第7章 天上界 No.1
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は「LURIA 〜翡翠の瞳 空の蒼〜」の続編です。
◇◇◇ 第七章 天上界 ◇◇◇ No.1
その日、天上界は数百年ぶりに平穏を乱された。
それは、一人の天使の来訪によりもたらされた、僅かな空気の揺らぎのような動揺であった。
艶やかで象徴的な三対の金色の翼。
月の光の如く輝く銀色の髪。
そして何より、彼の頭上を照らす三重の光輪により、来訪者が大天使を凌ぐ上級天使、天上界でも最高級の地位に奉ぜられる聖天使であることは明らかだった。
世界の創世から今日まで、たった四人にしか与えられたことのない最高級位。
そして現在、その地位により天上界の実質上の指導者として君臨するのは、二人のみ。
残る二名の地位は空席となって久しい。
そこに現れた一人の聖天使の姿は、若い下級天使達にとっては、肖像画でしか眼にしたことのない高貴な姿であった。
来訪者は、遠巻きにざわつく下級天使達には眼もくれず、天宮の園への門扉を守る門番に一瞥をくれると、翼を一振り羽ばたかせ、庭園の中へフワリと入っていった。
門番は、己の役割を果たすどころか、声をかけることすらできず、彫像のように硬直したまま、金の背中を見送った。
純白の絨毯、七色に輝く光の粉を撒き散らしたようにキラキラと輝く雲の平原を、来訪者は文字通り飛ぶように駆け抜ける。
下級天使達の噂を聞き付けたのだろう、来訪者の姿を目敏く探し出した二人の大天使が、にこやかな、しかし微かに硬い笑みを浮かべて駆け寄ってきたかと思うと、その足許に仰々しく跪いた。
「お懐かしゅうございます、ケルビム様! 貴方様のお戻りを、今か今かとお待ち申し上げておりました!」
「お部屋は、お暮らしになっていらした当時のまま、日々磨き上げておりました。ささ、早速ご案内致しましょう」
来訪者ケルビムは、彼等を見定めるや歩みを停めた。
けれど、優美な唇が紡いだ言葉は、その穏やかで優美な外見からは想像もできぬほどに厳しいものであった。
そこに懐かしさや労りなど、欠片も感じられなかった。
「私への気遣いならば無用。それよりも、ミカエル、ラファエル、私は貴方達を見損ないましたよ。気概のある若者と、かつては眼をかけてきたつもりでしたが、このたびの所業、なんたることですか! さあ、リオを、……貴方達がルリアの地から無理やりに奪い去ってきた少年を、今すぐ彼の地にお戻しなさい!」
二人の大天使は戦きつつも、己の役目を全うすべく言い訳の言葉を並べた。
「いかなケルビム様のお言葉でも、それはできませぬ!」
「それでは天上界の規律に反しまする! 下の者にも示しが付きませぬ!」
しかし、宥めるべく発せられた二人の言葉がケルビムの怒りに火を付けた。
それまでなんとか平静を保っていた語調が荒ぶる。
「何が規律ですか! 貴方達が自らの保身のために創り上げた規則なぞ、あっても邪魔なだけ! いっそ捨てておしまいなさい!」
二人の天使は落雷に打たれたかの如くすっかり怯え、翼で顔を隠しながら一歩後退った。
それでも必死の抵抗を試みるのは、大天使としての誇りゆえか。
「どうか、お静まりください、ケルビム様! 天上人が一度為したことを簡単に違えられぬこと、ケルビム様とてご存知のはず!」
「ならばお聞かせなさい!」
外見からは想像出来ぬほどに冷たい物言いが、ケルビムの怒りの深さを表していた。
「生まれたばかりの彼を、なぜルリアに堕としたのですか! かような無慈悲を為しておきながら、今更、手脚を奪うような真似をしてまで捕えるとは、全くもって彼の人格を無視した行為! 酷過ぎるとは思わぬのですか? 心を尊ばぬことこそが天上人として尤も恥ずべき行為であると、貴方達は、それすら忘れてしまったというのですか!」
