確実に迫ってくる。
間近に、もう直ぐそこまで。
追いつかれる。
これ以上は逃げられない!
そう思った瞬間、眼の前に白い影がぼんやりと浮かびあがった。
「運命に甘んじること。それが唯一、お前に与えられた使命。それすらわからぬ愚か者であったとは……」
白い影からするすると腕が伸び、リオを捕らえようと襲ってくる。
リオは咄嗟に躰を捻り、白い腕から逃げるが、思うように動かない脚は、その場に膝から崩れ落ちた。
白い影は、一旦フワリと浮き上がったかと思うと、リオの前に立ち塞がるように降り立った。
精一杯の気迫を込め、それを睨み返すリオ。
「なんと禍々しい!」
聞こえてきた声は、凍てつくような冷ややかさを孕んでいた。
「どうしても我等の言うことを聞かぬというのなら、やむを得ぬ」
再び白い影から伸びた細い腕が、自らの影の中から細長い何かを取り出した。
冷たく煌めく、それは長剣であった。
白い影が、それを頭上高く振りかざす。
硬質で白々とした光を見つめ、リオは全てを諦めた。
草を掴み、両の眼を固く閉ざす。
瞼の裏に、愛しい友の顔が浮かんだ。
(ごめん、アルフ、ルー。もう、二度と逢えない……)
鼓膜を揺さぶる、肉を切る鈍い音。
けれど、次いで襲いくるはずの激痛は、……こない。
訝しみ、震える瞼をゆっくりと開く。
と、眼前に迫る黒い影。
リオと白い影との間に立ちはだかる別の背中が、そこにあった。
視線を上へと動かしていくと、背中の主の左肩口に深々と突き刺さる剣の鈍い煌め。
わけがわからず、リオは茫然とその背中を見つめた。
突き刺さった剣は、一瞬の停止の後、ズブズブという嫌な音を伴いながら、再び白い影の頭上高く掲げられた。
瞬間、黒い影の肩口から真っ赤な鮮血が飛び散る。
生温かい血はリオの顔にも掛かり、染め上げ、滴った。
黒い影は、暫し、その場に両足を踏ん張り耐えていたが、ゆっくりと膝から崩れ、リオの腕の中にばったりと倒れた。
その影の……、眼を固く瞑り、青ざめた横顔を見た瞬間、リオは激しい衝撃に突き抜かれ、身動きが取れなくなった。
影の主、それは……。
「アル、フ……?」
いつの間に来たの? どうして?
呆然とするリオの眼の前で、アルフはよろよろと身を起こすと、再びリオを背に庇うように立ち上がった。
その直後、白い剣が再び彼を襲う。
それはアルフの右肩口から首筋を斬り付け、その勢いにはじき飛ばされたアルフは、黒い草の上、自らの血溜まりの中に倒れ伏した。
信じられなかった。
否、信じたくなかった。
鮮血を吹き出し、倒れた友の姿など。
「やめろぉおおお!」
叫ぶと同時に、リオはアルフの躰の上に覆い被さろうとしたが、彼の意志に反し、四肢はまるで空中の見えない十字架に縛り付けられたかのように微動だにしない。
「やめろ! もう、やめてくれ!」
必死の叫びは、しかし空しく黒い森に吸い込まれていくだけ。
今、リオに出来ることは、なす術なくアルフを見詰めていることだけだった。
そんなリオを嘲笑うかのように、白い剣は執拗なまでにアルフを襲い、傷つける。
アルフの艶やかな黒髪が、見る間に真っ赤に染まっていく。
「アル! アルフ、眼を開けて! アル!!」
リオは叫び続けた。けれど、アルフはぐったりと倒れたまま、身動き一つしてはくれない。
「アル! アルフ……」
視界はぼやけ、友の姿が見えなくなる。
腕も足も折れてしまえとばかりに身を捩り呪縛から逃れようとすぐが、髪が微かに揺れる程度しか動けない。
アルフを襲う剣が空を切り裂く音は、更に激しさを増していく。
「やめて……。もう止めて下さい。お願いです。お願い、だから……」
嗚咽の中から、やっと紡ぎだした言葉は、それで精一杯だった。
剣の音が止まる。
涙に曇る瞳を上げると、真っ赤な血を滴らせた剣を脇に携えた白い影が立っていた。
その後ろには、血の海に沈むアルフの姿がある。
「アル! アルフ!!」
走り寄りたかった。
傍に行き、せめてこの腕に抱き締めたかった。
