第9章 純白の影 暗黒の光 No.2
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼」の続編です。
◇◇◇ 第九章 純白の影 暗黒の光 ◇◇◇ No.2
洞窟の奥は、外見からは予想すらできないほどに整然とした住居となっていた。
眼は見えなくとも感じることはできる。
どこに何があり、それが命を持っているか否か。
敵か、味方か。
案内された部屋の中を一周、ぐるりと漂ったリオの意識は、ある一点に釘付けとなった。
意識の真ん真ん中に飛び込んできたのは、部屋の一角に設えられたベッドの中で背を丸める人の気配。
外敵に怯え、身を縮めて震える子狐のような……。
アルフ!
間違えるようはずの無い、彼の気配。
駆け寄ろうと一歩脚を踏み出し掛けた瞬間、肩にそっと手が添えられ、動きを制せられた。
苛つく感情を抑え、見えない眼で見上げると、マチェラは静かに首を横に振った。
「とても疲れているようなの。貴方の気持ちもわからないではないけれど、……お願い、もう少しだけ休ませてあげて」
『お願い』
今、確かに彼女はそう言った。
衝撃だった。
よもや、彼女の口からそんな言葉が出ようとは思いもしなかったから。
誰にも口外したことはないが、リオは実際、過去に数度、この森を訪ねている。
けれどその度、追い返されこそしなかったものの、一方的にからかわれるだけで、彼の問いに明確な答えが返ってきたことなど、ただの一度もなかった。
噂では、とても気難しい女性だと聞き及んでいた神護りのお婆。
実際に逢ってみれば、噂ほどの頑固者ではないにしろ、知恵を授けてくれる森の長老のイメージからはほど遠い、破天荒な女性という印象ばかりが強く残っていた。
それなのに、今、彼女はアルフのために『お願い』という言葉を口にした。
驚きだった。
なにが彼女を心変わりさせたのだろう。
否、彼女は何も変わっていないのかも知れない。
アルフという要因が、はたまた別の何かが、いままで表面に現れていなかった彼女の内面を顕在化させただけなのかも知れない。
その原因も理由も、リオにはわからなかったけれど、彼女の言葉がリオをからかうためのものではなく、アルフを気遣う心から発されたものだということだけは信じられた。
とにかく、逢えた。
アルフの無事な姿を確認することが出来た。
その事実だけで、張り詰め続けていた気持ちがゆっくりとほぐれていくのを、リオは確かに感じていた。
マチェラに促されるまま、リオは隣の部屋へ移動し椅子に腰を下ろしたけれど、その間、一瞬たりともアルフから意識の視線を外すことなかった。
リオの正面、テーブルに片手を着いたマチェラが、小さく息を吐く気配が伝わっていた。
「あの子、……貴方の大切なお友達に、間違いはない?」
「はい」返事と同時に素直に頷く。
マチェラは僅かに眉を寄せ、眼を細めた。
「そう。やっぱり、あの子が……」
深い溜息とともに椅子に腰を下ろす。
衣擦れの音でそれがわかった。
遅々とした時間だけが流れていく。
二人とも、暫し無言だった。
アルフは貪るように眠ったまま、眼を覚ます気配すらない。
このまま目覚めなかったら……?
そんな不安が、一瞬、胸を締め付けた。
マチェラは何も言いはしないが、リオだって知っている。
哀しみが余りにも深すぎるがゆえに、その哀しみに心を捉えられ、現実から逃避すべく眠り続ける人がいることを。
ムクムクと頭を擡げる不安を、しかし、首を何度も横に振って追い払う。
大丈夫。きっと大丈夫だ。
自分勝手で頼りない思いだとわかってはいたけれど、今は自らにそう言い聞かせていないと不安に押し潰されてしまいそうだった。
沈黙のまま流れる時間が酷く居心地悪く、リオは無意識に椅子に深く座り直した。
ふと、眼前のマチェラの肩が小さく震え出したことに気付いた。
と、思う間もなく、押し殺したような笑い声が鼓膜を揺らした。
不快感も露わに訝しみの視線を向けるが、マチェラの忍び笑いはやまない。
「何か……?」
苛立ちを隠すことなく、リオは短く言った。
マチェラは微かに視線だけを上げ、軽く右手を振った。
「あら、ごめんなさいね」
言葉とは裏腹に、全く悪びれることなく、その声は楽し気に震えている。
「あたしも、まだまだイケるんだなぁって思ったら、なんだか嬉しくってぇ」
意味がわからず、リオは眉間の皺を深くした。
それに気付いているであろうマチェラは、忍び笑いに言葉を乗せた。
「マチェ湖の畔で見つけてね、可哀想だから、ここに連れてきてあげたの。彼、最初は寝返りも打てないくらいに弱りきってたのよ。あんまり不憫でね、ほんの少し力を戻してあげたの。そしたら……」
再び、今度は先ほどまでよりも明らかに甲高い思い出し笑いが暫く続いた。
「子供っていっても、やっぱり男の子よねぇ。急にあたしに襲いかかってきたのよ。確かに油断はしてたけど、あたしもあっさり押し倒されちゃってぇ」
上目遣いに見上げた粘着質な視線がリオに絡みつく。
「彼、可愛いわよねぇ。頑なな態度が乙女心をくすぐるっていうのかしら? お姉さんが、ちょっぴり慰めてあげようかなぁ、なんて……」
刹那、頭の芯がカッと熱くなった。
モヤモヤとした感情が、胸の奥から一気に噴き出す。
気付いた時には椅子を蹴って立ち上がっていた。
