新月、朔日もしくは狂月
この作品には軽い流血表現などが含まれます。苦手な方はお控えください。
月が少しでも見えたなら、その場所へ行くことは習慣になっていた。
今日見えたのは爪の先ほどの下弦の月だったが、瑠璃は灯りも持たずに家を出た。
もはや通り慣れた林の小道を駆け抜ける。
林の中を少し深く分け入れば木々の間から夜空を見上げる白い着物姿の人が目に入る。
「…っこんばんは」
走ったせいで上がった息を整えつつそう声をかければ、背を向けて立っていた白い人はふわりと振り返る。
「…いらっしゃい」
聴覚ではなく頭に直接響くような高いとも低いともいえない、むしろこの世のものとも思えぬ声を響かせて返事をしつつ近づいてくるその人を瑠璃はぼんやりと見つめる。
歩くというより、わずかに浮いているようにも錯覚しそうになるくらい滑るように移動するその姿は、本当に美しいと思う。
白く長い髪を初めて目にしたときは老人かと思ったが、あそこまで髪の白い老人は瑠璃の住む村にはいなかった。
何より、その後ろ姿とスラリとした立ち姿はあまりにも不自然でちぐはぐだった。
そして振り返ったその人を目にした瞬間、瑠璃はその目を離せなくなった。
上弦の月の光を背に立つその人は、全てを白でつくられたかのような色合いのなかただ瞳の色だけが黒く、ほっそりとした体つきと花に例えても良さそうな端整な顔立ちから、女と見紛うほど美しい人だった。
その日は母親と喧嘩をして家を飛び出し、帰るに帰れなくなっていた瑠璃だったが、そんなことも忘れるくらいにその人に見入った。
そしてその日からここへと通うようになったのだ。
住み家も名前すら瑠璃に教えようとしなかったが、瑠璃は彼に惹かれていた。
「今晩も月が綺麗ですね」
隣に立ったその人と一緒に空を見上げる。
広がるのは黒い夜空と頼りない星々、そして糸のように細い下弦の月。
「明日は祭りがあるんですよ」
唐突に、瑠璃は無表情に月を見上げる隣に笑いかけながら話しだす。
「…そうらしいな」
月を見上げる表情は相変わらずだが、返答があったことに安堵しながら話を続ける。
「明日の祭りでは最後に広場で篝火が焚かれ、その火のもとで大切な人に野紺菊を贈るんです」
「…あぁ」
知っているなら話は早い。
瑠璃は意を決すると相手に向き合うように立ちなおす。
「……明日わたしも貴方に差し上げたいので、少しお時間をいただけますか?あ、もちろんあたしがここへ届けに来るので、村へ顔を出してほしいなんて言いません」
そう問うと、今度は目に見えて反応があった。
微かにこちらに瞳を向けてくれたのだ。
その流し目にどきりとしていると、彼はゆっくりと口を開いた。
「それは…どういう意味だ?」
その返しを予測していなかった瑠璃は大いに戸惑った。
野紺菊を贈る明日の祭り。それは想い人に気持ちを伝えるための日としても村で利用されてきた。
野紺菊を贈ることで想いを伝え合い、夫婦にまでなった者たちもいるくらいだ。
そんな行事を身近に育った瑠璃には“野紺菊を贈る”ことと“告白”は同じだった。
しかし目の前の彼にはその理屈が全く通じないのだ。
「…大切な人にという、その、そのままの意味…です」
「…そのまま…か…。しかし明日は朔日。鬼が出る故この辺りには近づくなと村では言われているんじゃないか?」
「…っ!?」
恥ずかしさから俯いてもごもごと答えたが、しっかりと言葉は届いていたらしい。
しかし祭りのことはともかく、村の言い伝えなど知らないだろうと思われた彼からの言葉なだけに、先ほどとは違う意味でどきりとする。
要するにこれは遠回しな拒絶ではないか。
「で、でも言い伝えは言い伝えであって、あたしは鬼なんて見たことないもん!」
反射的に顔を上げて叫んだ瑠璃に初めて興味をひかれたように見やると、彼は一つ息をついた。
「…良いだろう。そこまで言うのなら、明日会ってやらないこともない」
瑠璃の目を見つめながら、やはり無表情に彼は承諾の言葉を発した。
あれから機嫌を直していつものようにほとんど一人で喋ってから瑠璃は村の方へ帰って行った。
