第10章 生きられる場所 No.1
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜」の続編です。
◇◇◇ 第十章 生きられる場所 ◇◇◇ No.1
そこは、まるで一面に墨を流したような真っ暗な闇に覆われていた。
上も下も、右も左もわからない、光のない空間。
その中を、アルフはゆらゆらと漂っていた。
疲れていた。
酷く疲れていた。
気持ちが萎えきっている身には、己の肉体の存在を意識することさえさえ煩わしかった。
四肢を宙に投げ出し、意識を四散させる。
もう、何も考えたくない。
自由になりたい。
全てから解放されたい。
意識としてあるのは、そんな願いだけだった。
その時、どこからか、何かが聞こえたような気がした。
初めのうちは気のせいだろうと一顧だにしなかったが、やがてそれが意味のある言葉を紡いでいるのだと気付くと、無視し続けるわけにもいかなかった。
アルフは嫌がる意識を耳に集中してみた。
(ドコダ、ココハ?)
どこからともなく聞こえてくる『声』は、確かにそう呟いていた。
頭を動かし、声の源を捜すけれど見つからない。
それは鼓膜を介さず、直接頭の中に響いてくるらしい。
しかも、見えない壁に反響しているようで、酷くくぐもっていて聞き取りづらい。
(ココハドコダ? オレハ、ナニヲシテイル?)
《ニゲテイルノサ》
突如、別の声が割り込んできた。
今度は、少し明瞭な声。
でも、同じように意識の奥の奥で喋っているらしい。
頭が痛い。
二つの声は、主人であるべきアルフを無視したまま会話を続けた。
(ニゲル? ナニカラ?)
《ジブンジシンカラ》
(ナゼ?)
不意に、明瞭な声が沈黙した。
頭が、……痛い。中心から引き裂かれるようにズキズキと痛む。
痛みは暫くの間続き、それがふっと消えると同時に、再び『二人』の会話が始まった。
(ソウダ、オレハ、ミタンダ)
《……ナニヲ?》
再び訪れた沈黙。
だが、今度は長くは続かなかった。
低く、力無く響く声音が答える。
(……ワカラナイ。オモイダセナイ)
《ナラ、ワスレテシマエバイイ》
(ソウダ、ワスレルンダ、スベテ)
《ソウスレバ、ナニモカワラズニスム》
(オレジシンヲ、ウシナワズニ、イラレル……)
その瞬間、今まで床だったはずの空間が抜け落ちた。
足許を支えていたものがなくなり、まっさかさ闇の中に落ちていく。
糸の切れたタコのように不安定な自分。
けれど、それでいいと思った。
もう少し。
あと少しで、全てから解放される。
それは、酷く甘やかな、永久の安らぎへの誘い。
これでいい。
これで全てを忘れてしまえる。
そうすえれば、何も変わらずに済むんだ。
酷く心が安らいでいく。
誘われるまま、より深い闇へと指を伸ばし掛け……。
その時。
耳許で微かに何かが響いた。
さっきまで聞こえていた声とは違う『何か』は、まるで光のように一瞬だけ瞬いて、直ぐに消えた。
ハッとした。
通り過ぎた『何か』を手繰る寄せるように意識を集中させる。
と、今まで朦朧としていた思考が勢い良く回転し始めた。
俺は、いったい何をしようとしていたんだ?
忘れてはいけない『何か』を、今の苦しみから逃れるためだけに、あっさりと手放してしまおうとしていたのか?
思考を停止し、自我を捨て去ってまで。
自身に対する罵倒の言葉を頭の隅で繰り返しながら、耳を澄ます。
すると。
(アル……)
今度はハッキリと聞こえた。
酷く懐かしい、あまやかな声音が、耳の奥、意識の奥を、柔らかく刺激する。
頭の中心かカッと発火した。
弛緩していた四肢に再び血が通い始める。
閉じようとする瞼を無理矢理こじ開け、手足を少しづつ動かす。
(アルフ)
また聞こえた。
刹那、胸の奥がキュッと締め付けられ、不可知の熱いものが頬を次々と伝い落ちていくのを感じた。
声は耳許で優しく囁き続ける。
(帰ろう、アル。僕等の家へ)
躰を曲げ、首を回すと、今まで一面の闇だった空間の一点に、淡い光がちらついているのが見えた。
暖かな、月の光のように柔らかな、ひどく優しい光だった。
行かなきゃならない。
俺には、護らなければならないものがあるんだ。
そんな言葉で己を叱咤し、光に向かって必死に手脚をばたつかせた。
最初は虚ろだった淡い光は、徐々にその光彩を増し、強さを増して、アルフの前にあった。
光に向かって、必死に腕を伸ばす。
それはすっぽりと腕の中に収まった。
闇の中で全てを投げ出そうとした時とは別の、温かな安らぎが心の奥底にまで染みこんでいく。
その温もりをもっとよく確かめたくて、手放したくなくて、抱き締める腕に力を込める。
それはひどく柔らかくて、温かくて、これ以上力を込めたなら壊れてしまいそうなくらい危なげだった。
そっと頬を寄せる。
すると、光は淡く輝く人の形を成した。
淡い月の光の色をした柔らかな長い髪。
リ、オ……?
