第8章 隣の席はくじ引きです
明石コトハ(あかし・ことは)は、知らない明日へ歩き出した。
明日の天気も。
小テストの答えも。
友達の本音も。
以前のようには、すぐに読めない。
それは不安なことだった。
けれど同時に、誰かと一緒に考えられるということでもあった。
雨の日の傘。
電車の中で触れた肩。
不明事項記録帳に書いた、まだ答えのない言葉。
第8章では、そんなコトハの前に、もうひとつの「わからない」がやってくる。
席替え。
隣の席が、当たり前に隣でなくなるかもしれない日。
朝の教室に入った瞬間、凡田一は、空気がいつもと違うことに気づいた。
教室そのものは変わっていない。
黒板も、机も、窓から入る光も、いつもの二年三組だ。
不死川勇気は朝からなぜか上履きを片方だけなくして騒いでいる。
白金歌音は学級委員長らしく黒板の隅に今日の予定を書いている。
星宮ミーナ(ほしみや・みーな)は机に突っ伏しながら、片手だけでスマホの画面を器用に操作している。
いつもの光景だった。
ただ、黒板の中央に書かれている四文字だけが違った。
『席替え』
凡田は、思わず足を止めた。
「ああ」
口から、何とも言えない声が出た。
隣の席を見る。
明石コトハは、すでに座っていた。
机の上には、不明事項記録帳。
開かれたページには、きれいな字でこう書かれている。
『席替え』
その下に、もう一行。
『隣は、固定ではない』
凡田は鞄を机にかけながら言った。
「おはよう」
「おはようございます」
「朝から重いこと書いてるな」
「重要事項です」
「席替えが?」
「はい」
コトハは黒板を見つめた。
「人間関係の物理的配置が、くじ引きによって再構成されます」
「席替えって言うんだよ」
「席替えとは、任意の集団において近接会話頻度、秘密漏洩率、消しゴム貸借発生率を変動させる大規模配置変更です」
「消しゴム貸すのを大事件にするな」
「隣の席は、消しゴムを借りやすい位置です」
「まあ、そうだけど」
「では、重要です」
凡田は返事に困った。
言われてみれば、隣の席というのは不思議な場所だった。
たまたま近い。
たまたま声が届く。
たまたまノートの端が見える。
それだけなのに、毎日少しずつ話す。
毎日少しずつ、相手の癖を覚える。
コトハが鉛筆を持つとき、少しだけ指に力が入ること。
わからない問題を見ると、まばたきの回数が増えること。
メロンパンを食べる前に、必ず一度だけ表面の網目を見ること。
そういうことは、隣にいないと気づかなかったかもしれない。
「凡田くん」
コトハが言った。
「何」
「席替えの結果は、わかりません」
「そりゃ、くじだからな」
「以前なら、紙片の折り目、担任教師の手の動き、空気中の繊維の乱れから、全結果を予測できました」
「そこまでして席替えを読むな」
「しかし、今はできません」
コトハは、自分の指先を見た。
「わからないまま、くじを引きます」
その声は、いつもの無表情に近かった。
けれど凡田には、少しだけ硬く聞こえた。
「怖い?」
コトハはすぐには答えなかった。
不明事項記録帳の端を、指でなぞる。
「分類中です」
「第6章からずっと分類してるな」
「感情は、分類に時間がかかります」
「まあ、そうかも」
「君は、怖くありませんか」
「席替えが?」
「はい」
凡田は教室を見回した。
正直に言えば、席替えは少し面倒だった。
黒板が見えにくい席になるかもしれない。
廊下側で冬に寒いかもしれない。
前の席になって、授業中に眠れないかもしれない。
でも、怖いというほどではない。
そう言いかけて、凡田は止まった。
コトハにとっては、たぶん違う。
隣の席は、ただの配置ではない。
この学校で、彼女が初めて「おはよう」を交わした場所。
わからないことを聞いた場所。
雨の日の約束をした場所。
「少しは、気になる」
凡田は言った。
「少し」
「うん」
「君も、少し」
「まあな」
コトハは、その言葉をノートに書いた。
『席替えは、少し気になる』
凡田は苦笑した。
「それも記録するのか」
「はい」
「大したことじゃないぞ」
「大したことではないものを記録するために、私はここに残りました」