瑠璃の姿が闇に消え、再び戻ってきた静寂の中で一人沈み行く月の残骸を眺めていた彼は、ゆっくりと口元を歪ませる。
いつもよりかかった獲物が小さい気がしたが、まあいい。
久しぶりの食事だ。たまには子兎でもいいだろう。
歪んだ口の端からのぞく白い牙の存在を瑠璃は知らなかった。
翌日。夜の帳がすっかり下がり、昼間から続いていた祭りも後は野紺菊を想い人に贈る段となっていた。
今夜ばかりは明りを持って、瑠璃は林の小道を駆けていた。
手にはしっかり野紺菊の花を握っている。
篝火の下以外で花をわたすことは本来ならばよろしくないとされていたが、あれほど目立つ風貌の彼が村に来てくれないだろうということは予想済みだったため、いたし方ない。
「…お…っお待たせ、しました…!」
いつもより幾分上がった呼吸を落ち着かせるのに時間を費やした後、ついに瑠璃は声をかけた。
しかし今夜はどこか違っていた。
無表情で無口な彼もいつもなら何かしら反応をくれるのに、今夜は微動だにせずに星が瞬くばかりの闇夜を見上げている。
「あの、どうしたんですか?」
おずおずと近寄って問いかけると歪んだ口元が目に入る。
「…本当に来たんだな」
その瞳に狂気を滲ませながら、彼は口元だけで笑っていた。
今まで見たことのない表情と聞いたことのない口調と声音に、瑠璃は全身の熱が一気に冷えていくような感覚をおぼえた。
―――鬼は美しく、その姿に魅せられた者を糧として生きている―――
―――二本の角と血色の瞳、これらをもったモノには出会ったが最期―――
一日までは半分も信じていなかった言い伝えが頭の中でこだまする。
滑るように近づいてくる彼に、ただの人ではなかったことを実感し初めて恐怖を覚える。
「鬼を目にしたことがないと言ったな。では、ここ一月あまりお前が会っていたモノは何だと思う?」
明りは頼りない星明りだけなのに禍々しいほど白く闇に浮かび上がる彼の額に一対の角を確認した。
次の瞬間には瞳の色が変わり、爪は鋭く変化する。
「たとえ目にしたことがなくとも、鬼は存在する」
「な、何を……」
「我らの餌食になりたくなくば、朔の夜はこの辺りへは近づかない方がいいと村では伝わっていたはず。…だがまあ、それを無視したのはそっちだ」
「ひっ…っ」
恐怖と混乱で凍りついたように動けなくなった瑠璃に彼が近づいてくる。
目にしたものは紅く染まった彼の瞳と、その口元からのぞく牙。
怖ろしいはずなのに何故かやはり美しいと思ったのが瑠璃の最期だった。
声を発する間もなく刃物のような爪に胸を貫かれた娘は息絶えた。
彼は花を握り締めたまま倒れた哀れな骸を見下ろす。
この娘は知っていたのだろうか。
今日の祭りが鬼から身を守るための、人のくだらぬ行事だと。
野紺菊の花言葉は“守護”
命を表すかのように赤々と燃える篝火のもとで贈る野紺菊は、大切な人が鬼に魅せられ惑わされぬように、狂気を退け護るためのものだと。
まあ、そのような事は今となってはどうでもよい。
冷たくなりはじめた体を貪りながら彼…鬼は今日も闇夜を見上げる。
星影だけが輝く夜。
暗闇の中、骨のように白いその鬼は瞳と口元を紅く染め、歪んだ笑みを零すだけ。
今宵は新月
――――狂気の鬼が集う夜
はじめまして、ココノエと申します。
今回は私の拙い文章を読んでいただき、ありがとうございました。
初の投稿?作品ということですが、右も左も分らぬままに勢いだけで書き上げた感が満載です。最後の方も一気に詰めてしまったので、こんな投稿直後に書くことでもないかと思いますが、いつか手直しがしたいです。
さて、初めて完結(一応)させて公開した作品がこんな感じですが、これでも私はハッピーエンド推奨派です。自分が読まないわけではありませんがシリアスでダークなそういう話が大好きというわけではありません。今度はもう少し、明るいお話を書きたいです。
改めまして、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。