第9章 純白の影 暗黒の光 No.1
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜」の続編です。
◇◇◇ 第九章 純白の影 暗黒の光 ◇◇◇ No.1
窓辺の椅子に腰を下ろして、リオがボンヤリと空を見上げている。
今日は朝から天気が良くて陽射しも穏やかだからと、その場所に椅子を据えたのはルーだ。
彼はリオの隣で、リオと同じように椅子に腰掛け、本を読んでいた。
開け放した窓からそよそよと流れ込んでくる微風は、この時期には珍しいくらいに暖かい。
そこに紛れる芽吹く若葉の香りを楽しみながらページを繰っていたルーは、何かに遮られるように、ふと手を止めた。
風の音がほんの少し揺らいように思えたからだ。
顔を上げ、無意識の中にも期待を込めて周囲を見回す。
……けれど、やはり何も変わってはいない。
飽くことなく空を見上げるリオが、そこにいるだけだ。
変わらない。
なにも、変わりはしない。
リオは心を失ったままだ。
金糸のような長い髪が、穏やかな風に煽られて踊っている。
リオがいる空間。
リオがいる風景。
それ自体は何も変わらないけれど、周囲を包む空気が何時も以上に透明に感じられるのが、微かに気になる。
今のリオは、まるで産まれたばかりの赤ん坊のようだ。
碧の瞳には、いったい何が映っているのだろうか。
そしてそれは、リオの中を通り過ぎていくだけなのだろうか。
「ねえ、リオ。君のその瞳には、いったい何が見えてるの?」
問い掛けても、リオは答えてはくれない。
視線は不思議そうにルーを捉え、次いで室内を泳いだ後、再び空へと向けられた。
『それでも、リオはリオだ』
気休めとわかっている言葉を、ルーは今日も心の中で繰り返した。
このままリオの心が戻らなかったとしたら、今、目の前にいる彼は、どうなってしまうのだろう。
赤ん坊だって、時と共に成長していく。
言葉を覚え、自我を持った彼は、リオではないのか?
ならば、その時の彼はいったい……?
頭を振って、考えを意識の外に飛ばす。
リオは戻ってくる。
必ず。
今、それ以外に信じてはいけないと、己に強く言い聞かせる。
小さく溜息を吐いた後、ルーはリオの膝元にペタリと座り込み、その膝頭に手を添えた。
温かさが伝わってくる。
「アルフは故郷の村に出かけていったきり、まだ戻らないよ。君を取り戻すための鍵を探しに行くんだって言って。何かあったのかな、もう五日になるのに……」
ふと不安になってリオの膝に頬を寄せた。
「ねえ、リオ。ボク等、このままバラバラになっちゃうの? ボク等、一緒にいられないの? ねえ、リオ、応えてよ。早く戻ってきてよ。ボク、……淋しいよ」
その時だった。
何時もと違う、微かに生暖かい風がルーの頬を撫でた。
反射的に顔を上げ、周囲を見回した後、眼前の端正な顔を覗き込む。
すると、リオの瞼がスッと閉じられ、次いで、深く息を吸う気配が伝わってきた。
「リオ……?」
ルーは慌てて立ち上がり、リオの肩に手を掛けた。
……と、次の瞬間、ルーは天井と床が逆転するような浮遊感を覚え、同時に遠退く意識を感じた。
※
ルリアの民は、この場所を『闇の森』と呼ぶ。
この森を覆い尽くすのは、全ての力を無にする絶対的な力。
それ故に、この森に入った瞬間から、あらゆる魔法が意味を持たなくなるのだ。
けれど、その名の本当の由来は、別にあるとも言われている。
この地で魔族が生まれたのだと言う伝承故だ。
そのため、ルリアの民は畏怖と共に嫌悪を込めて、この場所をそう呼ぶ。
前屈みに躰を折り、前脚に体重を掛けながら歩く。
そうしていなければ倒れてしまいそうだった。
木々に縋りながら、一歩、また一歩と、リオは歩を進めた。
少しでも前へ。
少しでも……。
この場所は、苦手だ。
色濃い力が満ちていて、押し潰されそうになるから。
左の肩口で結んだ長い髪が解れ、汗が滴る頬に張り付く。
けれど、そんなことを気にしている時間など、今のリオにはなかった。
光さえ届かぬ暗い森の中を、ただ黙々と歩き続ける。そうしなければならなかった。
アルフが呼んでいる。
音として、声として、鼓膜を直接揺らすわけではないけれど、哀しいくらいの叫びが胸の奥底にハッキリと響いていた。
いま行く。
だから、待ってて!