凡田は黙った。
そういうことを、コトハは真顔で言う。
そして、たまにこちらの胸を変な角度から殴ってくる。
朝のホームルームが始まった。
桜庭レイコ(さくらば・れいこ)先生が教室に入り、出席簿を教卓に置く。
「今日は予定通り、席替えをします」
教室に、ざわめきが広がった。
「やったー!」
不死川が片方だけ上履きのまま叫んだ。
「不死川くん、まず上履きを探しなさい」
桜庭先生が冷静に言う。
「先生、俺の上履きは旅に出ました!」
「机の下にあります」
「灯台下暗し!」
不死川は机の下から上履きを取り出し、なぜか勝ち誇った顔で履いた。
コトハが小さく手を挙げる。
「先生」
「明石さん、どうぞ」
「席替えは、完全なランダムですか」
「基本的にはくじ引きです」
「基本的には」
「黒板が見えにくい生徒など、必要に応じて調整します」
「つまり、運命には教師権限による補正が入る」
「言い方は気になりますが、そうです」
白金が委員長らしく立ち上がった。
「くじは私が作成しました。公平性には最大限配慮しています」
星宮ミーナが机に頬をつけたまま言った。
「委員長、その公平なくじ、推しカプの隣同士を発生させる仕様とか入ってないですよね」
白金の肩が、びくりと跳ねた。
「な、何をおっしゃっているのですか星宮さん。私は学級委員長として、あくまで公正中立に」
コトハが白金を見た。
「白金さんの昨夜二十三時十四分の作業履歴には」
「明石さん」
白金が、笑顔のままものすごい速度で振り向いた。
「今朝、限定いちごクリームパンをお持ちしました」
コトハは口を閉じた。
凡田は小声で言う。
「買収されるな」
「秘密保持契約の更新です」
「パンで契約を更新するな」
そこで凡田は、ふと思った。
昔のことは、まだ分かるんだな、と。
天気も、くじの結果も読めなくなったのに、コトハは過去の固定された記録だけは、まだ拾える。ただしそれも、最近は少しずつかすれてきているらしい。いずれ、白金の検索履歴も、誰の秘密も、本当に分からなくなる日が来る。
そう思うと、コトハの全知発言も、前ほど無敵には聞こえなかった。
ミーナがぼそっと言った。
「委員長、今の反応が一番怪しいんだけど」
「星宮さん。地下アイドルの次回ライブ衣装の羽根が片方だけ発注漏れしている件について、私からは何も申し上げません」
「なぜ知ってるの!?」
「委員長としての観察力です」
「それ絶対違うやつ!」
教室が笑いに包まれた。
凡田は、少しだけ安心した。
コトハが全知を失っても、二年三組は相変わらず二年三組だった。
秘密は多い。
声も大きい。
たまに物騒だ。
でも、笑い声がある。
それだけで、少し日常に戻れる。
桜庭先生が咳払いをした。
「では、くじを引いてください。番号順に新しい席へ移動します」
くじの箱が回ってきた。
前の席の生徒たちが、次々と紙を引く。
喜ぶ声。
残念がる声。
窓際を引いて拳を握る声。
前列を引いて天を仰ぐ声。
それぞれの反応が、教室のあちこちで弾ける。
コトハは、その様子をじっと見ていた。
「凡田くん」
「何」
「未来がわからないと、人は大きな声を出すのですね」
「席で一喜一憂してるだけだよ」
「一喜一憂」
「うれしかったり、がっかりしたり」
「私は、どちらになるのでしょう」
「引いてみないとわからない」
コトハは小さく息を吸った。
くじの箱が、彼女の前に来る。
白金が差し出した箱の中には、折られた紙片がいくつも入っていた。
「どうぞ、明石さん」
コトハは箱の中を見つめた。
手を入れる。
一度、止まる。
それから紙をひとつ取った。
開く。
「二十八番」
桜庭先生が座席表を確認する。
「明石さんは、窓際の後ろから二番目です」
教室の後方。
今の凡田の席からは、少し離れている。
コトハは新しい席を見た。
表情は大きく変わらない。
けれど、ノートを持つ手に少し力が入った。
次に、凡田の番だった。
箱が目の前に来る。
凡田は、紙を一枚引いた。
開く。
「十三番」
桜庭先生が言った。
「凡田くんは、中央列の前から三番目です」
コトハからは、斜めに離れた席だった。
隣ではない。
