第8章 望郷の想い No.1
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜」の続編です。
◇◇◇ 第八章望郷の想い ◇◇◇ No.1
流れ落ちる汗を拭おうと手の甲で額に触れると、ズキリと痛んだ。
慌てて手を引っ込める。
掌を見遣れば、半ば固まりかけた血糊がべったりとまとわりついている。
全身のヌルつく感覚が、汗によるものなのか、それとも躰から滲みだした命の糧によるものなのか、定かでない。
全身が冷え、ギシギシと軋んで悲鳴をあげている。
膝は痺れたようにガクガクと震え、足許がふらつく。辛うじて二本の脚で歩いてはいるけれど、真っ直ぐに進むことは出来ない。
もう何度、膝から崩れ、手近の幹に肩から縋ったことだろう。
眼が霞み、視界がぼやけている。
今、俺はどこに居るんだ……?
深い森の中。それだけしかわからない。
早く家に帰らなければ。
焦りが脚を前へと動かす。
しかし、あれから何日経ったものか、朧な頭ではそれさえ定かでない。
だが、出掛けに告げてきた予定の日数をとうに過ぎているのは間違いないはずだ。
飛べずに歩いているのだから、時間のロスは明らかだ。
一日でも早く帰らなければ、寂しがり屋の友に心配をかけてしまう。
いつまでたっても子供じみて、直ぐに泣きべそをかく。
そのくせ口だけは達者で、何時だってやり込められてしまうのはこっちだ。
それが一流の屁理屈だとわかっていても、不思議と嫌な後味を残さないのは、奴の性格故だろう。
哀しい時、辛い時、笑っていられる芯の強さを持っている。
その無邪気さに、何時も心癒されてきた。
大切な友人。
愛しい家族。
そして、もう一人……。
他人の苦しみを、まるで自分のことのように感じ、共に傷ついてくれる人。
何時でも傍にそっと居て、苦しみも辛さも、その半分を引き受けてくれる人。
どんな淋しさも包んでくれる優しい微笑み。
なのに、今は、……いない人。
その姿とポラリスの森のような碧の瞳を思い浮かべた瞬間、胸の奥底がキリキリと痛んだ。
また眼前が霞む。
その瞬間、地面に張り出した木の根に脚を取られて転倒してしまった。
左肩を強かに打ち付ける。
冷たい地面に顔を押しつけると、酷く情けない気持ちになった。
……帰りたい。
今すぐに帰りたい。
彼等に逢いたい!
あの笑顔に癒されたい!
けれど……。
グッと両手を握りしめる。
帰ってもいいのだろうか。
自分にその価値があるのだろうか。
故郷を後にしてから先、何度も何度も繰り返してきた自問。
そして、未だ答えは見つからない。
何よりも大切だと思ってきた。
何よりも大切にしてきた。
一緒にいたいと願ってきた。
それは、決して無謀な願いではなかったはずだ。
けれど、否、だからこそ、傍に居てはいけないのか?
それすらも、自分にとっては許され得ぬ望みだというのか?
指の間から少し湿った土が零れ落ちていく。
柔らかな土だ。
まだ木の葉だった頃の面影を残しているせいか、ガサガサとした感触が掌に残る。
樹は大地の滋養を吸収し、葉を茂らせる。
そうして秋に散った葉は土に帰り、再び自らの糧となる。
それこそが、ルリアに根ざす命の輪廻。
そうだ。
俺達は皆、いつかは土に帰っていくんじゃないか。
ならば、それが今で、なにが悪い?
こうしていれば、俺もやがては大地に溶け込み、ルリアの一部となれる。
万物の命の糧となれるんだ。
我知らず、乾いた笑いが唇を歪めた。
……それも、いいな。
いっそ、このまま消えてしまえれば、どれほど楽だろう。
もう、……いい。
消えてしまえ。
苦しむ必要などないのだ。
全てを無にしてしまえ。
そうすれば、お前は全ての苦しみから解放されるのだ。
……心の奥で、そんな声が響く。
全てを捨てて自由になりたい。
消えてしまいたい。
衝動は、躰の奥深くから徐々に、しかし激しく湧き上がってくる。
気付けば、湖の畔に佇んでいた。
夜か昼かの判断すらも誤らせるボンヤリとした暗闇の中で、自ら放っているのだろうか、淡い輝きが水面を包み、その動きと同調してか、周囲の風景までもがゆらゆらと揺らいで見える。
なぜか胸が締め付けられるほどに美しい光景だった。
アルフは力無い脚でフラフラと、引き寄せられるように湖に近付き、その場にガックリと膝を着いた。
この水底に沈んでしまえば、全ての枷から解放される。
苦しみも、哀しみも、憤りさえ、全てが無に帰し、楽になれるにちがいない。
そんな囁きが、酷く魅惑的に、意識の奥で木霊する。
妖しい美しさを湛える湖面の複雑な水の動きが、まるで誘っているかのように見えたのは、アルフの気の迷いだったのか、否か。
いずれにしろ、その誘惑に抗えない。
アルフは静かに指を伸ばし、水面に触れようとした。
その瞬間……。
ゾワゾワと粘り着くような悪寒が、一気に背筋を這い上がってきた。
反射的に振り返り、身を固くする。
背後を覆って立ち上がっていたものは、哀れなほどに微かな光までも呑み込んでしまったような凝った闇。
黒い影の固まりだった。
それが、アルフを今にも包み込みこもうと大きく両腕を広げていたのだ。
『やっと、見つけた……』
『見つけましたぞぉ』
ざらざらとした、それでいて湿気を含んだ声……それを『声』と言えるのならばだが……が、鼓膜というより皮膚に直接まとわりついてきた。
激しい恐怖。
恐怖。
……恐怖!