心の中でそれだけを繰り返しながら、リオは歩き続けた。
そうして、どれくらい歩いただろう。
不意に何かが目の前に立ちはだかった。
脚を止め、様子を窺う。
気配は暫し身動き一つせずリオを見下ろしていた。
やはり来たか。
心の中で小さく舌打ちする。
姿を確認する必要も、ましてや声を聞く必要もありはしない。
全身から漂う色濃い気が、気配の主の正体を如実に物語っていた。
ルリアに神が降り立った場所とも言われるこの森は、全ての魔法を無にするだけでなく、不可思議な力に満ちている。
その力の意味を知っているのは、現存する長老達の中でも最古老の、ごく限られた人達だけだと聞く。
そして今、リオの動きを観察しているのであろう『その人』も、その意味を知る数少ないルリア人の一人と言われている女性だ。
『神護りの御婆』
三千年以上の時を生き、その人生の大半をこの森で独り暮らしている彼女を、多くのルリアの民はそう呼び慣わしている。
できることなら今は逢いたくない相手だったが、この森に脚を踏み入れた以上、それは出来ぬ相談だということなのだろう。
とにかく今は、敵意のないことを示すために心を開き、ただ無心に脚を前へと進めること以外、リオに出来ることは何もなかった。
更に暫く歩くと、広々とした湖が眼前に広がった。
ルリアの全ての泉の源流と言われるマチェ湖だ。
リオは一つ大きく溜息を吐き、流れ落ちる汗を右腕で拭うと、眼を細めた。
マチェ湖の湖面が、自ら放つ柔らかな光でに輝いていて眩しかったのだ。
十数年前、まさにこの場所で、魔族と天界の凄惨な戦いが繰り広げられたことなど想像すら出来ないほどに、その光景は美しかった。
森の回復力を見せ付けられる想いだ。
リオは疲れきった表情を隠そうとするかのように、両手の平で顔を二回叩き、背筋を伸ばすと、更に歩を進めた。
強い力に遮られ、一歩進むごとに激しい目眩に襲われたが、そんなことに構ってなどいられなかった。
アルフの声は、この先から聞こえてくる。
次第に強まりながら、今ではハッキリと。
ならば、進まねばならなかった。
躊躇いも後退も、今のリオの選択肢の中には存在しなかった。
その時、不意に独りの女性が眼前に現れた。
漆黒のドレスに身を包んだ細身で長身の美しい女性だ。
彼女はブルーグレーの瞳を瞬かせ、暫くの間、じっとリオを凝視していた。
無言のまま、リオは正面から彼女の視線を受け止めた。
強い圧迫感に押し返されそうになりながら、必死に脚を踏ん張る。
やがて、彼女の唇の両端が上がったかと思うと、それは極上の、酷く魅力的な笑みとなった。
同時に、それまでリオを押し包んでいた強い力がふっと消え失せた。
「いらっしゃい、天使のリオ君」
急く気持ちを抑え、リオは静かに頭を垂れた。
「お叱りは承知の上で参りました。神護りの御婆様」
「もう!」
女は腰に手を当て、胸を張った。
明らかに不満げな顔つきだ。
「あたしのことは『マチェラ』と呼んで頂戴って言ったでしょう。女は何時までも若くありたいものなの。貴方みたいな綺麗な子に『お婆』なんて呼ばれるのは女としてのプライドが許さないのよ。わかった?」
「では……」
マチェラは肩を揺らし、大きな溜息を落とした。
「ハイハイ、わかったわ。意地悪してごめんなさい。貴方はただの、魔法使い養成学校の生徒。……これでいいのよね?」
「はい」
答えてから、リオは深々と頭を垂れた。
「貴女の森を騒がせてしまったことは謝ります。無断で立ち入ったことも。お叱りは、後日、改めて受けに参ります。ですから、どうかお願いです。今だけ、僕を通して下さい」
マチェラは、更に一歩近付いたかと思うと、リオの顎の先に指先でそっと触れた。
「そんなこと、怒ってないわよ」
掠れ気味の高音が、少し哀しげに言った。
「残念ね、綺麗な翡翠だったのに」
閉じたきりの瞼の理由を問うているのだということはすぐにわかった。
だが、今は説明している時間も惜しい。
右手の甲で彼女の指先を払うと、リオは短く言った。
「眼など見えなくとも、感じることは出来ます。それで充分」
「そう」