凡田は、何となく紙を見つめた。
ただの番号だ。
十三番。
縁起が悪いと騒ぐほどでもない。
良い席だと喜ぶほどでもない。
いかにも凡田らしい、普通の席だった。
でも、その普通が、今日は少し物足りなかった。
「隣じゃないな」
凡田が言うと、コトハはうなずいた。
「はい」
「まあ、同じ教室だし」
「はい」
「声も、たぶん届く」
「はい」
「ノートは見えないけど」
「はい」
返事が、少しだけ短い。
凡田は何か言おうとして、うまく言葉が出なかった。
そのとき、不死川が叫んだ。
「俺、凡田の隣だ!」
凡田は新しい座席表を見た。
確かに、十三番の隣は不死川だった。
不死川は両手を上げて喜んでいる。
「よろしくな凡田! 俺、この席になったら授業中寝ないって決めた!」
「それ、だいたい寝る人の台詞だぞ」
「大丈夫! 寝そうになったら俺を起こしてくれ!」
「俺の負担が増えただけじゃん」
コトハが小さくつぶやいた。
「凡田くんの隣席業務が、私から不死川さんへ移管されました」
「業務だったのか」
「引き継ぎ資料を作成します」
「いらない」
「凡田くんは、授業中に消しゴムを落とすことがあります」
「そこまで引き継がなくていい」
「眠そうなときは、少しだけ眉間にしわが寄ります」
「観察しすぎだろ」
「数学でわかったふりをしているときは、シャーペンを二回回します」
「やめろ」
不死川が感心したように言った。
「すげえ! 凡田取扱説明書じゃん!」
「取扱説明するな」
コトハはまじめな顔で続けた。
「また、雨の日は折りたたみ傘を所持している可能性があります」
凡田は思わずむせた。
「それは関係ないだろ」
「重要事項です」
「重要にするな」
不死川は目を輝かせた。
「凡田、傘持ってんのか! 今度雨降ったら俺も入れて!」
「三人は無理」
「俺、細くなる!」
「人体はそんな仕様じゃない」
教室のどこかで、ミーナが吹き出した。
白金は口元を押さえながらも、何かをメモしている。
凡田は見なかったことにした。
席の移動が始まった。
机を引きずる音。
椅子の脚が床にこすれる音。
誰かが「そこ俺の席!」と叫ぶ声。
誰かが「窓際きた!」と喜ぶ声。
教室全体が、少しだけ騒がしくなる。
凡田は鞄を持って、新しい席へ向かった。
中央列の前から三番目。
黒板は見やすい。
窓は少し遠い。
隣には不死川。
普通に悪くない席だった。
座ってから、何気なく後ろを振り向く。
コトハは窓際の席に座っていた。
光が、彼女の黒髪にかかっている。
以前の隣の席より、少し遠い。
けれど、同じ教室にいる。
コトハも、こちらを見ていた。
目が合う。
凡田は小さく手を上げた。
コトハは、一拍遅れて、同じように手を上げた。
それだけだった。
でも、凡田は少しほっとした。
一時間目は現代文だった。
桜庭先生ではなく、別の教師が黒板に文章を書いていく。
凡田はノートを取る。
隣では、不死川が開始三分で眠そうな顔をしていた。
「起こしてくれって言ったよな」
凡田が小声で言う。
「まだ寝てない。これはまぶたの自主休憩」
「寝る前段階だろ」
「凡田、俺が寝たら未来を変えてくれ」
「俺にそんな力はない」
後ろの窓際から、小さく紙が飛んできた。
凡田の机の端に、折られたメモが落ちる。
開く。
『不死川さんの睡眠移行確率は高いです』
凡田は振り向きそうになって、こらえた。
授業中だ。
代わりに、メモの下に小さく書いて返す。
『知ってる』
前から後ろへ、こっそりメモを渡すには距離がある。
凡田はどうしようか迷った。
すると、ミーナが横から手を出してきた。
「回す?」
「え、いいの?」
「授業中の秘密通信は、アイドル現場で鍛えてるから」
「どんな現場だよ」
ミーナは何食わぬ顔でメモを受け取り、後ろへ回した。
白金が途中でそれを見つけ、学級委員長の目をした。
しかし、宛先がコトハだと気づくと、なぜか急に慈悲深い表情になった。
そして、メモの端に何かを書き足してから回した。
凡田は嫌な予感がした。
しばらくして、コトハから返事が来る。
『白金さんが、授業中の文通は青春濃度が高いと追記しました』