呟きは余りにも微かで、きっと声にはならなかっただろう。
けれど、腕の中の温もりは、小さく、けれど何度も頷いてくれた。
そうだ。
ここが俺の居場所。
俺が決めた、俺の護るべき場所。
そう思った瞬間、温かな安堵感に包まれ、アルフは穏やかな眠りの深淵へと誘われていった。
※
飛び起きるとは、正にこういう状態を指すのだろう。
怖い夢でも見ているのだろうか、アルフは酷く魘されていた。
流れ落ちる汗を拭っていたタオルがそろそろ役に立ちそうにないと判断したルーが、それを交換すべく立ち上がった、その瞬間、アルフが上掛け布団を跳ね除け、半ば立ち上がらんばかりの勢いで半身を起こしたのだ。
三対の視線が驚きに見開かれて交差し、……その内の一対を『視線』と呼んでも良ければ、だが……、お互いを見詰め合う。
しかし、それはほんの一瞬のこと。
瞳をスッと細め、ルーは柔らかく微笑んだ。
「アルの寝ぼすけ。もうすぐお昼だよ」
「ルー……?」
確認するように呟きつつ、アルフは周囲を見回した。
温かな陽射しが出窓越しに差し込んでいる。
春の訪れを感じさせる明るい光だ。
アルフは、まだ混乱しているのか、何度も眼を瞬かせている。森の中で倒れ、眠っている間に 自分の部屋まで運び込まれたのだ。驚くのも無理はない。
そんなアルフの様子を確認し、少なくとも躰の方は大丈夫そうだと安堵したルーは、遣りかけの仕事を思い出した。
タオルを取りに行こうとしていたのだ。
次いで、汗だくの今のアルフに必要なのは、タオルよりも着替えだと思い直し、部屋の隅のタンスへと脚を向け直した途端、突如鼓膜を振るわせた素っ頓狂な声音に驚き、振り返った。
「……って、ここ、どこだ? 俺、シエン村に行ったはずじゃなかったのか? ジェンダ爺さんは? 俺はいったい……?」
「やだなぁ。なに言ってんの? 自分の家がわかんないの?」
「……家?」
「そうだよ。ボク等の家じゃないか」
少し呆れたという態を装い、ルーは言った。
アルフが再び視線を巡らせる。
木枠の窓。差し込む温かな陽射し。
丸太の壁。淡いグリーンのカーテン。
見慣れた光景を一つひとつ確認しているらしい。
「そっか……」
大きく息を吐く。
なんとか理解してくれたらしいということは、その声音と、落ちた肩の様子でわかった。
タンスから着替えを引っ張り出しながら、何気なく問い掛ける。
「ねえ、アル、お父さんとお母さんに逢ってきたんでしょう? お元気だった?」
「え……?」
「なぁんだ、逢わずに帰ってきちゃったの?」
わざと大袈裟に言った後、ルーはふと不安になった。
アルフの顔色が冴えなかったからだ。
「どうしたの、アル……?」
「俺……」
アルフは右手を額に当て、数度、頭を横に振った。
「よく、覚えてないんだ。村の入り口をくぐったのは確かなんだ。でも、気付いたら……」
「リオが戻ってくること、なんとなくわかったんじゃない? だから、すぐに引き返してきたんだよ」
反射的に、ルーはそう言った。
無論、なかなか気付かない鈍いアルフに業を煮やして、という意図も働いていた。
瞬間、弾かれたように顔を上げ、部屋の隅をじっと凝視したアルフの視線の先には、さっきから微動だにもせず、ちんまりと座り続けるリオがいる。
彼の姿を暫し見つめた後、アルフは納得の態で「……そうか」と、ポンと両手を打った。
が、次の瞬間、その顔色がさっと変わった。
「……って、俺のことなんかどうでもいいんだよ!」
「リオ!」
二つの声が見事に重なった。
反射的に肩を揺らし、背筋を伸ばしたリオは、ほんの少し唇の端を歪め、決まり悪そうに小首を傾げた後、遂には諦めたというふうに、こちらに正対した。