再び哀しげに呟く。
彼女の意図が解せず、リオは、続けられるであろう言葉を待った。
けれど、予想に反し、彼女はなかなか口を開こうとはしなかった。
ジリジリと、時間だけが過ぎていく。
森に満ちた濃い霧のような気が波打つように騒いでいる。
それに遮られ、周囲の様子を上手く感じ取ることができないことも、リオを苛立たせる原因の一つだ。
それでも、強く、弱く、アルフの声はこの奥から聞こえる。
それだけは間違いなかった。
相変わらず動こうとしないマチェラの様子に業を煮やし、リオは自分から口を開いた。
「僕になにかご用件ですか?」
つっけんどんというより、切り捨てるような口調。
けれど今は、言い訳する気にもならない。
マチェラの口許に、少し意地悪な笑みが浮かんだ。
「あら、ごめんなさい。急いでいるようね」
「はい、とても。友を探しているので、今日は貴女のお相手をしている時間などないんです」
「もう! これだから、貴方は! レディの扱い方くらい、今から覚えておかなかったら、後で山ほど後悔するんだから!」
からかう口調が、燗に障る。
とうとう我慢できなくなり、リオは声を荒げた。
「そんな後悔などいくらでも! しかし、今この時、彼を失ってしまったなら、後悔なんかじゃ済まなくなる! だから、お願いです! どうか、そこを通して下さい!」
「ホント、貴方のその性格って損だわよ。見た目が可愛い分、余計に冷たく感じちゃうから」
頭痛がしそうなくらい苛立った。
もう限界だった。
礼を失することだとわかっていたが、それすらどうでもいいと思う気持ちの方が強かった。
彼女を押し退け先へ進もうと一歩脚を踏み出し掛けた、その瞬間。
「ねえ……」
先ほどまでのからかう口調から一転、硬い声音がリオの脚を止めさせた。
「貴方が探しているお友達って、黒髪の男の子じゃなぁい?」
愕然とした。
振り返ると同時に、リオは短い問いを口にしていた。
「どう、して……?」
「あら、わからない?」
ブルーグレーの瞳が、窺うように細められる。
その瞬間、怒涛となって胸に流れ込んできたのは、深い哀しみ。
そして、その哀しみは紛うことなく彼のもの。
訝しむ気持ちに連座し、顰めてしまった眉根。
「アルが、……ここに?」
視界の中に、マチェラの姿をはっきりと捉える。
長い睫の奥でブルーグレーの瞳が僅かに揺れていた。
「そう……。彼の名前、アルっていうの」
それだけ言うと、リオの答えを待たず、マチェラは長いドレスの裾を翻してクルリと背を向けた。
「ついていらっしゃい」
促され、マチェラの後に続く。
その眼前で、湖の畔の一角を形成していた巨大な岩壁が音もなく口を開いた。
瞬間、胸に響く哀しみの色が、より濃くなる。
彼はいる。間違いなく、この奥に。
今や確信となったそれは、いやがおうにもリオを急かした。
マチェラを押し退けてまでも洞窟の中に駆け込もうとしたリオは、けれど、柔らかな感触に進路を塞がれた。
マチェラが突然立ち止まったため、その背中にぶつかったのだと気付き、慌てて一歩後退し掛けたその時、右手を取られ、掌の中に何かを握らされた。
「あげるわ」
指先にあたるのは、硬く冷たい感触。
恐らくは、クリスタル。
彼女が創ったものなのだろうか。
色は……?
せめて色だけでもわかれば、彼女の意図を解することもできようが、今のリオにそれは叶わなかった。
「これは……?」
短く問うたけれど、マチェラは答えてはくれなかった。
再び歩を進める彼女の、まるで独り言のような囁きだけが耳に届いた。
「貴方にあげる。好きにしなさい。でも、貴方が本当に黒髪のお友達を大切だと思うのなら、悪いことは言わない。彼には決して触れさせないこと。開けてはいけない禁断の扉の鍵になるかもしれないから」
次回予告:マチェラに案内され、洞窟の中に入っていったリオ。アルフとは逢えるのか?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は4月16日(月)!
本連載も残すところ5話となりました。是非この後もご覧下さい。