第7章 天上界 No.5
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜」の続編です。
◇◇◇ 第七章 天上界 ◇◇◇ No.5
そこまで思って、強く首を横に振った。
違う。
錯覚だ。
過ぎ去った時は、繕えはしない。
三千年の時は確実に流れ、世界を変えてしまったではないか。
思い出せ!
『彼』ではない。
この子の名はリオ。
天上人としての外見は酷似していても、我が最愛の友ではないのだ。
異界の地に住む、まだ、たった十三歳の少年なのだ。
改めて思い返し、ケルビムは己を戒める意味を込め、務めて厳しい口調を装った。
「リオ。君のその美しい碧の瞳には、全てが見えているのでしょう? 君が苦しめたくないと願い、自らを奉じてまで護ろうとした大切な友人は、今、苦しみもがいています。全ては君がルリアの地を去ったがために」
彼の地にある時、この少年に掛けたのと同じ口調で言った。
「さあ、どうなのです? 彼等を傷つけたくない、護りたいという君の願いは、これで叶えられたといえるのですか? 君は、これで満足なのですか? 彼等を哀しませ、絶望の淵に追い込むこと。これが、君の望んだ結果なのですか?」
途端、それまで頑なに感情を隠していた瞳から、スッと力が抜けた。
その姿は一回り小さくなり、眼に馴染んだ少年の容姿に変わる。
彼の震える唇から、絞るような言葉が漏れた
「それでも、命を奪われるよりは、……いい」
「愚かな! 君は本当にそう思っているのですか? 命を奪われる以上に辛いことなどあるはずがないと、本気で思っているのですか?」
リオは何も答えなかった。
答える代わりに、堪えきれず漏れたのだろう嗚咽だけが聞こえた。
白い頬を伝い落ちる涙は、まるで星屑のようにキラキラと輝いて見えた。
「僕等の、出逢いは……」
やっと絞り出した声音は震えていた。
「僕が彼と出逢ってしまったことは、僕に対する罰なのですか?」
ケルビムの肩が無意識にピクリと波打った。
見つめる視線の先で、リオがきつく瞼を閉じる。
そうすることで外界との絆の全てを断ち切ってしまいたいと願っているように見えた。
「……生まれてなど、こなければよかった」
「リオ、いったい……」
「どう頑張ったって、どう足掻いたって、僕等が出逢ったことは苦しみしか生まない。始めから、そう仕組まれていたんだもの。なら、……そんな命なら、いらなかった!」
高まる感情は一気に熱を帯び、輝く光となって四散した。
瞬間、白濁した呪縛の檻の表面が細かく震動した。
聖天使の力を持つ彼のため、特別に設えられた檻だというのに、それさえも破壊してしまいそうなこの力の強さはどうだ。
これが負の方向に解放された時、この世界はどうなってしまうのだろうか?
一瞬、そんな思考が頭の隅に浮かんだが、意識してそれを消し去る。
起こり得ぬ仮定などしてみたところで、無用な恐怖心を煽るだけ。
そう己に言い聞かせた。
「僕への罰ならば、僕だけが苦しめばいいはずなのに、……それなのに、なぜですか? なぜ彼まで、こんなに苦しまねばならないんですか! 神はそんなにも、僕の存在が許せなかったというのですか? それほどに、僕の存在は罪だというのですか? 生まれ落ちたその瞬間、命を絶ってしまうという慈悲すら与えてはいただけなかったほどに!」
ハッとした。背筋を悪寒が這い登っていく。
けれど、それを表情には出さぬように留意しつつ、ケルビムは静かに訊いた。
「君は、この牢獄の中で、何を見、何を聞かされたのですか?」
瞬間、リオの面から血の気が退いた。
唇が震え、それ以上の言葉を紡ぐことさえできない。
どうやら、予想は的中したらしい。
きっと、ケルビムが空に戻ってくるまでに要した時間の分だけ、彼は観せられてしまったのだろう。
時間の流れが描き出す不確かな未来図。
捕縛者の意図によって造り替えられた、最悪の結果を。
それが重すぎる枷となり、幼い心を締め付けるには充分以上の苦痛をもたらしているに違いない。
無慈悲な天上界の遣り方に、改めて怒りを禁じ得なかった。
「結構。もう何も言わなくていい。私の配慮が足りませんでしたね」
弧をなす白濁の壁に、静かに一歩近付く。
「いいですか、リオ。私の言葉をよくお聴きなさい。君がここで観、聞かされたことは、確かに君の未来です。ですがそれは、無数にある選択肢の中から、たった一つの道を選んだ先に有る、たった一つの未来でしかありません。これから先、君が生きていくうえで下すであろう何千回、何万回という判断の結果が導き出した、たった一つの未来でしかないのです。君がどこかで、たった一箇所、異なった判断を下したならば、君の未来は確実に変わります。わかりますか? 君の未来は、君のこれからの選択によって、いくらでも変えることができるのです。ですから、恐れる必要などないのです。最初から定められた運命など、この世にありはしないのですから」
