第7章 天上界 No.3
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜」の続編です。
◇◇◇ 第七章 天上界 ◇◇◇ No.3
目印は、夫婦樫の大木。
もともとは、単に並んで伸びていただけの別々の樹が、なぜか幹の途中から接近し、絡み合い、ついには一本の大木となって大空へと枝葉を茂らせた大樫だ。
その様は、人が生きる様を示しているようであり、お互いを支え合う夫婦の姿のようでもあるといって尊ばれている、自然が創り上げた門。
それが、シエン村への入り口なのだ。
シエン村。
森の奥の奥、小人族がひっそりと暮らす小さな村。
アルフの、……故郷。
ふと、暗く湿った感情が呼び覚まされた。
水底に沈んでいくかのような圧迫感を覚え、息苦しくなる。
理由は、……わかっていた。
未だに過去の自分と向き合うことが出来ない、己の弱さ故だ。
成長と共に顕著になっていく、小人族とは異なる身体的特徴に悩んだ幼少時代。
それにより、虐められ、蔑まれ、遠ざけられた日々。
ここには、そんな辛い想い出しかない。
けれど同時に、幼い自分を育んでくれた懐かしい丘や山もここにしかないのだ。
この場所には二度と戻らないと誓った夜、身を切られるような哀しみに一晩中泣き明かしたことを思い出すと、今でも胸がチリチリと痛む。
そんな弱い感情の断片を振り払いたくて、アルフは強く首を横に振った。
そんな動作くらいでは拭えないとわかってはいても、針に指されるような痛みを放置しておくよりはマシだと思った。
真っ直ぐに顔を上げる。
全ては過去。
良い想い出も嫌な想い出も全てが入り交じり、時の流れの下流へと押し流されてしまった、ただの事実でしかない。
ならば、過去の弱い自分と対峙し、自らの手で決別の薙刀を振り下ろすためにも、行かなければならない。
そうしなければ、今しなければいけないこと、今護らなければならないモノを護りきることなんて、きっとできやしないのだから。
ここまで乗ってきた杖を掌の中で小さくし、腰に挟むと、己を勇気づけるために胸の奥で大切な友の名を数度反芻してから、アルフは夫婦樫の下をゆっくりとくぐった。
※
そこは、空気の色までもが違って見える場所だ。
決して良い意味ではない。
古い因習に囚われ、時の流れに逆らい、頑なに過去にしがみついている。
外界からの進入を拒み、自らも村の外へ出ることを拒み続けてきた古い村と人々。
それがシエン村の姿であり、小人族の生き方だ。そこにあっては、数年という時の流れなど、ないも同然らしい。
アルフが出て行った時の姿そのままに鬱蒼と茂る森が、あの時と同じように来訪者の行く手を阻んで広がっている。
そのせいだろうか、気持ちが過去へと遡っていく。
寂しがり屋で弱虫だった、大嫌いな自分に。
胸がドキドキし始めた。
期待と不安。
二つの感情が入り混じり、気持ちを掻き乱していく。
アルフの唯一の理解者だった優しい両親は、今でもあの家で元気に暮らしているのだろうか? 昔と同じようにそっと抱き締めてくれるだろうか?
けれど、村の皆は、決して自分を受け入れてはくれないだろう。
それはやむを得ない。
最初からわかっていたことだ。
ならば、両親が余所者である俺と逢っているところを誰かに見られたら、どうなる?
又迷惑をかけてしまうことになるのか?