凡田は机に額をぶつけそうになった。
横で不死川がのぞき込む。
「何それ、俺も書きたい!」
「寝てろ」
「ひどい!」
教師が振り向いた。
「そこ、静かに」
「すみません」
凡田は小さく頭を下げた。
後ろの窓際で、コトハも同じように頭を下げているのが見えた。
隣ではない。
でも、同じタイミングで叱られた。
凡田は、それが少しおかしくて、少しだけ笑いそうになった。
昼休み。
席替え後の教室は、まだ落ち着かない。
新しい隣同士で弁当を広げる生徒。
席の近さにそわそわする生徒。
前の席を引いた生徒が、黒板の圧を嘆いている。
凡田は購買でメロンパンを買い、中庭へ向かった。
ベンチには、猫宮が先にいた。
いつも通り、世界の席替えなど知ったことではないという顔で丸くなっている。
少し遅れて、コトハが来た。
手には不明事項記録帳。
「席、どう?」
凡田が聞くと、コトハはベンチに座りながら答えた。
「窓際は、風の情報量が多いです」
「感想が独特」
「校庭の声も聞こえます」
「悪くない席じゃん」
「はい」
コトハは少しだけ間を置いた。
「でも、君の消しゴムは借りにくいです」
凡田はメロンパンの袋を開けながら笑った。
「消しゴム、そんなに重要だったのか」
「隣の席の代表的交流です」
「代表にするな」
「では、ひとつ質問があります」
「何」
「隣でなくなった場合、となりの席のアカシックレコードではなくなりますか」
凡田の手が止まった。
コトハは真面目な顔でこちらを見ている。
冗談ではないらしい。
「タイトルの心配?」
「存在定義の確認です」
「大げさだな」
「私は、君の隣の席で始まりました」
その言葉は、静かだった。
風が、ベンチの下を抜ける。
猫宮が薄目を開け、また閉じた。
凡田は、メロンパンを半分に割った。
片方を、コトハに渡す。
「席が変わっても、同じクラスだろ」
「はい」
「昼休みにここで会える」
「はい」
「メモも回せる」
「教師に見つかる危険があります」
「まあ、それはある」
「不死川さんが混入する可能性もあります」
「それもある」
「白金さんが青春濃度を測定します」
「それはやめてほしい」
コトハはメロンパンを受け取った。
凡田は続けた。
「でも、隣じゃなくても、話せる」
コトハは、メロンパンを見つめた。
「隣でなくても」
「うん」
「約束は、有効ですか」
「傘の?」
「はい」
凡田は少しだけ顔をそらした。
「有効だろ」
「座席配置変更後も」
「席替えで約束は消えない」
コトハは、その言葉を不明事項記録帳に書いた。
『席替えで約束は消えない』
凡田は、何も言わなかった。
メロンパンを食べる。
今日のメロンパンは、少しだけ生地がかためだった。
前に食べたものと、同じではない。
たぶん、毎回少し違う。
同じ名前で、同じ形をしていても、その日の味はその日だけのものだ。
コトハが小さく言った。
「今日の味は、少し違います」
「だな」
「でも、おいしいです」
「うん」
「席も、少し違います」
「うん」
「でも、同じ学校です」
「そうだな」
コトハは、ほんの少しだけ笑った。
「それなら、記録を継続できます」
「記録?」
「はい」
コトハは不明事項記録帳を閉じた。
「いえ」
少しだけ言い直す。
「体験を、継続できます」
凡田は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
大げさな事件ではない。
席替えしただけだ。
隣ではなくなっただけだ。
それでも、コトハにとっては大きな変化で。
凡田にとっても、少しだけ大きな変化だった。
午後の授業が終わる頃には、新しい席にも少し慣れてきた。
不死川は三回寝かけ、二回起こされ、一回だけなぜか自力で復活した。
「俺、今日めっちゃ授業受けた気がする!」
「気だけじゃなくて受けろ」
凡田が言うと、不死川は笑った。
「凡田が隣だと安心するな!」
「それはどうも」
「明石さんが引き継ぎ資料くれたし!」
「え」
不死川は鞄から一枚の紙を出した。
そこには、きれいな字でこう書かれていた。
『凡田くん隣席対応メモ』
一、消しゴムを落とした場合、本人より先に拾うと少し驚く。
