第7章 天上界 No.2
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜」の続編です。
◇◇◇ 第七章 天上界 ◇◇◇ No.2
「立ち話もなんだ。まあ、座らぬか」
言い終えぬうちに、彼の足許に小さな守護天使達が現れ、そそくさと、どこからともなく椅子とテーブルを運んできた。
トロニは確認することなく椅子に腰かけ、ケルビムにも座るよう手振りで示した。
「我々の再三の招きにも応じなかったお主が、こうして帰ってきたのだからな。そのくらいさせてもらう価値はあるさ」
「ありがとう、トロニ。感謝します」
「但し、条件がある」
花弁がほころぶようなケルビムの微笑みは、しかし、トロニの言葉により再び厳しいものへと一変した。
「取引ですか? 天上界も、随分と人間臭くなったものですね」
「なんとでも言え」
トロニは吐き捨てるように言った。
己の言に、自身、嫌気がさしている様が、そこから垣間見られた。
ケルビムは、その秀麗な眉を顰めたが、一考の後、言った。
「いいでしょう。条件とやらを聞かせて下さい。私に出来うることならば、なんでもいたしましょう」
すると今度はトロニが形の良い眉を寄せ眉間に皺を作った。
「わからんな。お主はなぜ、それほどまでに、あの子供を助けようとする? お前とあの子供との間には何の関係もないだろうに」
ケルビムは小さく笑った。
「本当に貴方達は変わってしまった。まるで人間のように考え、ものを言う。いけませんね。損得を前提に物事を考えるなど、天上人としては失格ですよ」
トロニの口許が歪んだ。
「自ら天使としての宿命を捨て、堕ちたお主から『天使失格』といわれるとはな」
「そう、天使として私は失格者です。だからこそ、例え感情に流されていると誹られようとも、リオを救いたい。昔救えなかった友の替わりに、なんとしても」
ケルビムは再度微かに笑った。
色濃い自嘲が宿っていることに、自身、気付きながらも。
トロニが大きく肩を揺らして息を吐く。
「ケルビムよ。お主の心はまだ『あの時』に縛られたままか」
色濃い青の視線が曇った。
「どうして友の死を忘れることなど出来ましょう。私は今でも毎夜思い出し、後悔に苛まれています。なぜあの時、私は彼のために何かをしてやることが出来なかったのか。なぜ? どうして? ……その苦しみから解放されたことなど、三千年の間、一日たりとて有りはしませんでした」
「愚かだな」
「愚かで結構。それで友の願いを叶えることが出来るのならば、その謗り、甘んじてお受けいたしましょう」
始めは喉奥から漏れるくらいだったトロニの笑い声は、次第に大きくなった。
暫し笑った後、脚を組み、椅子の背にも垂れて、空を仰いだ。
雲を足許とするこの世界では、空は果てしなく、ただ青い。
「知識と学問の神であるケルビムの口から、そんな言葉が聴けるとはな。やはり、時は流れたようだ」
ボンヤリと天を仰いだまま独り言のように呟くと、反動をつけて姿勢を戻す。
「まあいい。あの子供を解放するための条件は二つ。一つはケルビム、お主が天上界に戻ることだ」
俄かにケルビムの表情が険しくなった。
それに気付いているであろうトロニは、前屈みに膝の上に肘をつき、畳み掛けるように言った。
「戻れ、ケルビム。今の天上界の状況が如何に厳しいものか、離れていたとはいえ、お主にならわかるだろう? 神が天空宮に篭もられて早三千年。若い者達の中には、根拠もなく奢り高ぶり、自らの快楽のためだけに異世界に争いの種を撒き散らすバカ者まで出てくる始末だ。このままでよいはずがないのは俺だとてわかってはいるが、隅々まで眼を光らせるには俺だけでは如何ともしがたい。天上界を、……否、この世界を変えるには、ケルビム、今こそお主の能力が必要なのだ」
何時も強気なトロニの口から、これほどまでに弱気の発言が飛び出すとは、正直、予想外だった。