きっとそうに違いない。
ならば、いっそ両親には逢わずに帰ろう。
そのほうがいいに決まっている。
もしも両親にまで拒まれたなら……。
あれやこれやと考えばかりが先走り、不安をいや増していく。
脚は次第に重くなる。
けれど……。
『悩んだ時、困った時には、出発点に戻りなさい。必ずや、新しい何かを得ることができるはずです』
校長先生は、確かにそう言ってくださった。
ならば、確かめなければならない何か、新たに得なければならない何かが、ここにあるに違いない。
それを見極めなければ……、今までと同じように恐れ、避けていたのでは、もう二度と大切な友を取り戻すことができなくなってしまうかもしれないのだ。
それを避けるため、友を取り戻すために、自らに科した禁を破ってまで、この場所に来たのではなかったか。
アルフは、ともすれば挫けそうになる両脚を叱咤しながら、一歩ずつ森の奥へと歩を進めた。
どのくらい歩いただろうか。
鬱蒼と暗い森を抜け、気が付けば村全体が一望出来る場所、『望郷の丘』の上に立っていた。
かつて教えられた、この場所の名前の由来を無意識に思い出す。
『この丘に登る者は、村を追われて出て行かねばらなぬ者。恐怖と失望が満ち溢れている外の世界に赴くには、死を覚悟しなければならない。明日を望めぬ者が、最後に故郷を振り返り、涙する場所がこの丘なのだよ』
けれど、アルフがここに立つのは、これで二度目。
一度目は三年前。望郷の名の通り、人目を憚る必要のないこの場所で、陽が暮れるまで泣き続けた。
そして二度目は、……今日。
とうに捨て去ったと思っていたのに、あの日と変わらぬ哀しみが胸の奥底から込み上げてきて、感情の平静を乱していく。
そんな自分に戸惑いを覚えながらも、抑えようのない懐かしさに駆られ、身を乗り出して眼前に広がる風景を見渡した。
あの日と変わらぬ長閑な村の風景が、そこに広がっていることを疑いもせずに。
美しい丘や小川。
整然と整地され、手入れの行き届いた田畑。
土と木とで造られた可愛らしい家並み。
時の流れに取り残されたように進歩もないかわりに、懐かしい風景が壊されることもない。
それこそが、アルフの記憶にあるシエン村の姿だ。
けれど次の瞬間、その思いは脆くも打ち砕かれた。
大きく見開いた双眸が映した懐かしい村は、その姿を一変していたのだ。
焼け爛れた木々。
抉られた大地。
踏み躙られた家々。
そして、地面にはあちこちに、どす黒く変色した染みが、何かの痕を残している。
驚きと困惑に我を忘れ、アルフは丘を駈け下り、フラフラと村の中に彷徨い込んだ。
「いったい……、何があったんだ?」
誰も答えてくれるはずのない問い掛けが、震える唇から零れて落ちる。
清浄な空気と村人の笑い声に満ちていたかつてのシエン村は、面影さえ残っていない。
否、村と呼ぶことすら躊躇われる光景だ。
まるで悪夢を見ているようだ。
その時だった。
背後に人の気配を感じ、弾かれるように振り返る。
鍛えられた彼の躰は、無意識のうちに重心を落とし、姿の見えない敵を迎え撃つ姿勢をとった。
けれど。
「……アルフォンス? お前、アルフォンスだな?」
突如、かつての名前で呼ばれ、アルフは動きをピタリと止めた。
声の主の姿を窺うために一度細めた瞳を大きく見開く。
「シェンダ、爺さん……?」
言葉にすると同時に、肩の力がスッと抜けた。
懐かしい顔。
ジェンダ翁。
養父の古くからの友人で、アルフが小人族ではないと村中に知れ渡り、噂となり、陰口を囁かれるようになった後でさえ、両親と共に彼を庇い、可愛がってくれた老人だ。
出来ることなら顔を見たいと密かに思っていた。
込み上げる懐かしさに、思わず脚が前に進み出た。
「爺さん……」
だが、ジェンダの吐き出した言葉によって、その動きは凍りついた。
「寄るな、疫病神め! まだ飽きたらず、最後の一滴まで、生き血を吸いに戻りおったか!」
そう言い捨てるや、彼は手に握った斧を躊躇いなく振り上げた。
鋭い刃に陽の光が反射し、それがアルフの眼を眩ませた。
次回予告:囚われのリオ。彼に会ったケルビムは?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は3月2日(金)!
宜しくお願いします!!