それまでじっと話に耳を傾けていたリオの表情が、瞬間、微かに色を帯びた。
「本当、ですか?」
「ええ、本当ですとも」
ケルビムは力強く頷いた。
「確かに、君達の出逢いは、……そして、その進むべき道は、決して平坦なものではありません。厳しい茨の道が続くでしょう。けれど、苦しみにしか繋がらない未来など存在しません。未来は君達が切り開き、その手で得るものなのですから」
今は彼の生きようとする力に希望を託すしかない。
この白く濁った牢獄から出るためにも、この先に待ち受けている様々な苦難に、彼が打ち勝つためにも。
敢えてニッコリと微笑んでみせた。
「さあ、少し冷静になって、よく考えて御覧なさい。君が今、心から望むことはなんですか?」
想い出の中の友の姿で、彼と同じ深い碧の瞳が、リオの心が、切なげに揺らめいた。
じっと答えを待つ。
リオは俯き、瞳を閉じて何事か考え込んでいたが、やがて訝しむように顔を上げた。
「でも、……何が出来ると? 今の僕に、いったい何ができるというのですか?」
「何が出来るかは、君次第。君の未来を勝ち取るのは、君のその手だけなのですからね」ケルビムは精一杯明るい口調で言った。「リオ、諦めてはいけません。どんな状況下にあろうとも、最後まで決して諦めてはなりません。の強い想いは、何物をも貫く力となるでしょう」
「あきらめ、ない……」
「そうです。諦めてはいけません」
もう一度、今度は力強く頷いた。
「私は、君と同じ瞳を持った者を知っています。天上界の者にとって瞳は力の証。ですから、君のその翡翠の瞳が証明しています。君が私の知っている、私の大切な友人と同じ強い力、強い心を持っているということを。そして彼は、決して諦めませんでしたよ。最期の時まで自分にできる最善のことをしようと努力し、そして、成し遂げました」
「僕と同じ、瞳……?」
「さあ、君はどうするのです? このまま空に留まって、自分の全てを否定し、悔いながら、永劫の時を生きますか? それとも、地上に戻り、友と一緒に運命と闘いますか?」
その瞬間、まだあどけなさの残る円らな瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
「戻りたい、です。彼等のところに。もしも、まだ、僕の願いが叶うのなら。それが僕の、……僕だけの我侭でないのなら」
溢れる涙を拭おうともせず、リオはハッキリと言った。
たったこれだけの言葉に込められた彼の想いの重さを慮る。
誰かに自分と同じ苦難の道を強いるとわかっていながら、それを望むことは罪悪であると信じて疑わない彼にとって、この決断は、その苦難に立ち向かうよりも辛いものであったにちがない。
だが、それでも望まずにはいられなかったのだろう。
最愛の友との友情の続きを。
あの時の自分に、彼と同じ強さがあったなら……。
ふとそんなことを思い、思ってしまった己を戒めるように表情を硬くして、白濁した壁にそっと両掌を添えた。
「いいですか、リオ。選択肢は二つ。ここから出てルリアに戻るために、君は選ばねばなりません。どちらを選ぼうとも、その結果は必ずや尊重されることを、我、聖天使ケルビムが誓って約束いたしましょう」
大きく頷くリオの瞳に戻った輝きを確認し、ケルビムはゆっくりと言った。
風が、吹いた。
そんな二人の遣り取りを、雲の波の狭間から見守る青い眼があった。
トロニだ。
彼は、自分にしか聴こえぬほどの微かな声で独り言ちた。
「かの地に帰ることを選んだか、闇に魅入られし者よ。まあ、それも良いだろう。お前がそれを望むのであれば、今は望み通りにするがいい。しかし、お前は必ず、再びここに戻ってくる。植え付けられた恐怖の種は、やがて芽吹く。お前のその硝子のような透明な心では、それに耐えることなど出来はしないだろうからな」
守護天使が彼の囲りを飛び回っていることに気付き、誘われるままに脚を向ける。
「哀れな魂よ。天上界のせめてもの慈悲だ。一時なりと、友との憩いの時間を噛み締めるがよい。その先には別離しか待っていないことなど、今は知る必要もあるまい」
言葉を風が掻き消していく。
歩きながら、彼は口角を僅かに上げたが、それは笑みにはならず、しかも一瞬で消えた。
次回予告:懐かしい田舎へ戻ったアルフ。しかし、そこで見たものとは……?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は3月23日(金)!
宜しくお願いします!!