左手は彼女の胸ぐらをねじり上げ、壁を背にさせて細い喉元に肘を押し当てる。
「……何を、したんです?」
食いしばった奥歯の隙間から言葉を絞り出す。
肘に少しばかり力を入れれば、彼女の首は折れてしまうに違いない。
自身の行動に驚きつつ、けれど、一旦火が着き爆発した感情を制御することは、今のリオにはできなかった。
これにはさすがにマチェラも驚いたらしい。
笑みが固まり、暫しマジマジとリオの顔を凝視していた。しかし、自らの行動への困惑で力の弱まっていたリオの腕から逃れることは容易だったらしく、スルリと抜け出すと、口許に手を添えてケラケラと笑い出した。
「いやだぁ。あなたもそんな顔するのね。たっのしい」
ハッとした。あからさまな彼女の挑発に、簡単に乗せられてしまった。
彼女流の冗談を冗談として受け流す心の余裕もなくなっていた己の迂闊さを呪い、口内でチッと小さく舌打ちしてから床に視線を落とした。
マチェラは、全てお見通しよ、とでも言いたげに、壁に背を預けると、リオの顔を下から覗き込んだ。
「でもね」
指先でリオの鼻の頭をつんと突く。
「おやめなさい、そんな顔。貴方には似合わないわ。人ってね、嫉妬に歪んだ顔ほど醜いものはないのよ」
頬がカッと、発火しそうに熱を帯びた。
マチェラは再び、今度は少しの困惑を匂わせながら笑った。
「平気よ。あなたが心配するようなことはなにもなかったから。……っていうか、私の胸に顔を埋めたまでは良かったんだけど、あの子ったら、結局そこまでだったのよ。急に動かなくなるから、変だなぁって思ったら……」
窄めた肩の高さで両手をヒラヒラと振る。
「酷いったらないのよ。そのままぐーぐー寝ちゃったてたの。失礼しちゃうわよね。せっかくの豪華な据え膳だったのに。貴方が来なかったら、あたしの方から襲ってたかも。残念だったわ」
どこまでが本心で、どこからが冗談なのか。
イライラと波立つ心は静まらない。
そんなリオの気持ちを知ってか知らずか、マチェラは、わざと大袈裟に震えてみせた後、自分の両手で自分の躰を抱き締めた。
「だぁいじょうぶよぉ。あたしは、身も心もあの方に捧げた女よ。いくら可愛い男の子だからって、そう簡単に操を捧げたりしないわよ。それに……」
次いで、つまらなそうに大きく溜息を吐く。
「あの子の瞳に私は映っていなかった。ホント、興醒めもいいところよ。まったく、バカな子よね。こんな美女が誘ってるっていうのに」
瞬間、全身の力が抜けた。
頭の中が冷え、それと相反して、今度は両の頬が熱を帯びた。
なんという失態。
気まずくて、気恥ずかしくて、リオは顔を逸らして俯き、そのままの勢いでぺこりと頭を下げた。
「すみませんでした。つい……」
「いいのよぉ。気にしないで。けしかけたのは私の方だし」
腕を組むと、細い指先を頬に添えた。その口許は柔らかく微笑んでいた。
「お母さんでも思い出したのかしらね。凄く安心した顔してた。だから、起こせなくて。それから、ずっと眠ったまんまよ」
まるで独り言のように呟くと、マチェラはドレスの裾をヒラリと翻し、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
どうして良いかわからず、暫し佇んでいると、悪戯っぽい視線を感じた。
微かな忍び笑いが聞こえ、その方向に顔を向ける。
「いいものを見せてもらったわ。貴重な経験ね」
マチェラの言葉に、再び頬が紅潮した。
それを隠したくて、俯いたまま椅子に腰掛ける。
彼女は、いったい何を知っているのだろう。僕の知らない何を……?
そう思うと、胸がキュンと痛んだ。
きっと、問うたところで彼女は何も教えてはくれないだろう。
色の薄いブルーグレーの瞳を読み解くことは、今のリオにはできはしない。
唇を軽く噛み、リオは隣の部屋で眠り続けるアルフのことを思った。
アルフの苦しみを思った。
辛くて情けなくて、酷く悔しかった。
僕はいったい何をしていたんだ。
彼がこんなにも苦しんでいた時に。
両の手を膝の上で硬く握る。
抑えようとしても、震えが止まらない。
マチェラに気付かれないようにと、それだけを願ったが、それすら無駄だったらしい。
小さな吐息に続き、優しい声音が降ってきた。
「今日はもう遅いわ。この森の中を独りで動き回って良い時間じゃない。今夜はここに泊まってらっしゃいな」
「でも……」
「眼鏡のお友達なら大丈夫よ。よく眠っているわ。貴方達が帰る時までは、きっとこのまま、良い夢を見ているに違いないわね」
全てお見通しか。
そう思った瞬間、肩の力が抜け、同時に苦笑が零れる。
所詮、子供の自分にできることなどなにもありはしないのだ。
こうして何もできないまま、心配に顔を曇らせ、座り込んでいるくらいしか。
「どうせ、今夜は眠れないでしょう? なら、少し話し相手になってくれないかしら? お礼に美味しいお茶をご馳走して差し上げてよ」
そんなマチェラの誘いに、リオは小さな頷きで答えた。
次回予告:マチェラとの会話の中で知らされるLURIAの真実。アルフは目覚めるのか?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は4月120日(金)!
本連載も残すところ4話となりました。是非この後もご覧下さい。