二、授業中に寝そうな人を見ると、文句を言いながら起こす。
三、からかわれると否定するが、約束は守る。
四、雨の日は傘を持っている可能性が高い。
五、普通と言われると少し困る。
凡田は紙を持ったまま固まった。
「コトハ」
窓際のコトハが顔を上げた。
「はい」
「これ、作った?」
「はい」
「いらないって言ったよな」
「必要でした」
「どこが」
「隣席業務の品質維持」
「品質って何」
不死川が元気よく言った。
「大丈夫だ凡田! 俺、ちゃんと読む!」
「読まなくていい!」
白金が後ろからのぞき込んだ。
「五番、非常に解釈の余地がありますね」
「解釈するな」
ミーナも寄ってくる。
「四番だけ妙に詩的じゃない?」
「読むな」
教室のざわめきが、また大きくなる。
凡田は紙を鞄にしまおうとして、ふと止まった。
捨てるのは、何となく違う気がした。
だから、折ってノートの間に挟んだ。
コトハがそれを見ていた。
「保管しますか」
「証拠としてな」
「証拠」
「あとで抗議する」
「抗議は受理します」
「受理するのか」
「はい。ただし撤回はしません」
「一番困る対応だ」
放課後。
凡田は下駄箱で靴を履き替えた。
外は晴れていた。
昨日の雨が嘘みたいに、空は明るい。
傘は必要ない。
でも、鞄の中には折りたたみ傘が入っている。
入れっぱなしになっていただけだ。
それだけのことだった。
昇降口を出ると、コトハが少し前を歩いていた。
窓際の席になってから、彼女は教室を出るタイミングも少し変わった。
隣の席だった頃のように、何となく同時に立ち上がることは減るかもしれない。
それでも、校門へ向かう道の途中で追いつける。
凡田は少し歩幅を早めた。
「コトハ」
コトハが振り向く。
「はい」
「帰る方向、一緒だろ」
「はい」
「じゃあ、行くか」
コトハは一度、教室の窓のほうを見た。
新しい席がある場所。
それから、凡田のほうを見る。
「凡田くん」
「何」
「隣の席でなくても、帰り道は隣です」
凡田は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……まあ、そうだな」
「配置変更には、別経路で対応できます」
「急に事務的にするな」
「では」
コトハは少し考えた。
「席は離れましたが、道は近いです」
凡田はうなずいた。
「それでいい」
校門の先で、不死川が自転車に乗ろうとして、なぜかサドルの高さに敗北していた。
白金が上品に見守りながら、ミーナが動画を撮ろうとしている。
桜庭先生が職員室の窓から「危ないことはしないように」と声を飛ばす。
猫宮は塀の上で、すべてを見ていないふりをしている。
いつもの学校だった。
少し席が変わっても。
隣が変わっても。
わからないことが増えても。
日常は、終わらない。
形を変えて、続いていく。
凡田は歩き出した。
コトハも、隣を歩いた。
夕方の風が、二人の制服を少しだけ揺らす。
コトハが、不明事項記録帳を開いた。
「歩きながら書くなよ」
「重要事項です」
「何」
コトハは、ゆっくりと一行を書いた。
『隣は、席だけではない』
凡田は、それを横目で見た。
何か言おうとして。
結局、言わなかった。
言わないまま、二人で歩いた。
知らない明日は、まだ怖い。
でも、今日わからなかったことの一つには、もう答えがついた。
隣の席でなくても。
隣を歩ける。
それはたぶん、宇宙のどんな記録よりも、今のコトハに必要な答えだった。
第8章では、席替えを通して「隣」という関係を少しだけ広げました。
第7章でコトハは、知らないことを怖がりながらも、凡田と一緒に歩くことを覚えました。
今回はその続きとして、隣の席が変わるという小さな日常イベントに、不安と笑いを重ねています。
コトハは、全知を取り戻していません。
くじの結果も、友達の反応も、自分の気持ちも、すぐにはわからないままです。
けれど、わからないからこそ、凡田に聞ける。
離れたからこそ、席以外にも「隣」があると知る。
第7章の静かな余韻を崩さず、二年三組らしいギャグを少し戻しながら、新しい日常が続いていく形にしました。