それは否めない事実であるはずなのに、その一方で、酷く醒めた自分がいるのはなぜなのだろうか。
俺は、……死ぬのか?
こいつに喰われてしまうのか?
影の動きをじっと凝視したまま、もう一人のアルフは思っていた。
第一、逃げるには躰が重すぎた。
生きようとする欲求が、生きていられる理由が、希薄になりすぎていた。
もう、どうでもよかった。
このまま森の闇に取り込まれ、喰われてしまうなら、それもいい。
闇を恐怖する感情を薄膜で包み込んでしまった、もう一つの感情に操られるままに、アルフはゆっくりと脱力し瞼を閉じた。
※
悪夢が繰り返し観せるのは、同じ場所。
同じ時。
それはいつも、見る影もなく荒れ果てた故郷と、憎しみで醜く歪んだジェンダ翁の顔の映像で始まる。
三年ぶりの再会に、懐かしさのあまり小走りで歩み寄ったアルフに叩き付けられたのは、氷のように冷たい一言だった。
「寄るな、疫病神め!」
老人の眉間に深く刻まれた皺と、真っ直ぐに突き出された斧の鈍い輝きが、その言葉が冗談などではなく、心の底から滲み出す嫌悪によって発せられた言葉だと無言で語っていた。
無論、村人達に歓迎されるわけなどないことくらい、はなから覚悟の上での帰郷だ。
なじられ、罵倒されても仕方がないと思っていた。
けれど、少なくとも両親とこの老人だけは笑顔で迎えてくれると信じていた。
それなのに……。
発熱した感情が、頭から冷や水を掛けられたように急速に冷めていく。
喉の奥に異物が詰まったようで声が出せない。
結局、そんなもんなのか?
人の心とは、こんなにも移ろいやすいものだったのか?
驚きというより、三年間の時の流れの重さに気付けずにいた己自身が情けなくて歯噛みする。
アルフのそんな思いを知ってか否か、老人の言葉は辛辣さを増しながら積み重ねられていく。
かつて優しかった老人と同一人物だとはとても思えぬほどに苦々しく顔を歪めながら。
「何処の誰の子とも知れんお前を森で拾ってしまったとルヒルから相談された時、俺はやめろと言った。あいつ等夫婦に子供がいないのは可哀想だと思っていたが、別の種族を村に入れたら必ず不幸がやってくる。昔からの伝承には必ず根拠があるもんだから、やめておけ、とな。なのに、ルヒルの奴、俺の助言に耳も貸さんかった」
ジェンダは怯えるように躰を震わせ、その場に膝をついた。
「結局、こんなことになっちまった。バカな奴だ。お前なんか拾ったばかりに……」
「いったい、何が……、あった?」
震える唇で、やっとそれだけ訊いた。
瞬間、ジェンダは眼を剥き、鬼のような形相でアルフを指差した。
「お前のせいだ! 村は闇に食い潰されちまった。お前が村に連れ込んだ闇にだ!」
(俺が招いた……、闇? 何のことだ?)
根拠ない誹謗中傷には慣れっこのはずのアルフの胸に、しかし、老人の言葉は鋭く突き刺さった。
悔しさが胸の奥から沸々と湧き上がってくる。
「父さんと、母さんは……?」
感情を抑えて短く問う。
自分の知らないところで、身に覚えのない疑いを掛けられるなんて真っ平だ。
父と母に逢おう。
逢わなければならない。
父と母なら、今この村でなにが起こっているのか、わかりやすく説明してくれるに違いない。
優しかった老人の心を変えてしまうほどの何か。
彼の言葉から察するに、恐らくは村人達が震え上がり、怯えるほどの何か。
それがなんなのか、自分の眼で確かめなければならないと、そう思った。
ジェンダは暫し憎々し気にアルフを睨め付けていたが、やがて意を決したように大きく息を吐き、背を向けて歩き出した。
付いていくしかなかった。
辛い想い出ばかりのこの地に、軽い気持ちで帰ってきたわけじゃない。
この場所で、校長先生の言っていた『真実』を見定めるまで、逃げ出すことなどできはしない。
それが僅かでも友を救い出す一助となりうるのであれば、今の自分はそれを為さなくてはならないのだ。
ならば、この先になにが待っていようと、前に進むしかない。
突き進むだけだ。
それだけを心の中で繰り返し、アルフは村への一歩を踏みしめた。
次回予告:闇の森を彷徨うアルフ。彼を捕らえようとする怪しげな力。そして、現れた謎の美女。敵か、味方か? その正体は?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は3月30日(金)!
宜しくお願いします!!