アルフは布団を跳ね除けて勢いよく歩き出し、リオの肩を掴みかけ……、けれど、その直前で躊躇したように一歩身を退いた。
持て余した手をベッドの背を乗せ、佇んだままリオを見下ろす。
「……大丈夫なのか? 何も、されなかったか?」
リオは小さく笑った後、コクリと頷いた。
その微笑みは、妙に大人びていて、……とても綺麗だった。
「うん、大丈夫。心配掛けて、ほんと、……ごめんね」
少しだけ竦めた肩が、酷く華奢に見えた。
「そっか……」
アルフの全身から、スッと力が抜けていくのがわかった。
次いで、ベッドに座り込む。
「よかった。ホントに、よかった……」
背中を丸め、両手の中に顔を埋める。
かつて、これほどに力ない彼の姿を見たことがあっただろうか。
やはりまだ、躰の方が本調子ではないということか。
次いで訪れた空虚な沈黙。
ずっと待ち望んでいた瞬間のはずなのに、それを素直に喜ぶことのできない自分を明確に認めていたルーは、
アルフの体調を気遣いつつも、躊躇いがちに、さっきから気になっていた問いを言葉にした。
「ねぇ、リオ。それ、本当なの?」
斜め横からじっとリオを見据えたままの問いは、自分でも驚くほどに淡々としていた。
「本当に、何もされなかったの?」
アルフは訝しむように眉根を寄せ、顔を上げた。
そしてリオは、……俯いたまま。
振り返ろうとすらしない。
さっきから感じていた違和感が、明確な疑問の形を為して、今、ルーの唇を動かし続けていた。
「なら、どうして?」
言葉にしたなら、その瞬間、それが現実になってしまいそうで怖かった。
「どうして、さっきから、眼を、……開けないの?」
刹那、アルフはベッドから腰を浮かし、リオの顔を覗き込んだ。
リオは、その視線から隠れるように俯いたが、近付いてきたアルフに顎を捕えられると、それ以上は逆らわなかった。
「リオ? おい、リオ!」
呼びかけつつ、鼻の先が触れそうなほど顔を近付ける。
それでもリオの瞼は、……開かない。
「お前、まさか……」
アルフの声音は震えていた。
リオは顎に掛かる手をそっと退け、再び小さく笑った。
「此処に戻ってくるための代償なら、安いものだよ」
ルーの心の中で何かが音を立てて罅割れた。
こめかみが痺れ、頭の中心で火花が散った。
と、次の瞬間、それは真っ白な世界へと変貌した。
「……冗談じゃ、ない……」
アルフが呟いたが、それを黙って聴き続けるだけの気持ちの余裕が、今のルーにはなかった。
胸の奥底を焦がす怒りに、爆発する感情を抑えきれなかった。
「冗談じゃないよ! それって、なんなんだよ!」
付けば、ルーは半ば悲鳴のように叫んでいた。
しかし、一度口にしてしまったことで火のついた感情は、完全に自制心を失っていた。
「ひどいよ! あんまりじゃないか! 勝手に連れ去っておいてさ、戻るための代償って、いったいなんなんだよ!」
「ルー……」
驚いたアルフの顔が視界の隅にある。
だが、それでどうなるものでもなかった。
こんなふうに感情を爆発させたのは初めてだったかもしれない。
それくらい、ルーの怒りは頂点に達していた。
「ボク等がどれだけ心配したと思うの! リオを連れ戻す手掛かりが見付かるかもしれないからって、アルなんか、辛い想い出しかない故郷にまで行った。ボクは、……そりゃ、ボクは何にもできなかったけど、毎日まいにち、すっごく心配したんだ! それなのに……」
喉が詰まり、一瞬、言葉が途切れた。
次回予告:二人の許に戻るため、視力を失ったリオ。アルフとルーは?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は5月2日(水)!
本連載も残すところ2話となりました。最終話に向けて頑張ります。是非この後もご覧下さい。