天上界の乱れは、ケルビムが思っていた以上に深刻らしい。
故郷の大事に心が動かぬはずはない。しかし……。
ケルビムは口許に色濃い自嘲を滲ませると、ゆっくりと首を横に振った。
「私は自ら望んで下界に堕ちた者。そんな私が今更のこのこと戻るなど、それこそ天上界の規律に反しましょう」
「お主に非はない!」
トロニは椅子を蹴って身を乗り出した。
「お主が幾ら口を噤もうと、それくらいのこと、当時の者なら皆知っているぞ! お主は、闇を生み出そうとする亜奴の行為を阻止しようとしただけのこと。それが出来なかったが故に、自らを責め、我等の制止を振り切って、亜奴を追って地に堕ちた。ただそれだけのことではないか!」
そこまで言い切ってハッと我に返ったらしく、トロニは誤魔化すように数度咳払いし、少し乱暴に椅子に腰掛けた。
先ほど倒れた椅子は、守護天使によっていつの間にかキチンと元に戻されていた
何時も強気ではあるが、感情を表に出すことのないトロニにしては珍しい激情に、彼の苦悩が思い遣られ、ケルビムは哀しくなったが、だからといって掛ける言葉も持ち合わせてはいない。
暫し漂った気まずい沈黙の後、いつもの冷静さを取り戻したトロニが再び口を開いた。
「責と言うなら、神が天空宮に御篭もりあそばしたことの方が重大だ。お主は、亜奴と共に神のお気に入りだったからな。あの事件で、亜奴ばかりかお主までも去ってしまったがゆえに、神は嘆かれ、誰にも逢おうとなさらなくなったのだ。神に天空宮からお出まし戴くためにも、お主には戻ってもらわねばならんのだ」
「随分と弱気な言ではないですか。貴方らしくないですね」
皮肉を込めて言ったが、トロニは何も答えない。
ケルビムは頬杖を付き、暫し考えを巡らしていたが、やがて真っ直ぐに友の顔を見詰めると、低く言った。
「わかりました。私が戻ることでリオを返していただけるのならば、私は喜んで貴方に従いましょう。しかし……」
そこで一つ深い溜息を吐く。
「しかし、一つだけ申し上げておきます。あの日の出来事について、私に非があるか否かなど、所詮は取るに足らぬこと。私は自分が許せない。知の天使などと謳われながら、私はあの時、考えなかった。友を救う術を考えるということを無意識に避けていた。そんな己が許せない。それは空にあろうと地にあろうと同じこと。過去と同じ私を期待されても、ご期待に添うことは出来ぬと思って頂きたい」
「構わぬさ。お主が真に果てる時、この世界も終るだろう。それだけのことだ」
青と青の瞳が交差する。
そこに微かな自暴の色を見て取り、ケルビムはそれ以上、言葉を重ねることをやめた。
粗野で無神経に見えはしても、その内面は酷く繊細で感受性に富んでいることを、ケルビムは知っている。
今、天上界で彼が背負わされている責務も立場も、本来ならば彼が最も忌み嫌うはずのもの。
そんな彼を今の立場に追いやってしまったのは、他でもない自分なのだということくらいわからぬケルビムではなかった。
硬い表情を微かに和らげ、静かに問う。
「さて、条件は二つとのことでしたね。もう一つの条件とは? 神に天空宮からお出ましいただくことは、残念ながらお約束できませんよ」
トロニは視線を伏せてニヤリと笑った。
「今、それができる者がいるとすれば、お主だけなのだがな。まあ良い。確信のない約束はしないのが、お主の主義だったな。ならば、それでいいさ」
続いて提示された第二の条件を聞き終えた時、ケルビムの頬は青ざめ、唇はワナワナと震えた。
次回予告:囚われのリオ。彼に会ったケルビムは?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は2月23日(金)!
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