なのに、やはり躰が動かない。
叫び声だけが空しく森へと吸い込まれていく。
もう、嗚咽しか出ない。
すると、白い影は音も無く近付き、アルフの姿を隠すように立ちはだかった。
伸びた指がリオの顎を掴んで引き上げる。
許せない! ただ、その感情のままに睨み付けると、途端、白い手がリオの頬を激しく叩いた。
「邪悪な瞳で私を見てはならぬ! 瞳を閉じよ!」
屈辱に唇を噛み締めながら、リオはきつく眼を瞑った。
冷たい指先が、リオの顎から頬をなぞり上げる。
「お前が大人しく我々の命に従うのであれば、その者の命までは取らずに置いてやろう。だが、お前がまだ抗うというのであれば、今この場で、その者は死す。……さあ、どうする? お前に選ばせてくれる」
リオは暫く俯いていたが、やがて小さく頷いた。
力のない今の自分にできることは他になにもない。
それが酷く情けなくて辛かった。
その途端、今までリオを縛り付けていた力がスッと消え去った。
「アル!」
倒れ付したままのアルフに向かって駆け出す。
なのに、白い影の背後に透明な壁があるようで、アルフに近づくことができない。
すぐ眼の前にいるというのに。
「アルフ! アル! 眼を開けて!」
見えない壁を必死に叩き続ける。
そんなリオを冷たく見下ろし、白い影は静かな口調で言った。
「私の前に跪き、この掌に接吻せよ。さすれば、その者のこと、この場で忘れてしんぜよう」
「アル! アルフ!」
途端、白い腕がリオの襟元をねじり上げ、鋭く頬を打った。
口の中に鉄の味が広がった。
「聞こえぬ振りをするとは、なんたる無礼!」
冷ややかな声の主は、もう一度、リオの頬を激しく叩いた。
頬の痛さよりも、胸が、……心が痛かった。
胸座を捻り挙げられたままの姿勢で、リオはアルフを見つめ続けた。
倒れ伏した彼は、しかし、もうピクリとも動いてくれない。
これほどまでに己の無力さを思い知らされ、悔しく思ったことが、かつてあっただろうか。
跪くこと。
接吻すること。
その行為が何を意味するのか、わからぬリオではなかった。
それは完全なる服従を意味する行為。
もう二度と、アルフにもルーにも逢えなくなるだろう。
けれど、今、眼の前のアルフを助けられない自分に、他に選択肢などありえようか。
友が傷付く様を為す術なく見つめ続けることは、己の死以上に辛いこと。
「わかりました。貴方に、……従います」
リオは再び唇をきつく噛み締めた。
「しかし、もし……、もしも貴方が、その約束を違えたならば、僕は誓って、どんなことがあろうと、貴方を倒します!」
リオは俯きながら、しかし強い口調でそう言った。
そして、白い影の足許に跪き、差し出された掌に接吻した。
(サヨナラ、アルフ。サヨナラ、ルー……)
瞬間、リオの意識は途切れた。
白い影は凝縮し、一対の翼を擁する人の形を成した。
それは、陶器のように滑らかな掌を差し出すと、地面に倒れたリオの上に翳した。
すると、リオの躰の中から、人の形をした光の塊がずるずると引きずり出され、白い腕に吊されるように立ち上がった。
背に輝く翼を携えたその姿は、まさに、蝶が蛹から成虫へと羽化する光景だった。
全身を顕にした『それ』は、次第に輝きを増し始めたが、白い天使は、その光を畏れ、覆い隠すかのように、片方の翼でその躰を包んだ。
「始めから抗いなどしなければ、このように辛い思いをすることもなかったものを。なんとも愚かな」
「やむを得まい。所詮は、その程度の命」
白い天使は、腕に光を抱き締めたまま、大きな翼をはためかせ、空へと昇っていった。
その後には、草むらの上に力無く横たわるリオの躰が、ポツンと取り残されているだけだった。
次回予告:突然現れた天使達に浚われたリオ。彼等の目的は? その時、アルフは? ルーは?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は12月27日(水)!
宜しくお願いします!!