二人の大天使も、さすがに返す言葉を失った。
お互いに目配せし合い黙り込む。
「さあ、リオをお返しなさい!」
ケルビムが一歩躙り寄る。
と、その時だった。
「やあ。久しぶりに懐かしい顔が戻ってきたと聴き、逢いに来てみれば、さっそく雷か」
背後に掛けられた笑い声。
振り返れば、ケルビムと同じ姿形をした天使が一人、腕組みをして佇んでいた。
「お前の小言は俺でも怖い。やめておけ、やめておけ。若い者が怯えておるではないか」
「トロニ……」
久しぶりに口にする名だ。
「やっと、少しは話のわかる者が出てきてくれたようでね」
皮肉を込めてケルビムが言った。
似た二人だが、並んでみれば、ケルビムの瞳の色の方が濃く、トロニの方が薄い。
そのせいか、微かに粗野な雰囲気を滲ませている。
トロニは視線で二人の天使を下がらせるとニヤリと笑った。
「旧友ではないか。お主が逢いたいと言ってくれれば、彼の地へだとて出向いてやったさ」
懐かしむように頬が弛み、抱き締めようと長い腕を伸ばす。
「久しぶりだな、ケルビム。お主がこの世界を捨て、はや三千年か。長いようで短いものだ」
しかし、そう声を掛けられた当人は、相変わらず硬い表情を崩すことはなかった。
差し出された腕をピシャリと払い除ける。
「トロニ、暫く見ない間に、この世界も随分と様変わりしたようですね」
「おいおい、久しぶりだというに、友への再会の挨拶もなしか? 相変わらず手厳しい奴だ」
「生憎、私は昔語りをするために、わざわざ此処まで参ったわけではありませんから」
ケルビムの視線が窺うように細められる。
「まさか、とは思いますが、リオ幽閉の指示を出したのは、貴方ではありますまいな?」
「俺が? まさか」
トロニは笑いながら肩を竦めた。
「俺は下界のことなどどうでもよい。……といっても、今、実務上の責任者は俺ということになっている。若い者の為したことに責任がないなどと言い逃れはできないよなぁ」
「無論」
厳しい表情のまま頷くと、トロニは喉の奥で噛み殺したような笑い声を漏らした。
「で? お主の望みは?」
直ぐに端的な問いが返ってくる。
相反する二人だが、回りくどい言い方をしないところは、昔からケルビムの好むところだ。
僅かに肩の力を抜き、ケルビムは言った。
「即刻、リオを解放し、ルリアに戻して戴きたい。彼になんの罪がある? 元を正せば天上界側の落ち度ではないか。にもかかわらず、己が非を認めるどころか、既に自我を持ち、意志を持つ子供を無理矢理連れ去って幽閉するなど、自分勝手も甚だしい。天上人としてあるまじき行為だと私は思いますが、如何?」
ケルビムの怒りの言葉を無言で聴いていたトロニの視線が微かに鋭くなった。
「それは、ルリアの年寄りとしての言葉か? それとも、聖天使ケルビムとしてのものか?」
一瞬、言葉に詰まった。
この地を捨て去った身でありながら、出過ぎた言だということは自覚している。
しかし、ここで退くわけにはいかなかった。
「どちらでも、貴方のお気に召すままに解釈して戴いて結構。私は私。それ以上でも以下でもありません」
「相変わらず、訳のわからんことをぬかす奴だ」
そう独り言ちると、トロニはボリボリと頭を掻いた。
美しい外見とは不似合いなガサツな行為だが、しかし彼には妙に似合っていた。
薄い青の視線が再び和らぐ。
「よかろう。旧友として、お主の望み、叶えてやろうではないか」
「本当ですか?」
ケルビムの顔に初めて笑みが浮かんだ。
トロニが頷く。
次回予告:天上界での攻防。リオはどこに?
「翡翠の鳥は飛び方を知らなくて」は、原則として週一回更新します。
次回更新(予定)日は2月16日(金)!
宜しくお願いします!!